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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 5 (22/4/20) 南風原町 (5) Kanegusuku Hamlet 兼城集落

2020.04.25 07:57

Kanegusuku Hamlet 兼城集落

兼城集落

兼城村の初期に、玉城王の末子の大城按司の次男 稲福大主が兼城に先住していた新屋大主の養子となって兼城にはいったとあり、歴史書では、17世紀の「琉球国高究帳」に兼城村が現れている。1713年の「琉球王国由来記」には兼城の各処祭祀の記載がある。1731年の「琉球国旧記」や1745年の「球陽」にも兼城の神殿、村名、火神、獄森威部や「アカカシチーの由来」が記されている。三山時代には内嶺 (ウチンミー) 按司 (兼城按司) が内嶺 (ウチンミー) グスク (兼城グスク) を中心にして中山に属し、第1尚氏からとは婚姻関係で結びつき栄えた。第2尚氏時代は首里王府の直轄地として首里の影響を大きく受けた。

兼城は人口約6千人で南風原町では津嘉山、宮平に次いで三番目に多い字で、南風原町庁舎が置かれている。

軽便鉄道与那原線 南風原駅跡

住まいから、国場川に沿って走っている国道329号線で兼城集落に向かう。集落近くになると国場川は宮平川との合流点がある。合流点から宮平川に入った所に戦前にあった軽便鉄道与那覇線の南風原駅があった場所に着く。宮平川に橋が架かっており、軽便橋と名がついていた。沖縄線で破壊された橋を復元したもの。

ここから今日お目当ての内嶺[兼城]グスクが見えている。

内嶺 (ウチンミー) [兼城] グスク

1380年頃に、首里城から内嶺按司 (ウチンミーアジ) が一族をひきつれて、標高40mの丘陵上にある上殿内毛 (いんとぅんちもー) 内に内嶺グスクを築き、初代内嶺按司 (兼城按司) となったの。内嶺按司は、鍛冶を行い農業を推奨したといわれている。(ウチンミーは鍛冶屋を意味しているとも云われている。) 言い伝えでは、尚巴志から鉄塊を受けて鍛冶を打ち《鍛冶打ちの嶺(ウチンミ)》鉄具を作って農を興したとされている。尚巴志が父を継いで佐敷按司になったのが、1393年で、中山王の武寧 (在位1396-1405年) を滅ぼし中山を奪ったのが1406年である。ここに内嶺按司が移って来たのは、中山王察度の時代だ。尚巴志が鉄を農機具に本格的に活用し始めたのが佐敷按司になる少し前で、鉄塊を受けて鍛冶を打ちを始めたのは尚巴志が佐敷按司の前後の頃だろう。

ここに移ってきた内嶺按司を継いだのが2代目内嶺按司 (多分初代按司の息子だろう) だが、照屋集落の訪問記 (4月16日) で触れた安平田子 (アヒラジー、3代内嶺 [兼城] 按司) の義父にあたる。この安平田子は中山国の首里王府に討たれたとあるが、多分、2代内嶺按司は首里王府軍として安平田子の追討に参加していたのだろう。この後に、安平田子 (3代内嶺[兼城]按司) の後を4代として継いだのが、安平田子側室の息子だ。この4代兼城按司には後継がおらず、養子として5代按司を継いだのは、北山最後の王である攀安知 (はんあじ) の五男 虎寿金 (とぅらじゅがに) と云われている。1416年に尚巴志により、北山が滅ぼされた後、北山王攀安知 (ハンアンチ) の婦人、今帰仁 大阿護母志良 (なきじん おおあもしられ 真加戸金) とその子、外間子 (ふかまし 三男 思鶴寿金)、喜屋武子 (ちゃんくし 四男 思徳寿金)、今帰仁子 (なきじんし 五男 虎寿金 落城後誕生) は捕虜となり中山に連行された。虎寿金はここの内嶺[兼城]按司に引き取られた。三男と四男は中国に留学までさせてもらっている。五男 虎寿金は成人後、尚巴志の弟の美里按司の娘婿となり、後に内嶺 [兼城] 按司の養子となる。これは攀安知の次男 志慶真王子が実母の弟が南山王他留毎 (タルミィー) であったことより、南山に身を寄せていた事を牽制する為と云われている。政治的なこともあるが、尚巴志が非常に寛大な王であった様に思える。その後、虎寿金は第2尚氏初代尚円王に引き立てられ内嶺 [兼城] 按司を継ぐことになった。 これは、尚円王の妃が虎寿金の義父の兼城按司の娘であった関係と推測されている。おそらく、この時期が兼城按司の時代で一番栄えた頃ではなかっただろうか。第2尚氏時代には (いつからかは調べ切れていないのだが) 兼城を含めた南風原間切は首里王府の直轄地となって、兼城按司の勢いは削がれていたのではないだろうか。これはこの地域が首里と隣接していることと、尚円がクーデターで滅した第1尚氏との婚姻による関係の深さが一つの理由と推測できる。兼城グスクの歴史についてすっきりと判るものが無く分かりにくい、細切れな情報しかないので、その部分的な資料をいくつもつなぎ合わせて、次の様な図を作って見た。これを見ると、三山時代から琉球王朝第二尚氏初期まで歴史上無視出来ない存在だったと思われる。

このグスクは標高40mの高台に築かれており、集落は グスクを中心に形成されていた。グスク跡には石垣などに遺構は残っていない。ここに築かれていた石垣は首里城の修復や国道329号線の工事に使われたのが理由だ。丘陵の麓にある公民館に自転車を停めてグスク跡を目指して坂道を登る。公民館はムラヤー (村屋) だったのだろう。坂道には家がぎっしりと建っており、自動車は通れないぐらい狭い路地が民家の間をめぐっている。ここは兼城集落の中心だった。

公民館のすぐ下に小さな公園がある。元々はもっと広く、集落住民が集まるアシビナーではなかっただろうか。ここには大きな木が植っていて、板の看板が掛かっている。キジムナーがいますと書いている。沖縄の人はみんな知っている妖怪の事。この妖怪の性格は沖縄でも所によって異なる。災いをもたらす怖い妖怪としている所、悪戯好きの子供の妖怪、気に入られると良くしてくれる妖怪など様々だ。今はマスコミなどでマスコットになっており、悪戯好きの可愛い子供の妖怪のイメージが一般的になっている。

グスクとその周辺の史跡を地図上にプロットしてみた。

内嶺グスクは二段の曲輪になっている。(上の地図では黄色になっている下の部分) 本土の城でいえば、まずは二の丸はあり、その上に本丸跡があるという構成になっている。二の丸は現在ゲートボール場になっている。

二の丸から本丸に登ると、グスク跡の碑が建っている。本丸は平らで、比較的広い敷地であったように思える。ここには多くの拝所や井戸がある。

城跡にある拝所などを見てみよう。


合祀拝所

グスク跡には、いくつかの拝所がある。その一つが兼城集落に点在していた拝所を合祀したものだ。右から野原門、前ヌ殿、里主殿、中ヌ殿、西ヌ殿の5つの殿 (トゥン) が並んでいる。大屋門中 (ウフヤムンチュー) が管掌している。地元の人とは確認はしていないのだが、恐らくこの集落の10ほどある門中いくつかの殿 (トゥン) と思う。それをまとめていたのが大屋門中 (ウフヤムンチュー) だったのかもしれない。野原門中は集落内に拝所を持っていた。

兼城ノロ火の神 (ヌルヒヌカン)

もう一つ拝所がある。兼城ノロ火の神で、内嶺の嶽 (この御嶽がどこにあるかは調べてもわからなかった)、眞南風之嶽と共に兼城三代拝所のひとつ。首里王府から任命された兼城ノロが、それら三神の神事祭祀を司っていた。ノロ神役は下原門中が継承し、根神 (ニイガン)、根人 (ニーッチュ) をそれぞれ大屋と喜納門が管掌していた。ここで根神 (ニイガン)、根人 (ニーッチュ) という聴き慣れない言葉が出てきた。これは沖縄特有の古来信仰が民衆の中で出来上がった体制だ。琉球時代、各集落 (マキョ) または各門中ではその集団を率いる政治的リーダーを根人 (ニーッチュ) と呼び、通常、その妹が根神 (ニイガン) の宗教的リーダーとして、根人 (ニーッチュ)の守護神という体制であった。複数の集落を治めた按司 (本土では大名) の場合は、その根神 (ニイガン) はノロ となる。琉球王朝第二尚氏尚真王がこの体系を国政に導入し、祭政一致体制を確立した。各間切や地域に琉球王朝が指名するノロが常駐をし、その下に古来から続いている先程の根神 (ニイガン)、根人 (ニーッチュ) 体制が維持されていた。この兼城集落の場合、下原門中の根神 (ニイガン) がノロに指名されたということだろう。この兼城ノロ火の神は別名ノンドゥンチと呼ばれている。ノンドゥンチとはノロ殿内でここにノロの屋敷と拝所があったのではと思う。「根神 (ニイガン)、根人 (ニーッチュ) をそれぞれ大屋と喜納門が管掌していた」と書かれてあったが、根神が別の門中になっているのは、古来の体制と異なる。何故なのか?コロナウィルスが終息したらもう一度訪問して聞いてみよう。

野原門御井戸/火の神/野呂御井戸

兼城ノロ火の神の裏手には二つの二つの井戸跡と拝所がある。野原門御井戸 (ヌバンジョーウカー)の横には火の神 (ヒヌカン) を祀った拝所。先程の合祀拝所にあった野原門の物だろう。もう一つは野呂御井戸 (ヌールウカー)

柳御井戸 (ヤナギウカー)

さらに野原門御井戸の向こうには柳御井戸 (ヤナギウカー) と拝所がある。グスク内の飲料水はここから取っていたのだろう。

外間崎 (フカマザチ)

グスク内に外間崎 (フカマザチ) と云う場所がある。照屋集落の訪問記に書いたのだが、この兼城集落に伝わる「カチシーの由来記」に関わる場所だ。内嶺按司の娘が生き返り、家に帰ってきたときに魔除のために柴差 (シバサシ) を行うのだが、そのシバの笹を採った場所がここと伝わっている。考えてみれば、娘が住んでいた按司宅がこのグスクだったので、ここにあった笹を使うのは道理だ。昔からあったのかはわからないが、グスク内には笹林がいくつかあった。この場所には拝所が置かれてあった。

真南風之御嶽 (まはえのうたき)

グスクから下に少し降り、先程二の丸から集落への出口に御嶽がある。ここがかつての内嶺 (うちみね) グスクの入り口であった場所だ。庶民はグスク中に入ることができず、この場所から拝んだそうだ。現在はガジュマルの根元に香炉がひとつ置かれてる。喜納門が管掌。

東 (アガリ) の石獅子

兼城にも石獅子がある。二の丸の東の端に立っている。この石獅子は昔からのものではなく、沖縄戦で消失してしまったが、戦後、同じ場所に陶器製のシーサーを設置していた。それを平成21年に昔通りの石獅子が復元したもの。南風原町、隣の南城市や八重瀬町にも多く石獅子があるのだが、ほとんどは東風平にある八重瀬岳の火山 (ヒーザン) への「ケーシ (返し)」のために置かれているのだが、兼城の石獅子は隣の那覇の上間を向いている。兼城と上間の間に何があったのだろうか? これには言い伝えがある。「昔、上間には3つのチチ石 (力石) があった。ある日、兼城の若者が上間に遊びに行き、上間の人から、チチ石を3つとも持ち上げられたら兼城に持ち帰っていいと言われたそうだ。そこで、若者がチチ石を持ち上げてしまい、そのチチ石を持ち帰彫ってしまった。上間の人達は怒って兼城に対して様々な嫌がらせをし始めたという。兼城の人々は、その嫌がらせに対抗する「ケーシ (返し)」として、石獅子を上間に向けて置いたのだ。」

チチ石 (力石)

公民館の前にそのチチ石 (力石) が置かれている。二つしかない。もう一つはどうしたのだろう? 思ったほど大きくない。これならば持ち上げることができるだろうと思っていたのだが、ひょっとして3つを同時に持ち上げるという事だったのだろうかとも思った。コロナウィルス騒ぎが、収まればもう一度ここにきて村の人に聞いてみよう。

この石獅子には、もう一つ言い伝えがある。「昔、兼城にはジャー (龍蛇) と獅子が長い間喧嘩をしていた。ついにジャー (龍蛇) が勝利して、人々からは雨を降らす良い神とされていた。一方、負けた獅子は2つに分断され、獅子の頭部分は西の石獅子、胴体部分は東の石獅子になったという。」

兼城での一番の祭りは綱曳きで、夜に行われる。この祭りでは、神となったジャー (龍蛇) が登場し、火を口から吹く。今年はこの綱曳きは開催できるだろうか?

西 (イリ) の石獅子

グスクの西側にある集落の先にもう一つの石獅子が残っている。言い伝えの割られた石獅子の頭部分のほうだ。石獅子はかなり痛んでハゲ落ちているのだろうか、どちらが頭か尻尾かわからない。両方から写真を撮った。さて、どちらが頭だろう?どうも下の左下写真から見ると、これが頭の様に見える。解説ではこの石獅子も上間の方向を向いている。ということは、頭と思っていたのは尻尾の方だった。つまり写真右上が頭がこちらを向いているのだ。

サーターヤー跡

丘陵の上にある西 (イリ) の石獅子のその下側の麓にはかつて製糖所 (サーターヤー) があったそうだ。今は鬱蒼とした林になっており昔の面影はない。

慰霊塔

グスクの本丸跡には先の大東亜戦争、沖縄では沖縄戦というのだが、その時のこの集落の戦没者の慰霊塔が建っている。慰霊塔の下側にはその時に亡くなった人の氏名が、当時の住所番地ごとに記載されている。これを見ていると、胸が痛くなった。続き番地が多い。お隣さんも犠牲になっている。女性の名前が多い。兵隊として戦死したのではなく、民間人として戦火に巻き込まれている。一つの番地で、7人、9人と亡くなっている。一家すべての人が亡くなったのだろうか?記載されているのは53番地から。それより小さな番地の地域は戦火から免れたのだろう。運が運が悪い。これを見ているだけで、戦争の悲惨さが見えてくる。

グスク跡から集落におり、集落にある史跡を見てみよう。


兼城グスクの門中

グスクのある上殿内毛 (いんとぅんちもー)の丘陵の麓に前述の門中である下原門中、大屋門中と喜納門中の村落がある。この3つの門中は兼城集落の始祖であり、この兼城集落を仕切っていた。現在は枝分かれした10の門中が存在する。どこの字でも同様だが、集落はいくつかの門中がが存在し、地域有力者としてその地の按司や地頭を補佐していた。案内板ではこの下原門中、大屋門中と喜納門中が地図上に乗っていたが、下原門中は現在でもこの地域で力を持っているのだろう、独立した会合所を持っていた。本土の田舎の集落も同じ様な体系であった。自分の田舎の小豆島福田も同様だった。小さな集落だが、その血縁でいくつかのグループ分けができていた。沖縄の門中程、強い繋がりではないが、似た様な感じだ。現代で本土の人 (特に都会の人) が沖縄を見るとエキゾチックに思えるが、これは実は本土の一時代前とよく似ている。本土は昔の風習、習慣がどんどん行っているのだが、沖縄ではまだその速度は遅く残っている物が多い。それが何故なのかは興味あるところだ。これから色々なところを見て、地元の人と話していくうちに少しは理由がわかっていくだろう。


[下原門中] 一般社団法人になっている。建物の両脇には拝所があった。下原門中は集落のリーダーとしての根人だっただった。

野原門拝所

グスク跡には野原門に関わる拝所が二つあったのだが、集落内でも立派な拝所が造られている。この門中も有力門中の一つだったのだろう。

[大屋門中] 地図ではこの辺りが大屋 (ウフヤ) 門中があったとあるのだが.... 大屋 (ウフヤ) 門中は昔から続く由緒ある門中。

[喜納門中] ここも地図上ではこの辺りの筈。グスクに向かう坂道の途中。

兼城集落には多くの井戸跡が残っている。その一つ一つを見ていこう。


ジーマシ井戸 (ガー)

集落の西の端から宮平川を渡った所にある井戸跡

ミーウカー (新御井戸) / イチニガー

公民館から宮平川方向に降った所に二つの井戸跡が並んでいた。

2号ガー (ホンプガー)

集落の中心から離れたところに2号ガーと呼ばれる井戸跡がある。ホンプガーと書かれている。公園になっているところを見ると、この公園は元々は水場となっていたのではと思われる。

1号ガー (東ガー)

名前の通り集落の東側に位置する井戸跡。ここも井戸の周りが広く取られているので、洗濯などができる水場になっていたのかもしれない。

メントゥヌガー

住宅の庭先に井戸跡がある。ここは殆ど東の端で、数メートルで宮平集落との境になる。

集落内にある井戸跡は、宮平川に沿って点在しており、集落のある丘陵の斜面が、宮平川に近づき平らになった所に点在している。集落は水捌けの良い斜面に造られている。


松川ガー

集落から宮平川を渡り、南に行くと黄金森 (コガネムイ) に突き当たる。この黄金森の兼城集落に向いた北の斜面は墓地になっている。その近くに、もう一つ井戸があった。現在の南風原小学校のグラウンド付近にあった。松川ガー (マチガー) と呼ばれた水場があったが、小学校建設時に埋められたそうだ。今は拝所があるのみ。

印部土手石 (シルビグァー)

小学校のグラウンド内に印部土手石 (しるべどていし、シルビグァー) とか原石 (ハルイシ) と呼ばれるものがあった。この石は琉球王府が元文検地 (1737~1750年) を行ったときの土地測量の目印と境界に使った図根点で、明治時代まで、田畑の面積を測量するための基準点として使われてきた。石には土手の所在地とひらがなが刻まれている。それらは、各間切 (今の市町村) に 200~300ヶ所ほど設置されていたが、今はそのほとんどは残っていない。ここの印部土手石は貴重な史跡だ。ただこれは平仮名の何なのか?「ゐ」だろうか?

按司墓

黄金森の北の麓に按司墓がある。解説を見ると、どうも第三代兼城按司の安平田子の墓の様だ。悪霊除けの柴差しのシバが置かれている。

古そうな墓

兼城集落の有力門中の墓がある。リーダーの下原門中、喜納門中。

幾度も見かけた野原門は按司墓となっている。

その他の門中の墓もある。

慰霊祈和之塔

この慰霊祈和之塔は日露戦争、日支事変、大東亜戦争の戦没者の冥福を願って建てられた。ここ南風原町は、沖縄戦当時、首里の第32軍司令部へ物資を補給する後方基地と位置付けられ、黄金森や村の丘という丘に壕が構築され、要塞の村となっていた。ここには南風原村民の43%にもあたる3,825柱、無名氏3,700余柱が合祀されている。これほど多くの村民が巻き込まれたのは、米軍がこの地に進攻してきた際に、村民は軍と行動を共にしたため、住民への被害が拡大したという。慰霊塔の周りには犠牲となった南風原町民を字ごとに刻印した礎 (いしじ) があった。これも胸が痛む光景だった。

これで兼城集落の見学は終了。天気予報では4月末から5月初めには梅雨が始まるそうだ。それが始まるまでに南風原の残りの字が見れれば良いのだが.....


今日の夕食は竹の子なしのピーマンたっぷりの青椒肉絲、大盛り野菜サラダと平さやの胡麻和え。