法隆寺を支えた宮大工の郷と国宝藤ノ木古墳2
法隆寺大工と番匠の里―
世界遺産をつくった〝中井正清大和守〟
法隆寺に隣接する字西里(にっさと)・字東里(ひがっさと)集落は代々法隆寺を支えた〝鵤番匠〟とか〝法隆寺大工〟と呼ばれた番匠の里(元文2(1737)年記録では、大工棟梁11名・仕手大工35名とその他杣職人・木挽職人多数)。天王寺宮大工(金剛組)・京宮大工(中井役所)の故郷でもある。
慶長大普請の大工棟梁の「中井正清大和守」は、永禄8(1565)西里で鵤番匠四姓中村大夫家の技術継承した大工棟梁〝正吉〟(創建方広寺大佛殿普請「棟梁司」・祖父は万歳城城主と傳)の子として生まれた。徳川家康に重用「徳川家御大工」され、天正16(1588)年には伏見城・二条城・知恩院作事大工棟梁として参画、法隆寺大修理・方広寺再建、駿府城・江戸城・増上寺造営にも関わり、慶長11(1606)年に従五位下大和守に叙任され〝一萬石大名格〟になり、諸侯に列した(慶長19年大坂冬の陣に赴く途上の家康は、西里中井屋敷隣接の〝阿弥陀院に止宿〟記録あり)。その後の京都御所・二条城・日光東照宮・名古屋城・大坂城再建などや建設ラッシュの全国の城普請(普請:建築・作事:土木)を手掛け、大工仕事の多くにも法隆寺大工(親方の6割以上は西里・東里・斑鳩周辺の地名あり)は関わった。〝現存建物の多くは、今世界遺産である。〟
元和5(1619)年正清は、江州水口で、54歳で没するが、大棟梁の地位は子孫代々受け継がれ五畿内・近江6箇国の大工・大鋸木引(おおがこびき)を支配する「京都大工頭中井役所」として幕末まで存続した(2代正侶・3代正知・3代後見正純は大和守。中井役所は元禄5年の記録によると6箇国大工6,677人を率いたとされ、御扶持人棟梁3人の京大工下の頭棟梁5人の内4人、並棟梁89人中46人が法隆寺大工で占められ半数以上に上る。その内在京者と斑鳩在住者は半々)。中井家に残された城郭・武家屋敷・内裏・公家屋敷・寺社・数寄屋・書院の指図も含めた伝来文書が近年公開され5,195点が重要文化財の指定を受けた。
地元の長谷川・岡島・安田家は五畿内鑑札を預かってきたが(幕末には長谷川伊大夫家・安田武大夫家の二家)、安田家(杢兵衛・武大夫)に残された6,131点の文書は、一括斑鳩町へ寄付されて平成23年町指定文化財になり近年目録が作成されている。
2月22日は太子の命日にあたるが、大工の信仰結社「修南院大夫座」は、法隆寺の修南院(本尊太子十六歳影辨財天・東林寺)で文明7(1475)年に大工が〝職業神聖徳太子〟を祀る為に一味同心して東院の東に太子堂を建立したのに始まる。法隆寺大工大夫の上席10人内一老が住職となって運営展開された(幕末以降安田家が棟梁惣代・住職となったが、明治6年廃寺)。
全国の大工・左官・石工の職人間に広まった修南院大夫座の影響下の太子信仰(太子講)の御影を掲げる縁日は今も全国で22日に行われている。来(2019)年中井正清没後400年の節目年である、果たして斑鳩町住人の知名度はいかにである。文献:吉田純一『京大工頭中井支配下の棟梁層の形成過程と組織化に関する研究』1985、谷直樹『中井家大工支配の研究』思文閣出版(株)1992、中井正知(13代)「豊臣から徳川政権を駆けぬけた〝御大工の巨人、中井大和守正清〟」『アップル叢書』23 1999・『太閤の認めた法隆寺大工』私家本 2006、谷直樹編『大工頭中井家の建築指図集-中井家所蔵本-』思文閣出版(株) 2003、『安田家文書調査報告書』斑鳩町文化財調査報告第6集 2009
蛇足:西里に「阿弥陀院」法隆寺塔頭が近年まであったが、老朽化で取り壊され現在は空き地として残されている。慶長19年の大坂冬の陣(1614.10.)の折り、徳川家康が泊宿した事は述べたが、戦の中大坂(豊臣)方により中井屋敷に放火され西里集落は全焼したが、法隆寺山内は又も奇跡的に無事と伝える。
この塔頭は、昭和15年から始まった国宝金堂壁画模写事業荒井寛方画伯班(寛方・素賢・三朝・白英)の拠点宿となり、「斑鳩夜話」を発信していた事も記録しておこう。文献:『阿弥陀院雑記』鵤故郷舎 1943 (『再販改訂版 阿弥陀院雑記』黒須光雄刊 1975)、野中退蔵『荒井寛方―人と作品』中央公論美術出版 1974
【freelance鵤書林191 いっこうA2記】