病気と私 31 部活
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よろしくお願いします。
1983年~
----- 高校2年生 -----
3年生が卒業してしまうと、
時々しか部活に出て来ない女子の先輩一人と
新入部員だけになってしまった。
先輩が、私は部長なんて無理だからやってちょうだいというので、引き受けることにした。
(前年度のうちに卒業してく先輩にもやってもらいと言われてはいた)
新入部員は、女子4名、男子2名だった。
科学部の部員は、総勢120名ほどになっていたので、私は、この幽霊部員全員から、部費を集めようと思い、年間で1000円と勝手に金額を決めて同級生と下級生から集め始めた。
すると、部費を払ったんだからと、部室に来る同級生が何人か出てきて、その中の一人に、背も高くパンチパーマの強面で、1年生の1学期だけ出席して単位不足で1年生をもう一度やったという同級生が部に顔を出すようになった。
この人は、入学して間もなく親の手伝いをするために原付の免許を取り、それが学校に知れて停学になり、家の手伝いをしないわけにはいかないので学校を辞めると言って、その後学校に来なくなってしまった。
停学になる前に、中間テストを受けていたのだが、このテストの成績があまりにも良くて、学校に戻って来いと先生が説得をしたのだが、結局家の手伝いをしていて、その後も学校に来ることはなかった。
在籍したままだったこともあり、3学期の終わりに先生が自宅まで行って、今時何をするにも高校は卒業しておかないとダメだと更に説得され、1年遅れで学校に来るようになったということだった。
結局、私の同級生で残ったのは、この人一人だった。
そして、自分で言うだけのことはあり、本当にとても頭のいい人だった。
数週間が過ぎて、部活も落ち着いてくると、2年生は私とパンチさんの二人、そこに1年生の6名が加わり、そのメンバーでスタートすることになった。
(3年の先輩は、相変わらず来たり来なかったりだった)
科学部の部費は3年生から集めるのはとても無理だと思っていて、あきらめていたのだが、パンチさんが、「俺が集めてきてやるよ」と言ってくれたので、「払ってくれる人だけでいいので無理しないでください」と頼んで、お願いしてしまった。
パンチさんは地元の中学を出た人で、友達もとても多かったのだ。
科学部の活動は、天体観測に関することが主になっていて、年に2回合宿をして天体観測をすることが恒例となっていた。
「うちゅうじん」の観測と、「黒点」の観測は、私には無理だった(天体望遠鏡を天気のいい日に中庭に運ぶということができなかった)ので、一度リセットして、新入部員の一年生を含め、何をやっていきたいか話し合って決めることにした。
パンチさんが天文学に詳しいということと、新入部員たちがかなり乗り気だったので、天体観測をメインに、年に1回ある県内の研究発表(運動部で言えば県大会のようなもの)に参加することを目指すことにした。
前年度の3年生が、「ここ数年は参加できていないので、やりたいんだけどな」と言っていたのを思い出したので、部の顧問に詳細を聞いて、参加申し込みを出してもらえないかと話をすると、二つ返事でOKをもらい、発表の内容を検討することにしたのだ。
部の顧問は、前年度と違う先生になっていた。
先生は、最初の合宿に差し入れを持って来てくれて、観測のやり方など色々と教えてくれたが、その後の合宿に顔を出すことはなかった。
しかし、ほぼ毎週行っていた合宿の申請書にはすぐに印鑑を押してくれて、その他にも、お願いしたことは何でも快く引き受けてくれて、自分たちの活動にはとてもありがたい存在となっていた。
部費が十分に集まったことが、とても効果的だった。
合宿には、食費やストーブの灯油代、資料作成にかかる費用など、結構お金がかかるのだ。
合宿の主な内容は、天体観測と、天体写真の撮影、それに伴う資料の作成だった。
中学の時に、写真部の先生が期限切れのフィルムをもらってきていたことを思い出し、町にあった写真屋さんに声をかけて、そこから印画紙などを購入する代わりに、期限切れのモノクロフィルムを譲ってもらうという約束をして、順調に部活らしい部活になっていった。
写真屋さんは、とても親切で、最初の話ではモノクロフィルムだけの約束しかしていなかったが、その他にも、カラーのリバーサルフィルムや印画紙など、期限切れ間近のもの、期限の切れたものはなんでも譲ってくれた。(カラーの現像にお金はかかったのだが・・・)
部活は科学部、クラブ活動は写真クラブだったので、天体写真はクラブ活動の時にも現像したりすることができた。
ただ、写真クラブには変な人たちも沢山いたので、微妙にやりにくい部分もあった。
そうは言っても、私以外のメンバーはカメラを持って校内をウロウロしているだけで、暗室を使う人は私しかいなかったので、作業を邪魔されるようなことはなかった。
(時々、作業を見たいという人は居て、中で一緒に焼き付けをしたということはあった)
合宿をしないと天体写真が撮れなかったので、県大会の資料作成までは結構大変だった。
日曜日の夜は寝ていないので、月曜日の昼間はかなり眠くて授業中に居眠りしたり、それでも、なんとか大会までには資料も仕上がり、本宮で開催された県大会に参加することができた。
その時の賞状には私の名前が部長名で書いてあり、おそらくは今でも額に入って科学室に掲示してあるのではないかと思う。
実際にはパンチさんの方が天体には詳しくかったため、功労者という意味では、彼の方がよほど役に立っており、申し訳ないような気もしたが、その賞状に私の名前が書かれてることは、とても誇らしかった。
星雲の写真は、望遠鏡の性能の関係もあり、うまく撮れたものがなかったが、土星の写真や、木星の写真など、惑星の写真は結構綺麗に撮ることができて、とても楽しかった。
合宿には、1年生の女子も同じところに寝たりしていたのだが、今から考えたらちょっとよろしくないようなことになりかねなかったなとは思うが、当時の私はそういうことにとても無頓着で、興味もなかったため、なんとも思っていなかった。
私は写真撮影専門で、資料作成に関することはパンチさんにほとんどお願いしていた。
パンチさんが1歳年上ということもあって、頼ってしまっていた部分も多く、1年生の面倒見も良くて、彼がいなかったら、到底やりきれるものではなかった。
パンチさんは、部活に来るようになってからずっと言っていたのだが、弓道部を作りたいと言っていて、研究発表が終わった後、本格的にメンバーを集めたりし始めて、3年生になった時には「弓道愛好会」を作って、科学部を抜けて行った。
3年生になってからも、時々部には顔を出してくれていて、合宿の時なども必ず来てくれていた。
3年生になってからの部活は、私が受験生だったこともあり、部長ではあったが、活動自体はほぼ2年生に任せていたので、あまり活発には活動できなくなっていた。
新たに入ってきた1年生は、あまり天文に興味がないようだったし、年に数回あった合宿は、研究というより遊びに力が入ってしまい、県大会での発表ができるような状態ではなかった。
また、3年生になると、友人のKが科学部の部室によく顔を出すようになり、連れられるようにして、Kと同じブラスバンド部員で私と同じ町に住んでいたMも科学部の部室に遊びに来るようになった。
Mは、バイクに乗っていたこともあり、そのうち私の実家に毎日来るようになり、時々Kが加わって、6畳一間の私の部屋には男3人というむさくるしい状態になることがよくあった。
週末ともなると、帰らずにそのまま泊っていくことが多かったので、私のベッドはセミダブルだったのだが、男3人で縦になって寝るのは、なかなか酷い光景だったのではないかと思う。
科学部の合宿は、色んな意味でとても私を救ってくれた。
後輩たちは私を慕ってくれて、終始笑顔で先輩先輩と話しかけてくれた。
誰かに頼られるという経験をほとんどしてこなかったので、恋愛の相談だったり、勉強の相談だったり、どう話を聞いたらいいのかもわからなかったのに、みんな色んなことを私に話してくれた。
この子はもしかしたら、自分のことが好きなんじゃないだろうか。そう思う子も居たが、過去に起こった様々な出来事が、それを確認することを選ばせなかった。
それでも、「今日は遅くなったのでバス停まで一緒に行ってもらえませんか?」とか、「傘を忘れてしまったので、バス停まで送ってもらえませんか?」とか、高校生になったら、自分にもそんなことが起こるのだろうかと思っていたことが、現実になったことは、とても幸福なことだった。
「一つの傘で、腕を組んで歩く」
相手がそれを望んでくれる。こんな幸せがあっていいのかと思った。
#血友病#血液製剤