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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

日本宣教16-高槻にセミナリオ開校

2020.04.28 10:49

秀吉麾下の将として右近は活躍する。1583年滝川一益の亀山城包囲に参加し、櫓の下にトンネルを掘って爆破陥没させるという南蛮戦法を使って功績をあげた。ここに至って柴田勝家は遂に腰をあげ、近江へ。秀吉も1万を残して5万が対峙する。しかし織田信孝が挙兵したため岐阜に行かざるを得なくなった。

この機に勝家の甥佐久間盛政は、右近と中川清秀軍を奇襲し、勇猛を誇る清秀は戦死、右近の義兄弟2人と妻の父が戦死し、右近も辛くも戦場を離脱した。しかし秀吉は大垣城から12里の道を5時間で踏破するという「美濃大返し」、そしていわゆる「七本槍」の活躍で賤ヶ岳の戦いに勝利。その後越前北の庄で勝家を自害に追い込み、信長に続く天下人の座を固めた。

秀吉はその証として大阪城築城を開始。その建設にも築城の名手として右近が力を発揮した。右近は大阪城に教会をつくる許可をもらい、気が変わらないうちにと思って、河内岡山にあった教会を移築することにした。

その年高槻へは安土にあったセミナリオが移り、32名の学生が学んだ。「欧州では3年かかるところを3、4カ月でラテン語を習得する」とイエズス会が書いている。この頃キリシタンは都区で2万5千人、豊後区1万人、長崎教区では11万5千人にのぼった。

下は高槻城跡の右近像。右下はセミナリオ跡