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Okinawa 沖縄 #2 Day 7 (27/4/20) 南風原町 (7) Miyagusuku Hamlet 宮城集落

2020.04.28 15:12

宮城集落 (なーぐすくまきょ)


宮城集落 (みやグスク、なーぐすくまきょ)

人口は1040人で南風原町の12 の字の中では3番目に少ない字。この宮城集落 (なーぐすくまきょ) の始まりは、伝承では12世紀に舜天王 (1166~1237) の子である大里大主がムラを建設したとある。もう一つの伝承では、14世紀に具志川間切田場村から移り住んだ具志川安司が居城を構え、ムラを形成したとも云われる。現存している琉球の文献に現れたのは、1647年の琉球国高究帳で、そこに南風原間切の一部としての記述がある。1674年の球陽では大里間切所属になり、1713年の琉球王国由来記でも大里間切になっている。1742年の球陽で再度、南風原間切所属に変わっている。


この字も南風原町が個別の観光案内書を発行している。「はごろも伝説の村」として紹介されている。この「はごろも伝説」については、それに関わる史跡を訪れたところで触れる。

南風原町が発行している観光案内所観光案内書の地図。いつも通り、これに従って見学をする。

上の航空写真でもわかるように、集落は丘陵の谷合の斜面に造られている。当時の集落は狭い谷合なので、それほど大きな規模では無い。中世の集落の特徴がそのまま見て取れる。丘陵には聖域の御嶽がありその麓に集落が造られている。集落内にはいくつか井戸 (ガー) 跡や拝所 (ウガンジョ) 跡が残っている。


標高約60mの丘陵を登り、一番高いウドンモーの場所に自転車を停めて、徒歩にて見学をする。このように小さな集落の場合は徒歩でまわる方が気付きが多くなる。



ウドンモー

自転車を停めたウドンモーは丘陵の上の平になった場所。林に覆われて進入不可。ここに何があったのかはどこにも書かれていない。今はバナナ農園が広がっている。


御願毛 (ウグワンモー)

このウドンモーの隣にもう一つウグワンモーと呼ばれた毛 (モー = 広場、原っぱ) に拝所 (うがんじょ) がある。二つありそれぞれに威部 (イビ = 神石) と香炉 (ウコール) があり、一つは首里弁之御嶽 (ビンヌウタキ) へのお通し (ウトゥシ = 遥拝所) のイビ/香炉で、もう一つは南山へのお通しのイビ/香炉とある。何故、ここに三山時代の南山へのお通しがあるのか? 南山への崇敬を持っていた人が多くいた事を表していると思う。この南風原町や隣の南城市は三山時代には、中山と同盟したり、南山と同盟したりしていた。この宮城集落もある時期は南山と同盟していたか、南山から移ってきた人が住んでいたのかもしれない。南山最後の王の他魯毎 (たるみぃ) が尚巴志に敗れ、南山が滅んだ時に、南山の士族は各地に逃げ隠れたと言われている。その時に、この地で隠れていたのかも知れない。少し気になったのは、他魯毎の弟が南風原按司守忠と言われ、八重瀬町の具志頭にかくまわれ、その子孫は第二尚氏琉球王朝の役人をしていたそうだ。具志頭グスクの城主だった南風原按司守忠と南風原には何か関係があるのだろうか? (これも今後の質問事項のひとつ)

昨年、南山王についてまとめたのがある。リンクはこちら


宮城公園

この御願毛 (ウグワンモー) から西になだらかに丘陵の裾野が降っている。この裾野が宮城公園になっている。何も無い所に公園をつくったのか? 何かの跡地を公園にしたのかはどこにも書かれていない。広いグラウンドや子供の遊技設備があり、宮城の人の憩いの場だ。

特にここの展望台からの見通しは良い。那覇空港自動車道のアーチ橋が見渡せる。

御願毛 (ウグワンモー) からウドンモーを越えた所にもう一つ丘陵がある。この丘陵はウフヤマ (クシヌモー) というそうだが、ここには多くの拝所跡がある。ここは神聖な場所だった事は確かだ。



上之嶺 (イェーヌミー) 

この丘陵の上から集落へ、舗装されていない細い山道がある。この道は「今帰仁のお通し道」と呼ばれている。

中腹に今帰仁へのお通し (ウトゥシ 遥拝所) の上之嶺 (イェーヌミー) がある。知らなければ拝所とはわからないだろう。草で覆われて威部 (イビ) と香炉 (ウコール) は隠れてしまっている。何故ここに今帰仁へのお通しがあるのかは分からずじまい。

上之嶺 (イェーヌミー) から今帰仁のお通し道を隔てた所に立派な亀甲墓があった。多分、宮城集落の有力門中の墓では無いだろうか?


ノロ殿内 (ノロドゥンチ)

更に下ると、集落との境にノロ殿内 (ノロドゥンチ) がある。芝生に覆われた広場がかつてのノロの屋敷 (殿内) があったのだろう。そして岡の上に火の神 (ヒヌカン) を祀った拝所に主要な巡礼場所へのお通しなど10のイビ/香炉を集めた祠がある。


上之御嶽 (イーヌウタキ)

ノロ殿内 (ノロドゥンチ) から小道を通ると岡の上には御嶽がある。ここはノロだけが入る事を許されていた場所。

東之御嶽 (アガリヌウタキ)

ここにはもう一つ御嶽がある。東之御嶽で別称「前田場の古屋敷(メーターバヌフルヤシチ)」詳しい事は書かれておらず不明。

次は丘陵を下り旧宮城集落を見てみよう。ここも斜面に細い路地がいくつも走り、民家が密集している。

民家の中には伝統的な沖縄の赤瓦之の屋根の家が残っている。このような沖縄の伝統的な家でも屋根はコンクリートを使っていることが多く、やはり赤瓦を使っている家を見つけると嬉しくなる。


村屋 (ムラヤー)

集落の行政の中心は村屋 (ムラヤー) で、ほとんどの村では今でも村役場や公民館として使われている。この宮城集落も例に漏れず、村の集会所 (旧公民館) となっている。ムラヤーの前はイベントを行う広場になっていただろうと思うが今は新しく公民館が建てられている。

この場所には昔を忍ぶのだろうが、村の鐘、チチ石 (力石) そして、何故か鉄棒が残されて紹介されていた。鉄棒はコンクリート製で確かに古そうだ。60年は経っているかもしれない、多分戦後間も無くに造られたのだろう。当時はこんなものしか子供の遊技設備が無かった。これができた時に、村の子供のたちは大喜びで、列をなして遊そび、ムラヤーで集っている大人たちはそれを嬉しく見ていたのだろう。そんな光景が浮かんできた。それと注目は村の鐘だ。村の人々に時を知らせていた。ただ写真右下をよく見ると、鐘の形をしていない。これはなんだろう? 戦前は太鼓を使って時を知らせていたのだが、戦後はアメリカ軍が廃棄したカラの酸素ボンベを鐘として再利用していたそうだ。昨年も、何ヶ所かでこの酸素ボンベがぶら下げられているのを見た事がある。沖縄戦の後は物が無く、アメリカ軍が捨てた物で、食器、灰皿、コップ、アイロンなど色々な物を工夫して作っていたのだ。村民はその時代を忘れないために残しているのだろう。

宮城集落には幾つかの井戸跡が残っている。集落の中心に上之井 (イーヌカー) と中之井 (ナカヌカー) の二つ。ノロ殿内のあるウフヤマ (クシヌモー) の麓の集落近くに御宿井 (ウスクガー)。宮城公園の下の集落の西南の端にサクヌカー。もう一つなも無い井戸跡がウフヤマ (クシヌモー) の高台付近にある。



上之井 (イーヌカー)

集落で最も大切にされた井戸だろう。今はコンクリートで周りが固められているが、井戸の周りの空間を見ればここはある程度の広さのある水場だったのだろう。やはり拝所が置かれている。沖縄の人にとって、水は生活で大切なもので、ご先祖様から水を戴いていると考えられていたので、井戸のある所には必ず拝所がある。パイプが通っている。まだ使われているようだ。


中之井 (ナカヌカー)

上之井 (イーヌカー)の1ブロックの所にある。

この井戸はもう使われていないが拝所は残っている。ここにもある程度の広さの水場があった事がうかがえる。上之井、中之井とくれば下之井もどこかにあったのだろうが、それは見つからなかった。


サクヌカー

わかりにくい所にある。案内書にはイラスト地図で大まかな場所しかわからないのだが、何ヶ月も沖縄の史跡をまわっていると、自慢じゃ無いが、探し方のコツが分かってくる。ここも人が一人入れるくらいの細い路地を進み見つけた。まるで部外者から隠しているような感じだ。パイプが通っているので、まだ現役なのかな?


外間ガー

たまたま見つけた井戸。この場所を取り囲んでいる構造から水場もあった井戸と思われる。パイプが井戸から出ているので、現在も使われているようだ。この記事を見てくれた幻日さんからこの井戸の名前と南風原集落の資料のリンクを送付いた。


御宿井 (ウスクガー)

この井戸は有名な所だそうだ。

御宿井には天女の羽衣伝説がある。琉球王府が編纂した地誌『琉球国由来記』(1713) に書かれている。

「今から300年以上も昔のこと、宮城に大国子(でーこくしー)という人が住んでいました。ある日、野良仕事の帰り、どこからともなくいい匂いが漂ってきました。不思議に思いあたりを見回すと、御宿井 (うすくがー) で美しい女の人が長い髪を洗っていました。あんまり美しいのでしばらくみとれていましたが、やがて木の枝にかかっているきれいな衣に気づきました。大国子はこっそり近づきその衣を盗み、大急ぎで家へ持ち帰り、高倉に隠してしまいました。大国子が御宿井へ戻ると、女はしくしく泣いています。声をかけると「髪を洗っている間に着物がなくなってしまったのです。これでは家に帰れません」と泣きながら言いました。大国子が「それでは着物が見つかるまで私の着物を着ていなさい。私の家はすぐ近くだからそこで休んでいなさい」と誘いました。その後、二人は仲良く暮らし、やがて子供も生まれました。ある日、女は子供たちが歌っている子守唄を聞いて、羽衣が隠してある場所を知ります。羽衣を見つけて羽織ると、ふわっと空に舞い上がり、どんどん天高く遠ざかって行きました。それを見た子供たちや村人たちは「くまどぉー!くまどぉー!」(ここだよ、ここだよ)と叫びながら追いかけましたが、女の姿は与那原の久場塘 (くばどう) で消えてしまったそうです。御宿井には、今でも女のジーファー(かんざし)が落ちていると伝えられています。天女と大国子の間に生まれた男子はこの地、宮城の地頭となり、女子はノロ (神女) になりました。天女が消えた のを亡くなってしまったと思い、御宿井から、さほど遠くない久場塘御嶽 (くばとううたき) の一ツ瀬という岩に葬ったそうです。[久場塘御嶽は与那原にあり、久場塘の祠がある] 」

琉球には幾つか羽衣伝説がある。筋はほとんど日本本土の羽衣伝説と似ている。最も有名なのは宜野湾の森の川のもので中山国を興した察度が天女の産んだ子であったというもの。


イチミムン

御宿井 (ウスクガー) から綺麗に整備された小道の先に、大国子 (でーこくしー) ゆかりのカマド跡のウミチムンがあり、拝所 (うがんじゅ) になっている。


大国 (デーコク)

この場所は御宿井で出てきた大国子が住んでいたところで、その屋敷跡には拝所が設けられている。この大国子は大国主の末裔であるという伝承が残っている。琉球と日本本土の交流が昔からあった事がうかがえる。別の伝承では察度王の息子の崎山里主がこの大国家へ養子に入ったという。大国家は名家だったのだろう。


ヤマダモー

集落内にある井戸跡と拝所跡など見てきたが、集落のもう一つ重要な場所は墓だ。通常は集落内に墓地はなく少し離れた丘陵にある事が多い。ここではウドゥンモーの更に向こうにあるヤマダモーと言う丘陵にある。立派な亀甲墓があった。それぞれにXX門中墓と書かれている。宮城集落の門中の墓なのだろう。

宮城集落見学はこれで終了。この宮城集落は見応えがあった。コロナウイルスが収まったら、もう一度ここに来て村の人に色々と聞いてみたい。


今日はじっくりと宮城集落を見て少し疲れた。夕食は簡単にチンゲンサイと豚肉のオイスターソース炒めと味噌汁で済ました。