「日曜小説」 マンホールの中で 3 第一章 3
「日曜小説」 マンホールの中で 3
第一章 3
台所の方で音がする。深夜2時を回っている時間だ。こんな時期に一人で暮らしている善之助のところに来るのは二つしか考えられない。一つは泥棒である。そしてもう一つも泥棒だ。いやもう一つの方は泥棒の次郎吉が何か新たな情報を持ってきたのに違いない。
善之助はこんな時間まで居間でずっと過ごしていた。別に電気をつけているわけではない。真っ暗な中でお茶を入れて飲んでいるのである。これは驚かそうとしているわけではない。目が見えない善之助にとっては、暗くてもあまり状況が変わらない。もちろん灯りを感じることはあるが、見えないことそのものに不便を感じることはなくなってきているのである。
「今日くらい来ると思っていたよ」
何かミッションがある時には、毎週曜日を決めて深夜に善之助の家に入ってくるのが次郎吉であった。以前の幽霊騒ぎから少し時間が空いてしまって、善之助もその感覚を忘れてしまっているような状況であった。しかし今回猫の置物の件を頼んだので、また毎週何かしらのことを持って次郎吉がここに来てくれるはずだ。善之助は、また次郎吉と様々な話をする中で、新たな刺激がくることを強く望んでいた。
その待ちきれないことは、今日、とうとうピークに達して寝ることが出来ず、居間でお茶を飲みながら待っていたのである。
「なんだ爺さん。起きてたのか」
「次郎吉か」
「こんな夜中に起きてると体に障るぞ」
次郎吉はそういいながら、暗い中で善之助の前に座った。
「電気つけるか」
「泥棒は暗い中で動く生き物だから、電気なんていらないよ」
少し笑いながら善之助が出した缶コーヒーに手をかけた。いつも茶箪笥の中に缶コーヒーが入っている。以前聞いた時に、目が見えないと全自動のコーヒーメーカーならばよいが、そうでないとなかなかできないらしい。そのために、コーヒーは缶コーヒーにしているという。それに丸い缶だから危険が少ないのだそうだ。
次郎吉にしてみれば、目が見えなくなった経験はないので、その辺の感覚はよくわからない。まあ、善之助の世代の目の見えない人の言うことなので、まあ、そこにこだわる必要もない。
そんなことを思いながら缶コーヒーを開ける。パシュと缶の中の空気が外に出る音がして、缶の小さな穴から、コーヒーの香りが仄かに香る。それだけこの夜の善之助の家の空気が澄んでいたということかもしれない。
「爺さん、あの猫の置物、なかなか厄介だな」
「厄介。どうして」
「あの東山正信という作家、まあ、新人賞は取って様々な作家活動をしているけれども、ほとんどがボランティア的な内容ばかりで、全く金に興味がなかったのか、なかなか大変な人だよ。まあ、金に興味のない作家というのはいくらでもいるけど、そのような人が章を取って、値段だけが跳ね上がって、片方で、その作品がボランティア商品のようなのが出てくると、その価値が上がってくるんだ。あの『裸の大将』といわれた山下清なんかもそうで、本人は値段なんか関係なく、何かのお礼で描きたい絵をかいていたのだが、それがのちになって高く評価されるという感じ。どうも東山正信というのはそのような作家になってきているようだな」
「そんなにすごい作品なのか」
「ああ、たぶんその猫の置物は、作品の帳簿にあった『三角関係』という作品だと思うのだが・・・」
「おい、次郎吉さん『三角関係』というのがあの猫の作品なのか」
「ああ、知らなかったのか爺さん。老人会と、警察署と、東山の家にあった三匹の猫で、その三匹の猫が作る何かで『三角関係』というようになるらしい。まあ、一匹がメスで二匹がオスなのかもしれないが、どうも、そのような感じになっていて魅かれ合うけど距離のある三匹の猫を表しているらしい」
次郎吉は、そういうと一枚の写真を取り出した。しかし、目の見えない善之助に見せることができないことをふと思い出すと、その写真をもてあそんだ。
「写真を持ってきてくれたのか」
「ああ、爺さんには見ることはできないかもしれないが、なかなかの作品だよ」
「ああ、記憶にはある。」
「問題は、爺さん。いや爺さんに、一働きしてもらいたいのだが」
次郎吉は珍しく善之助に仕事を頼んだ。
「ほう、次郎吉が何か頼みごとをするなんて珍しいではないか」
「そうか。いや、おれがやるよりも、爺さんがやった方がいい仕事があるからな」
そういうと、もう一度缶コーヒーを口にした。次郎吉にしてみれば、泥棒でも何でもない、そのうえ、目の見えない爺さんに、自分が頼まれた仕事を頼むというのはなかなか難しい話であった。そもそも、泥棒など、他人の行動を利用することはあっても、その仕事を打ち明けて他人に何か仕事を頼むことはない。そもそも泥棒に協力してくれるような人などはいないし、また、そのようなことで広まれば逆にものを盗むことなどはできない。職業柄、他人にものを頼むということができない性格なのだ。
「でなんだ」
「警察に行って、猫の置物があるかどうか聞いてもらいたい」
「ほう、老人会のがなくなったといえばいいのかな」
「そのへんは任せるよ。さすがに紛失届を出すとかそういうことではないのかもしれないが、一応公にしておいた方がよいのかもしれないからな」
「紛失届を出さないならばなぜ警察なんか行かなきゃならないのだ」
「実は、東山の家の猫も盗まれていた」
「えっ。そうなのか」
「ああ、完全に盗まれていたよ。東山の家では、しっかりと残っている作品をギャラリーに入れていたのだが、どうも猫の置物『三角関係』の一匹だけは蔵に入れていたようだ。その蔵を探したが、全くない」
「それは次郎吉さんが探しきれなかっただけではないのか」
「まあ、それもあるかもしれないが、しかし、蔵のカギには誰かが開いた後がしっかりと残っていたし、猫の置物の場所まで一直線で言って、その周辺を探して、持って帰った形跡が残っていたよ」
「足跡とかそういう感じか」
「ああ、泥棒ならばわかる。入った後というのがしっかりと残るんだよ。ある意味で盗んだ泥棒の証明というか、そういったものが残っていた。まあ、同業だからわかるサインみたいなもんかな」
次郎吉の声が、なぜか緊張していた。善之助はお茶を飲みながら、いつも余裕しゃくしゃくの次郎吉との違いを感じていた。何か、ここで話していない事情があるに違いない。善之助は、それを敏感に感じていた。
「次郎吉さん。なにか隠していないか」
「いや」
「その泥棒のサインが何か知り合いとか」
「……。」
次郎吉は黙ってしまった。なにも語りたくないという雰囲気が表情を見えない善之助にも伝わってきた。
「話したくないのか」
「ああ、悪いな。爺さん。まだはっきりしたことは言えないが、ちょっとね」
「そうか。話したくなったら頼むよ」
「ああ、それだけに警察の中も気になるんだ」
「警察の中。警察署まで盗みに入るようなやつなのか」
次郎吉は少し間を置いた。善之助はもう一つ缶コーヒーを出して次郎吉の前に差し出した。次郎吉は、何も言わず、まるで逮捕されて取り調べを受けている泥棒のように観念したような感じでそこに座って、静かにコーヒーを手前に引き寄せた。
「俺が知っているあいつならば、あのサインがあいつならば、警察の中にも平気で入るやつだよ」
「なるほどな。凶暴な奴か」
「ああ。爺さんは後輩が警察にもいるんだろ」
「いるよ」
「ならば明日すぐに警戒させてくれ」
「わかった」
次郎吉は飲みかけの缶コーヒーを持って、そのまま出ていった。