【小説】諸屋超子「I’m working for Essential People.」掲載
長崎在住の作家・諸屋超子(https://twitter.com/k457zAgkr7OkqrA)による〈コロナ in ストーリーズ〉の第4作「I’m working for Essential People.」(4月30日脱稿)を以下に掲載する。下記URLからPDFファイル版(四六判/縦組み/15ページ)もダウンロードできるようにしてある。
本作に登場する「エッセンシャルワーカー(Essential Worker)」については、たとえば以下のサイトに詳しい。これにまず目を通したうえで、今回の短篇を読むことをおすすめする。
https://jinjibu.jp/keyword/detl/1156/
なお、〈コロナ in ストーリーズ〉の既発表作品は、次のとおりである。
●第1作「ソシアル ディスタンス」(4月13日脱稿)
●第2作「禍禍(まがまが)」(4月21日脱稿)
●第3作「ノー密」(4月25日脱稿)
最後に、本シリーズタイトルに関する著者からのメッセージをここに示しておく。
「このシリーズはCOVID-19(新型コロナウィルス)について書いていきます。 コロナという呼び方について、タイトルに使うべきか悩みました。人名にも使われる言葉で、からかいに悩む子どもが何人もいると耳にしたからです。 そこで調べると、コロナとは、太陽の光冠の意であるので、私には希望に満ちた美しいと言葉であるように感じました。 そしてそんな太陽の光冠のような輝きが、こんな禍いの中にもやはり在ると感じました。 そしてこのシリーズタイトルに決定することに迷いがなくなりました」(諸屋超子)
〈現在進行形〉で綴られる諸屋超子の作品に、今後もご注目いただきたい。
(編集室水平線・西浩孝/2020.5.1記)
I ʼ m working for Essential People.
諸屋 超子
「クミちゃん、明日出勤無理かな?」
ギクリとした。山田さんが熱を出したのだと津田沼さんは言う。明日は、5日ぶりの休み。1カ月も休校で退屈してる娘の紗織のためにタブレットを買いに行きたい。息子の翔太がダンスのレッスンを公園でするときに息の苦しくならない薄手のマスクを作りたい。あと久しぶりに牛すじカレーも作りたい。
「クミちゃんさ……」
津田沼さんが小声になり隣に並ぶ。
「離婚資金貯めたいって言ってたでしょ? ボーナス1万円つくってよ」
津田沼さんの湿った息が耳にかかって、私は思わず体を引いた。引いたら津田沼さんは同じだけ寄って来てさらに言うのだった。
「ね、悪い話じゃないでしょ」
耳の穴も感染ルートの一つなのに近づきすぎだ。適度な休息を取って体力も守ってなきゃだし。毎日毎日こんな大勢の人に接するスーパーのレジで1万円上乗せしてもらって命差し出すのが良い話なんて言われたくない。
「ほかに出られる人いなかったら私出ますよ」
なんで? なんで私断れんのやろう。
「いいのっ? ありがとう」
津田沼さんは大袈裟に手を合わせて私を拝み、立ち去った。いいのっ? も何もあるか。あの人、もう誰にも聞かないわ。明日は出勤決定や。
「離婚したいの」
夫に伝えたのは半年前。庭の金木犀を紗織が拾ってはジャムの空き瓶に詰めていくのを、リビングのソファーから私と夫で眺めていた時だった。二人の前には湯気の立つコーヒー。私がいれて、私が運んで、当然のように夫が飲んでいるコーヒー。
こだわりの豆は、先週代々木まで買いに行った。電車に乗って感染の可能性を上げるなと夫が言うから、電動アシストのない自転車で坂を越えて買いに行った。近所の直焙煎コーヒーでもすぐにバレてしまう。
そんなこだわりのコーヒーは、しかし夫にはいつもの豆で、いつもそこにあって当たり前で、切らしてたら許せない豆。新鮮なままこのコーヒーがこの家で毎日飲める仕組みになんて、夫は興味がない。
そんな小さなことが許せないなんてどうかしてると自分でも思う。でもそれだけじゃない。悩みを相談した時の面倒そうに話を遮るタイミングとか、トラブルの責めをつねに隣にいる私に向けることとか、誰かに話してもきっと伝わらない。
「たったそれだけ」で「男の人なんてそんなもの」ないろいろ。他の人には重要じゃないあれこれが、私には死にたくなるほど苦しいから伝えた。けれど、あの話すら夫は無視した。
「今日、感染予防の防御服着用研修あるって」
同僚の千夏が耳打ちして通る。
「は? 先週からもう着てんじゃん」
この病院はたとえ順序なんて守れなくても、医療過誤の責任を問われないための証拠的研修は欠かさない。私はポーチにしまったネームホルダーの裏の桃子の顔を見る。丸い不二家のペコちゃんみたいなほっぺた。八の字の情けない眉。
こんなことが起こる前はこの病院の慎重な姿勢が好きだった。大きな病院へ就職しておいて良かったと思っていた。育休後の復帰もスムーズだったもの。桃子を連れて出勤すると、優しくてプロ意識の高い保育士さんが桃子を優しく引き取って、退勤後に渡してくれた。桃子はいつも笑顔で、清潔で、とても健やかだった。もうすぐ3歳。今年の誕生祝いのケーキも桃色にしようかな。
今も私はこの病院を好きだろうか? COVID-19の感染者が都内で出ると、院内保育園はすぐに休園になった。仕事は休みにならなかった。代わりに病院はすぐに寮の空き部屋を提供した。院長が朝礼でテレビ越しに話した。
「ご家族への感染が、今みなさんの一番の懸念事項でしょうから」
ママに電話したら、すぐに仕事を休んで桃子を預かってくれた。宏さんには頼れそうもない。物流だって待ったなしだから。区の子育て支援にあたって昼間の預かりを手配しようとしたら、ほかに子どもをみられる家族のいる家庭は、預かり保育を控えてくれと断られた。ママは、そのまま長期休暇に入った。無期限の。
「いいわよ、もともとどうせババアだから。そのままいたって、じきにクビよ、ババア切り」
口の悪いママなのに、一つも文句を言わずに桃子を預かってくれた。
「桃子もばあばといられるの嬉しいって」
高笑いしていたのは、ママの照れ隠しだったのかもしれない。いつもなら鼻で笑って済ませられるそんな言葉が、なんだかいつまでもひりひり痛かった。
昨夜、一人きりの部屋でうどんをすすりながら見たテレビで、私たちのことをエッセンシャルワーカーなんて呼んでいた。
「私たちの生活に欠かせない最前線で働き続けてくれる方々に感謝してこう呼びたい」
エッセンシャル? それって誰にとってエッセンシャルなの? この世界にとってエッセンシャルな人々のために、エッセンシャルなことを滞らせないワーカーって意味なんじゃない?
腹が立って、うどんはもう食べられそうになかったから、残りは思いきり乱暴に流しにぶちまけた。結局夜中にお腹がすいて、カップヌードルを食べた。
私は最近心が狭い。
山田さんの代わりに出た土曜日の店は、食料品のまとめ買い客でごった返していて、私は結局お昼に抜ける余裕もなかった。本当の理由は、津田沼さんがなかなか戻ってきてくれなかったからで、でも私はとにかくレジを打っていた。
「ごめん、遅くなっちゃった。休憩室で寝ちゃってた。連勤だからきついのよね。クミちゃんもちょい長めに……」
「あ、いいです。私どうせ四時あがりだし、あとちょっとならこのペースの方が楽」
足痛い。喉カラカラ。人多い。津田沼さんムカつく。
「これ、飲みながらやってね。感染予防」
なんだかよく分かんないビタミン飲料をレジの下に置いて津田沼さんがヘルプに入る。今度は私がサッカー(袋詰め)でビタミン飲料は津田沼さんの大きなお尻の陰にすっぽり隠れてしまった。
半年前にこのスーパーに勤め始めた時、津田沼さんは私の指導係になってくれた。短時間のパートの私に、社員の津田沼さんは、仕事だけじゃなくて、主婦の先輩として、子育ての先輩として、たくさんのことを教えてくれた。大体のことがザッとしていて、分かりにくくはあったけれど、細かい人に教わるより気楽で、私はありがたいと思った。 慣れない私が米の値段を二桁も多く打ち間違えた時は一緒に謝ってくれた。
「大丈夫よ。そりゃお客様が払ったあとなら大問題だけど、すぐに分かったんだし」
笑って背中をさすってくれた。私はなんだか安心して、夫と離婚したいこと、そのための経済力が欲しいこと、でも私が本格的に働くことを夫は嫌うからなかなかパート時間が延ばせなくて悔しいことなんかを一気に話した。
「男ってそういうもんなのよね」
津田沼さんは包容力のあるような笑顔でまた背中をさすって、甘い缶コーヒーを奢ってくれた。嬉しかったけれど、変な肩の凝りみたいなものが残された。重くて歪な塊。
放っておいたら塊は小さくなった。でも昨日、声をかけられた時にまた塊は大きく膨らんだ。重さが一気に増し、カチコチに固まった。もう私は、津田沼さんのザッとしたところは好きになれそうもない。
離婚のために、私はここで命をかけてレジを打つ。馬鹿みたいかな。結婚する時にみんなから言われた。
「あの旦那さんならクミちゃんはひとつも働かんでいいやん」
でも今、私は命をかけていくつものホットケーキミックスを袋に詰める。
COVID-19の患者数は日に日に増した。最期に会えない病気であることが世間的には関心が高いようだった。普段から無理な延命を望む家族は多い。最期に会うことは、生きている時に一緒に過ごす時間より重視されているように見える。自分の仕事がひと段落つくまで延命して欲しいなんて人すら、なんだかもう見慣れてしまっていた。だから世間の目がそこに集中することにも納得した。
病人にはスポットは当たらないのが当たり前の世の中。延命措置で延びた命に身体が悲鳴を上げて、私たちは夜中に何度も呼び出される。
「苦しい、殺して」
そんなことにスポットは当たらない。
この感染症だってみんな自分は罹らないことになっているのか、残された家族の寂しさには同情的でも、実際罹患者がどうなるのかは深く聞きたがらない。苦しい最中の人へインタビューができないからスポットが当てられづらいのかな。なんて考えられない。
私は最近心が狭い。
スーパーから帰ると、夫は部屋にこもって仕事をしていた。コーヒーを持っていこうと食器棚を見たら夫のカップがなくて、流しにドリッパーが使ったままの形で置いてあった。そうだ。自分でもいれられるのだ。
私は急に自分が要らなくなったように思えて、ちょっとへこたれる。落ち着いて、深呼吸する。
「片付けまでワンセットでしてよね」
強気な独り言。なんか変な気分。塊はさっきより重い。夫に聞いてもらいたいけれど、きっと聞いてくれないだろう。
「アホを相手するかどうかは自分のタイミングで決めるべきだ」
とかなんとか意地悪言うんだ。今だってそう。部屋にこもってるから、私は何も聞けない。突然ドアを開けると集中が途切れるから。夫は私より社会にとって大事な仕事をしてるんだから、邪魔しちゃいけないっていつも言われてる。たったこのドア一枚突破できない。私は意気地なし。
どんどん重くなる塊。ずんずん進むいじけた思考。私はたまらず走り出した。そのまま二の腕を盾にドアへ二度ぶつかった。野蛮なノック。きっと怒られる。でももういい。勝手に怒れクソ夫。
「ママ、ももちゃんだよ。ももちゃんきのう、おだんごこねこねしたよ」
画面の向こうで団子をこねる仕草をする桃子。小さな手。柔らかくて、それ自体がお団子みたいなぽちゃぽちゃした可愛い手。
「あときのう、パパとこうえんごっこした」
桃子は鼻の穴を膨らませて得意満面に語る。そんな時でも八の字眉。今日より前は全部昨日の桃子。宏さんの休みはたしか先週だったはず。
「公園も感染拡大の原因になるからってなかなか行けないのよ」
ママが隣で通訳してくれる。今日は休みで、昼間は長いこと桃子とビデオ通話してあげられた。画面越しで一緒にご飯も食べた。
「あんた、もっと野菜食べなさいよ」
ママがふざけて画面越しの私にもブロッコリーを食べさせようと差し出すので、桃子は大笑いした。ママは調子に乗って、人参でも、とうもろこしでも同じことをやった。桃子は毎回笑った。他愛ない桃子。柔らかな巻き毛と汗ばんだ鼻の頭。
楽しかったビデオ通話はアニメが始まるとかで唐突に切られた。しんとした部屋で私はわざとらしくベッドにダイブした。それから渾々と眠った。
起きるとすっかり夜で、喉が乾いて目が覚めた。
桃子がおやすみなさいを言う動画がママから送られてきていた。その前に着信も残っているから、本当はビデオ通話で言いたかったのであろうおやすみなさい。
「ママ?」
電話をかけた時から私は泣きたかったのかもしれない。特に用なんてなかったけれど、ママの番号にかけ直していた。
「どうした? ギブアップ?」
ママのしんとしたギャグが胸に刺さって私は泣き出した。
「まだ平気」
噓くさいけど本当に私はまだ平気。ギブアップじゃない。
「桃子、今日泣かなかったね。ママ、私が泣かなかったのは偉くないって言ってたって桃子に伝えて?」
私はどんどん泣く。小さな噓もつけないママは、そんなこと言ったら桃子が傷つくよ、と言ったきり私の泣き声を聞いてくれている。
きちんと。まっすぐに。
「だって桃子が我慢強くなったら困るよ。人のために何かするのを好きになったら困るよ。自分のことしか考えない子になってほしい。だって……」
だっての先は言えなかった。ママに我慢強く育てられて、看護師になった。なんてそんなふうに恨んでなんかないのに、どう言ってもそんなふうに聞こえちゃう。
「うん、わがまま放題に生きて、冷酷になりなさいって毎晩ちゃんと言ってあげる」
ママが静かに笑う。
「ママ、ごめんね」
何にごめんなのか、なんでごめんなのか、うまく言えない。
「私もあんたが看護師になるの嫌だった。なんかもっと楽しくて、もっと気楽な仕事についてくれたらいいのにって思ってたよ」
うまく言えないのにママには伝わってしまった。
「この仕事、楽しいよ……」
私は鼻をすすりながらただ反応することしかできない。
「うん、あんた見てそう思ったから、こうやって応援してる。でもあんたが、いきなり無責任な仕事嫌いになって逃げ帰ってくればいいのにって毎日思ってる」
ママはガハハと笑って言う。
「ママは優しくないからね。自分の子どもさえ良ければいいよ」
私は急にママの細くて筋肉質な腕でしっかり抱きしめられてるような気分になった。
「ナイチンゲール誓詞、破るかもしれない」
「いいよ、大歓迎」
「みんなぎりぎりで大変なのに仕事ブッチするかも」
「かくまってやるから心配すんな」
「でも気になる患者さんがいる」
「ずこーっ」
ママが古いリアクションとるもんだから、私は鼻水ごとぶふっと吹き出す。
「もうちょい頑張る」
「オーライ。冷たさは桃子に引き継いでおく」
ママは言った。寂しさを押し隠す噓の上手な声で。
「限界より手前で帰って。限界はやめて」
ドアを開けた夫は、眉根を寄せて、なんだか唇が変なふうに歪んでいた。私だけが知ってる嬉しい時の顔。
「私にかまってくれんのやったら、別れてよ。私、命がけでレジ打ってチマチマチマチマ離婚資金貯めてんのよ。別れてよ、別れてよ。私の気持ちわかってくれんのやったら別れて自由にしてよ」
夫の目が丸くなる。私だけが分かる傷ついた時の顔。
「君の時間を確保して、僕が部屋にこもってたら、この家にずっといてくれると思ってできる範囲で部屋にこもってる」
怒鳴るように言う夫は、パニックで肩が震えている。
「コーヒーも今日は土曜なのに自分でいれた。寂しかった。でも僕が我慢した分、君がまた僕といたくなるはずだからと思って我慢してる」
白眼を剝いたような目で睨みつけて言う。いつも顔が怖すぎてちゃんと聞けていなかったことが聞こえた気がした。
結局私の居場所はどこなんだろう。夫の顔と言葉があまりに乖離していて私にはいつもよく摑めない。
津田沼さんの置いていった塊が私の肩で大きくなる。
私によく分からない言葉で語られる夫の心情が本当に許せないものなのか、自信がなくなる。
とにかく休みたい。それだけが、どうにもかなわない。
ただ休みたい。家から逃げられる場所だった呑気なスーパーのパートはいつの間にか人で溢れかえって私の居場所はなくなっていた。
夫との壁はいつの間にか透明なフィルムだけになった。なのにもうクタクタで、あと少しで届きそうな答えに辿り着けない。
とにかく休みたい。
[2020年4月30日脱稿 © Choko MOROYA 2020]