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8.MY FEELISH HEART 1 / 2

2020.05.03 03:00



「驚きました。母が家を持っていたなんて。父は知っていたみたいですけど、私には生前、そんなこと一言も話しませんでしたから。しかも、山までくっ付いていて」


 きれいな娘だった。どこかあどけないようで、その癖もうだいぶ前からすっかり出来上がっているというような。こういう娘は、 その所作では年を重ねて見えるのに、実際が若いと思ったが、果たして聞いてみると三十代の半ばと言う。人生百年時代がもはやスローガンではない昨今、年若いのか、そうでもないのか、近ごろ年齢というものをどこで捉えたものかさっぱり見失った。


「お母さまの思い出のお家でしょうに、手放されるのですか?」


 ええ、ええ、と二つ返事で、娘は書類を受け取った。


「助かりました。けど、こちらこそ本当によろしいの? なんだかいわく付きみたいでしたけど?」


 不動産屋に聞いたのだろう。娘は自分よりも私の方がこの土地に詳しいと決めたようで、何の根拠もなくそうと直感し、その直感を質問という形式に当て込んだ。三十代の半ばというのは、やはり若いのだったと、この娘の印象に回答を得て、私は答えた。


「土地の人間からしたら、そういう解釈になるのかもしれませんが、民俗学的にはもう少し違うかもしれません」


 民俗学などと面倒なことを口にすれば、賢い彼女のような娘は、簡単に印象を束ね変えるのだ。


「なんだ、そういうことか。危ない事件があった土地かと思ってましたけど、それにしては気持ちのいい山だし、確かに変わってはいるけど、ここで暮らした母を思うとそんなふうに考えられなくて。そっか、よかった。納得しました」


 おそらく本当に納得したのだろう。娘はワンステップ高いキッチンから下りてこちらにやって来ると、断りもせずに、コーヒーをなみなみ継ぎ足し、どうぞと差し出した。おおらかな娘だ。この娘になら、手持ちの家や山の一つや二つ隠しおおせるかもしれない。そのように思っていたかしれないが、来てみれば、ついこの間までここに住んでいたという母親がこの家を大切にしていたと見て取れる。


「失礼ですが、お母さまはご病気で?」


 娘はすっと山を見た。斜面をすべり降りてきた風が開け放った窓から舞い込み、娘のつるりとした丸みのあるおでこをむき出しにした。気になるのか、娘は前髪を何度か触ったが、そのうち放ってコーヒーに口を付けた。


「いえ、まだ七十代半ばでしたし。ただただ突然のことで」


 私はうなずいてそれ以上をよした。七十代の半ばが若いか、若くないか。後期高齢者と名付けても、人生百年時代とすれば若いというような矛盾の生じる年代だが、娘の物言いを察するに、個体差をいえば母親は若かったのかもしれない。また、この娘からすると七十代は十分に若いということらしかった。人生百年時代の幕開けはだいぶ前から始まっていたようだ。私のような世代がかえって追い付けないでいる。なんとも中途半端な気になって窓の外にそびえる山の尾根を目で追った。


「母がここで暮らしていたなんて知らなくて、ある日、用事があって実家に帰ったことがあったんです。母は不在で、父は仕事でここ数年海外にいたんですけど、じき戻るから荷物をずいぶん片付けたんだって、母はそのころ言っていて。それでも、生まれ育った実家ですから、生活の匂いがまるでないことは分かりました」


 この娘でも、そのような匂いを嗅ぎとるのかとふと笑みを浮かべてしまった。すると娘は不思議そうに私を見たが、気を悪くする様子もなく、笑っちゃいますよね、と話を続けた。


「電話をかけたら母は慌てて家に戻って来ました。ちょっと旅行してたなんて言って。あまりにうそくさくて、ついに父との離婚に踏み切るのかって、その時はそれ以上聞くのをやめてしまったんですけど」


 ふう、と彼女が息をつくと、内奥より鳥の声がした。


「お父さまとは仲がお悪かったんですか?」


 なんとなく膨らましたのだろう頬が可愛らしくて気軽に聞いてしまったが、失礼とすぐに訂正した。しかし娘は頓着せず、山に目をやった。山からはとめどなく風が送られ、緩いウエーブのある髪を揺らす娘はやはりおでこをむき出しにして、小さな子供のように見えた。母親が暮らしていた家にいれば娘だし、子供がいる家に帰れば、彼女は簡単に母親になるだろう、そんなたくましさを持っている。


「母はよく分からない人だったんです。だから──」


 続く言葉を待っていると、娘の方でも聞いてみたいというように、部屋の中に誰か探した。亡くした母親だろう。


「父とはとても仲がよくて。でも、あの眠っているような実家を見たときには、やっぱりって思って。なんか、うまく言えませんけど」


 急に悲しみが押し寄せたように、彼女は眉根を寄せて、腹立たしげに髪をかきあげ、栗色の髪を揺らした。まるで、決して泣かないのだというように。


「おきれいな方だったんでしょうね」


 そう言ってから、やはり失礼とすぐに打ち消した。親ほどの年とはいえ、男と二人きりの山あいの家でそのようなことを言って警戒させてはいけないと思ったのだが、娘の方では、私が放った意味をそのままなぞって嬉しそうに笑った。


「とても魅力的な人でした」


 誇らしそうに娘は笑った。


「幼少時代が楽しかった思い出は母とともにあります。なんていうか、よく分からない人ではあったんですけど、一緒にいるととにかく楽しい人でしたから」


 彼女はそこまで言うとはっとして、テーブルを離れ窓辺に立った。四十九日がようやく終わったばかりと話していた。泣きたくても泣く暇がなかったのだ。


「本当にこちらを手放されますか?」


 彼女はさっと涙を拭って、ええ、と明るく答えた。


「ここで数日暮らしてみました。それで十分です」


 娘というのはこういうものなのかと、私も山を眺めた。すると、また鳥が鳴いた。


「何を思ってこの家を買って、父がいないあいだ何を思ってここで暮らしていたのか、数日ここで暮らしてもやっぱり分からなくて。だから、母は母なんだなって。なら、ここは私の場所じゃないって思いました」


 娘は楽しそうに笑って、テーブルに戻った。そしてふと、私と目を合わせた。


「でも、ここで暮らして、もしかしてと思うことはあったんです」