海辺の修道士
5月2日(土)の日記
犬の散歩を終えてきた。
今日は朝のうちに(気持ちを切り替えるため)化粧をしたというのに、何かに取り組むことも特にせず、掃除洗濯をして、朝はコーヒーを飲んで、昼ご飯は食べず、フランスのショートムービーを1本観て、そのまま夕方までぐっすり眠ってしまった。
空の灰色がそのまま部屋の中に広がっているような薄暗さに包まれて、いつもは土曜日にも行われる近所の工事も今日は無かった。
夕方目覚めるまでずっと、ずっと静かな時間。
隣の家の子供の泣き声が夢に登場して、それで目が覚めた。誰かの文章や映像に目を通す、そんなシンプルな一日だった。
眠っているあいだ、ゆっくりと、身体がベッドに沈んでいくような感覚だった。
"海の修道士"と(夢の中の設定上)呼ばれる、見た目は救命士の様な濃紺の制服を纏った集団の一人になり、海の安全を守った。あとは自分が映画監督になって、カメラワークの指示を出したり、撮影班に向けて集合を出したりした。夢の中では、何かを護ったり指揮をとったり、大きな使命を果たすことを望んでいるらしい。
先日から私は2010年の映画『インセプション』の、頭を使い続ける迷路のような複雑な面白さにどハマりしていて、夢の中を行き来することや夢そのものについての関心が高まっている。目覚めた後の現実に連れ戻された絶望感とは別に、最近ではその内容を思い出しあれこれ考察するようになっている。もともとSFは好きだけれど、激しいアクションや冒険ものを扱う映画はなんとなく避けていた私が、いつも愉しむ映画とは毛色の違うこの様な作品に出会って、何日経っても感動が薄れないくらい好きになるなんてちょっと驚きだ。
『インセプション』は夢を行き来して相手の無意識のなかに着想を植え込もうとする話。何層にも重なる夢のなかでの試みは、失敗すれば虚無に陥る危険と隣り合わせで、僅かな気の緩みが夢と現実の認識や時間感覚まで狂わしてしまう、あまりにも複雑で緊迫した世界。話の奥行きや映像の壮大さやどこまでいっても終わりのない思考、まるで4次元空間のなかを漂っているみたいな映画だ。
あまり夢に固執していると、私まで夢と現実の境を見失いそうで怖いと感じる反面、夜に『インセプション』を観てからそのまま眠りにつくという行為は映画の世界の延長をこれから体験できるというたまらない気持ちになるので、誰かにそっとお勧めしたい。
これほど映像と内容で観ている者の脳内をグワングワンと大きく掻き乱して惹きつける壮大な映画、なぜオスカーで作品賞を受賞しなかったのか、Wikipediaで調べたら当時作品賞をとったのは『インセプション』と共に最多部門受賞をした『英国王のスピーチ』だった。なるほど、納得。
話が逸れてきてしまった。頭がだんだん冴えてきたなかで改めて考えると、夢の中で私がなった"海の修道士"なるものは、完全にフリードリヒの《海辺の修道士》が発想の源だと気づく。多くの人がそうしたように、私も夢の中でこの海辺に佇む絵の中の修道士に自分を重ねたようだ。
画面いっぱいに漂う静寂さと広大な灰色の空は、今日一日の私の心象に驚くほどに重なっていた。
ロマン主義画家、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ。大学時代、美学の講義で彼の絵を扱ったことがある。
自然を前に、遥か彼方を見据えた人物の絵。その静寂と寂寥の世界にある"崇高"という概念についてたくさんの話を教授から聞いた記憶はあるけれど、美学の講義は目に見えない曖昧な印象についての解説が多く、当時の私は正直その難解さになかなかついていけず、そして身に付かずに終わってしまった。
このフリードリヒの作品を意識的に鑑賞する機会は美学の講義のあとしばらくなかったけれど、最近はなぜだか、不思議と《海辺の修道士》をはじめとする彼の絵に惹きつけられることが増えた。
再び映画の話になってしまうが、最近《海辺の修道士》の絵に出会ったのは去年の10月に観た『世界の涯ての鼓動』という映画、主人公が美術館でこの絵を鑑賞する冒頭のシーンだ。
原題"Submergence"が表すように、海辺で出会った2人の、静かで危険ではっきりとしない憂いが終始拭えない、淡い死のイメージすら感じるそんな空気感は観ている側にまるで潜水体験をさせているようだった。曖昧で、はっきりしなくて、怖くて、でも今この瞬間生きていることの幸福。この映画を監督したヴィム・ヴェンダース氏は、「本当に見せたいものは映像では見せない」ことを指針にしているそうだ。
映画を観た10月というのは、個人的に会社にいることの辛さを感じて踠(もが)いている時期だった。当時のSNSを辿ると、出口の見えない苦しみに対して絶望し毒を吐いていたり、美しいものへの純粋な感動を呟いていたり、幸と不幸が交互に不安定に積み重なっている。深い海の底のようなこの映画を観て、このときの私は「日々絶望を感じて止まないけれど、そんな暗く鬱屈した心でこの作品を観ることは、明るく元気が出る作品を観ることより重要に思える」と言いきっていた。
《海辺の修道士》がもたらした私の思考の層。家にいながら途方もない旅に出ていた気分だ。