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200426 小袖漁港〜北望の夕景色

2020.05.04 12:19

 先月26日 野田から久喜・三崎周りで小袖漁港へ、運動不足解消に誰もいない夕暮れ時「迎え山」道を歩き「浜見崎」まで登りました。


 坂道は途中4回の切り替えし、漁協監視小屋上の「浜見崎」にたどり着いた頃は、もう殆んど陽が落ち暮れる寸前でした!


 でも、刻一刻と空の色が変わり、茜色から暗闇へと変わる色合いは、そう何度も見れるものではありません! 春夏秋冬微妙に色彩が違うことでしょう!


 この日は、金星?など北西頭上にひと際明るい星二つありました!

 これは火山岩ですが、上村には宮古層群より古い原地山層の残存堆積物が残されているようです!

 登り切れば「上村」、手前断崖上に浜見崎、少し下った埼が「監視小屋」!

 左正面黒っぽい雲の下に階上岳・久慈平岳の影が見えます。

*この手前には、昭和43年小袖集落の20代若者多数が八戸沖で遭難した痛ましい海難事故を記憶に残し、慰霊する石碑が建立されています。


 1945年太平洋戦争終戦後の北三陸~浜街道沿いの未舗装45号国道を国鉄バスが運行していました。


 R45号幹線沿いや幹線道近くの高校生は、国鉄バスを利用して久慈や八戸、岩泉、宮古へ自宅通学が可能でした。

 険しい地形や通学生の少ない地域では道路整備も進まず、寄宿して高校に通うことは経済的に大きな負担で、高校進学率も20~25%という時代もありました。


 戦後の「ベビーブーム」(昭和22年~24年前後)と言いますが、兄弟姉妹が5~6人はザラな時代、中には兄弟姉妹10人以上という家もありました。

 そんな時代、戦後の昭和20年~40年前半までは、兄姉が就職して家計を支え、そのおかげで妹弟が高校に通える時代でもありました。


 小袖海岸に車が往来できる道が整備されたのは昭和30年代、昭和45年「岩手国体」にあたり難所の崖の開削など大改修が施され車の往来が容易くなりました。それまで、小袖集落近辺は北三陸の多くの漁村集落と同じように、中学卒業後は家計を支えるため船に乗るのが当たり前の時代だったと思います。


 主に八戸港所属の大型漁船に乗船するのが普通で、そこから日本海・北洋やニュージーランド、インド洋、ペルーなど南米近海沖、果てはアフリカ沿岸まで出漁し地域経済を支える役割を果たして来たわけです。


 浜見崎の海難慰霊碑を見るたびに、そんな時代を生きた若者たちの姿が偲ばれるところです。

 ここに一人は寂しそう!まあ隔離小屋なんでしょうか?「ストーブ」さん!


 時として、監視小屋むこうの網起こし作業を見れる場合があります。もちろんその手前、断崖下には流紋岩の柱状節理「夫婦岩」があります!

*恵比須神社~蛭子神社「ひるこ」だったり「えびす」だったりしますね‼

 エビス様 ~今日も「海上安全」ありがとうございました!