4月12日(日)復活節第1主日
聖書 ヨハネ20章1-18節(新約p.209)
4月12日はイースターの主の日です。復活の主イエス様を覚えて、皆さんと共に聖書から学びたいと思います。
イエス様の復活の出来事を覚えることは、キリスト者にとって、とても重要なことです。イエス様の復活の出来事と聖霊降臨日(ペンテコステ)の出来事によってキリスト者に信仰の核心が与えられ、教会がその歴史を歩み始めたからです。
ヨハネ福音書20章1節以下を読みますと、まだ暗いうちにもかかわらず、イエス様が葬られた墓に向かって急ぐ、マグダラのマリアの姿が記されています。
ここで明らかに問題になっているのは「からの墓」です。聖書は、死で終わりとする墓ではなく、復活の主であるイエス様にわたしたちの目(信仰の目)を向けさせます。
12節以下を読みますと、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。」と記されています。13節には、天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いかけています。実に不思議な光景です。
さらに「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」と復活のイエス様から直接に声を掛けられても、園丁と勘違いするほどにマリアは嘆きと悲しみの只中にありました。本来見るべきものが見えていないこと、本質をなかなか見極められないことなどを、わたしたちはここでマリアに共感しながら内省させられます。
しかし、ヨハネ福音書は復活の主イエス様に最初に出会ったのは、他でもないそのようなマグダラのマリアだったのだと記しているのです。
人生の辛さを誰よりも味合わされていたであろう女性マリアは、人一倍イエス様を慕っていたと思います。自分を導き出してくれたイエス様を慕い愛する気持ちの強いマリアは、とっさにヘブライ語で「ラボニ」(先生)と言っています。口に出た言葉がヘブライ語であったということには、大変興味深いものがあります。
バビロニア捕囚以後パレスチナでも日常語としてアラム語が飛び交い、アレキサンダー大王以後、さらにはローマ帝国の時代になって、ギリシャ語やラテン語、エジプトの言葉も耳に入ってきたことでしょう。そのような多言語のパレスチナで、思わず口に出たのがヘブライ語であったということは、イエス様と弟子たち、また従いつつ最後まで離れなかった女性たちが神の国の福音をヘブライ語で親しんでいたと想像してもいいと思います。
イエス様が日常語のアラム語ではなくヘブライ語で神の国の福音を語ったのであれば、聴くものたちのなかにはヘブライ魂が喚起された人たちがいたかも知れません。ある人たちは民族意識を掻き立てられたかも知れません。けれども、イエス様がヘブライ語で神の国の福音を語られたとしたらその真意を、聴くものは出エジプトまで遡ってイスラエルの原点にまで至らなければならないでしょう。
ヘブライという言葉の響きには、かつてエジプトや近隣都市国家の文明に冷遇されていた人々、中央から追いやられて疎外されていた人々、文明圏に属さないような人々、市民権を与えられていない人々という意味合いがあります。言語や民族や部族や種族というものを超えたさまざまな人々という意味合いでもあります。
ですから、イエス様が言われた「隣人を、自分を愛するように愛しなさい」と言われた文言も、文明などによる分け隔てではない、神の被造物としての「隣人」を意味しています。とりわけ非人間的に扱われ疎外され貧しくされた人々に、「さいわいなるかな」と呼びかけ、「神の国、天の国はあなたたちのものだ」とイエス様が言われるとき、この世の現実に対して神の国・天の国という神の意志が、イエス様によってあらわにされていると気づかされていくと思います。
ところで、そもそもこの世の只中を生きるわたしたちは、死に向かって生きる被造物ですから、死を前提に生きなければなりません。聖書のみことばは、死に向かって生きるわたしたちに神にあって生きよと導いてくれる神のみことばだと言えます。
科学の時代、物質文明を生きるキリスト者は、科学と物質文明の恩恵を受けながらも、なお霊と魂のことがらを大事にし、とりわけ神の意志を求めつつ生きようとしている人々と言ってよいと思います。
キリスト者は見えるものの真実と見えないものの真実を二重にしかも同時に生きる人たちと言っていいでしょう。当然、お互いの人格を受け止めるにしても、見えるものと見えないものの全体性で受け止めるように導かれていくと思います。さらには見えないものの真実の方が神の真理として大きいのだと感じさせられていくのではないでしょうか。
復活の主イエス・キリストの出来事はまさにそのことを教えているように思います。
18節には、「わたしは主を見ました」というマリアの言葉があります。
このマリアの言葉は、創造主なる真の神にあっての信仰の核心があらわされている言葉と言えます。イエス様は今も生きておられ、いつもわたしに伴ってくださるという告白の言葉だと言ってよいでしょう。
そうしたなかで、「からの墓」の出来事、口を突いて出たヘブライ語「ラボニ」、そのような一連の出来事のなかで「わたしは主を見ました」というマリアの言葉があるのだとわたしたちも少しずつわかってくると思います。
復活の主、イエス様を慕い愛することは、キリスト者の信仰生活の基本です。
復活節(イースター)には、死に向かって生きるわたしたちが、神にあって生き、復活の命に生きるものとされるようにと、神様に導かれたく心の底から思いませんか。それゆえ復活の主イエス・キリストと共に歩む人生をどうか送らせてくださいと祈る心をわたしたちに与えていただきたいと切に願いたいと思います。
どうぞ神とキリストと聖霊に導かれて、一人一人のかけがえのなさとともに死んでも死なない命、復活と永遠の命を生きるものとされますよう復活の主イエス・キリストを覚えたいと思います。
アーメン。