Okinawa 沖縄 #2 Day 11 (6/5/20) 南風原町 (11) Arakawa Hamlet 新川集落
新川集落 (あらかわ、アラカーマキョ)
- 沖縄県公文書館
- 村屋 (ムラヤー)
- 共同井戸、村井戸(ムラガー)
- ヒーサ原の御殿井戸(ウドゥンガー)
- 第62師団野戦病院壕跡 (ナゲーラ壕)
- 下原橋 (シチャーラ橋)
- 大橋 (ウフ橋)
- 環境の杜 ふれあい
- 那覇南風原クリーンセンター
- 新川嶽 (ウガンジュ)
- 殿井戸 (トゥンガー)
昨夜、天気予報を確認すると、今日は一日中雨、時間帯では一時間で100mを超える降雨量と出ていた。今日は一日中アパートに缶詰かと思っていた。早朝は物凄い雨だ。雨の凄さで真っ白で数メートル先も見えない。(後で知ったのだが120ミリもの降雨量で、糸満は道路は冠水、アパートの近くの豊見城では土砂崩れが報告されている。) 今日は外出は断念と思っていると昼あたりになり雨が止み、晴れ間も見えている。天気予報を確認するとこれ以降は曇りとなっていた。もう梅雨に入る時期なので、今後は雨が多くなり自宅で過ごすことが多くなる。今日の午後は貴重な時間。と言う事で、急遽、外出とした。ただ、沖縄の天気は全くあてにならないので、かっぱを自転車に積んで出発。
新川集落 (あらかわ、アラカーマキョ)
新川の集落は、18世紀の初頭、首里から首里高地から張り出した台地の御殿地 (ウドゥンチー) に移住した士族の花城親方の一門の人々よって形成された屋取集落 (ヤードウイ、やどりしゅうらく 士族の帰農によって沖縄本島の各地で形成された小村落) で、平野部の新川地区と標高100mの盆地上の東新川地区から成り立っている。下の地図は新川の集落の変遷を表している。左上は1919年の大正時代のもの。集落は非常に小さい。まだ東新川には集落は存在していない。右上は戦後まもなくの1949年に米軍が作成したもので、少しは民家が増えているが、まだまだ小規模だ。左下は1994年で東新川に民家が増えてきている。新川集落の周りにも民家が多くなっている。右下が現在のもの。新川地区には多くの公共施設が建てられている。人口は約2600人で南風原町では4番目に多い字にまでなっている。
今まで巡った三山時代以前から琉球王統中期までに形成された10の字と比較して、住宅は伝統的な沖縄家屋より、現代の住宅形式の民家が目立つ。那覇市で比較的人気のある首里に近い事もあるのだろうか、那覇のベッドタウンになっている。
標高100mの東新川からの眺めは抜群で、与那原の港が臨める。
南風原町発行の新川の案内書があるが、他の地域に比べて、史跡はあまりない。比較的新しい集落である事もあるだろうが、この地区は観光には熱心では無い事にもよるだろう。
まずは新川集落から訪れる。
沖縄県公文書館
兼城交差点から宜野湾南風原線を上る。標高70mほどの所が新川集落が始まった所。新川集落の東の端に沖縄県公文書館がある。生憎、臨時休館だ。今日まで休館となっているが、緊急事態宣言が1ヶ月延長されたので、休館は続くのだろうか? ここには沖縄に関わる文書が保管されている。展示室もあるそうで、見たかったのだが、次回にしよう。ただ、インターネットでデジタル文書の閲覧は出来るので、暫くはそれを利用する。便利な世の中になったものだ。この様な資料を保管している場所に行かなくても、デジタル化されている文書を自宅から閲覧できる。国立図書館も同様のサービスを提供しており、そこそこ、沖縄に関わる書籍や歴史文書を閲覧できる。
村屋 (ムラヤー)
沖縄県公文書館の直ぐ近くに新川コミュニティセンターがある。新川集落の東側。かつての村屋 (ムラヤー) があった場所。やはり村屋の前は広場になっている。この集落の形成は明治13年の廃藩置県で、沖縄も士族が廃止され、その身分が剥奪された貧しい士族が首里から移住してきた事による。琉球王統時代から、集落造りは風水に基づき、なされた事が多かったので、この集落もその様に造られたのだろう。
共同井戸、村井戸 (ムラガー)
村屋 (ムラヤー) から西に集落が広がっている。集落内に井戸跡がある。昔、集落の人々はこの井戸で生活用水のすべてをまかなっていたそうだ。今は丸い井戸がコンクリートで蓋がされているものだけしか残っていないが、以前はこれだけだったのだろうか、それとも広い水場になっていたのだろうか? 小さな事かも知れないが、気になる。当時の集落での生活がどの様だったのかを想像すると、井戸か水場でイメージが随分変わる。古写真などが残っていればいいのだが。ここは旧暦9月9日に行われる水神祭、ウマーチヌ御願(うがん)の10番目の拝所 (うがんじゅ) だそうだ。
ヒーサ原の御殿井戸(ウドゥンガー)
1880 (明治13) 年、廃藩置県の際、王府でも位の高い親雲上 (ぺーちん) クラスの人が首里から移住してきまた。 その時に掘られた井戸だそうだ。ただ、この井戸を探したのだが、結局見つからなかった。案内書の地図では大まかな位置しかわからず、たどり着くに時間がかかる。それでもほとんどは、何とか見つけるのだが、ここは無理だった。案内書ではこの様な洒落た井戸と紹介されていたのだが....
次に盆地上の東新川地区の方から見学する。
第62師団野戦病院壕跡 (ナゲーラ壕)
沖縄戦の第一線で米軍と戦火を交えた日本陸軍第62師団 (石部隊) の通称ナゲーラ壕とよばれている野戦病院壕跡 (地元ではシチャーラ壕ともよばれている) で、首里高等女学校生 (瑞泉学徒看護隊) と昭和高等女学校生 (梯梧学徒看護隊) の78人の学徒援護隊が、昭和20年(1945年) 3月8日に日本軍に動員された。(昭和高等女学校生は後に識名分室壕に移され,本壕は首里高等女学校生がそのまま勤務していた) 4月以降に、沖縄では地上戦が始まる。その後、第32軍司令部の南部撤退命令によりこの第62師団野戦病院は放棄され、その際に重症患者は処置されたそうだ。南部へと向かった学徒隊は伊原・米須・武富の壕に入ったが、解散命令が出され、多くの犠牲者を出した。このナゲーラ壕では数百人が戦闘に巻き込まれて犠牲になったと言われている。
このナゲーラ壕はここを走る沖縄自動車道の工事で見つかった。現在は見学は出来ず。近くまでは行けるが、洞窟を確認は出来なかった。
このナゲーラ壕が見つかった際に訪問した人の良いレポートがインターネットに出ていた。
下原橋 (シチャーラ橋)
ナゲーラ壕があるところから数十メートルに所にこの橋がある。与那原街道のナゲーラ川に架けられた石積みの橋。琉球王朝時代 17世紀~18世紀に築造されたと推定されている。南風原町新川と首里赤田町の境界にある。橋の上に舗装道路ができてしまったので、川に降りないと橋の存在はわからない。
大橋 (ウフ橋)
下原橋 (シチャーラ橋) の少し上流の石橋があった。明治後期に架けられたと推定されている。ここが安里川の起点。去年もここに来た。今日は今朝の大雨で水嵩が増し、川に降りて見る事は出来なかった。この橋の特徴は、アーチが入り口から段々に狭くなっており、地形的な問題か、あるいは工事が困難な状況から、このような工法が取られているのだろうが、こうした工法を用いた石橋は全国的にも非常に珍しいものである。また、アーチの間口が狭く、トンネルのように延びた長さもこの橋の特徴である。
去年の写真
環境の杜 ふれあい
大橋 (ウフ橋) の場所に、南風原町の地域のコミュニティセンターがある。スポーツ・レクリエーション施設やお風呂・岩盤浴などの温浴施設も完備。ただ今はコロナウィルスの影響で無期限休館中。
那覇南風原クリーンセンター
ここにはまだ公共施設がある。那覇市と南風原町から出る一般廃棄物の処理施設。
新川嶽 (ウガンジュ)
東新川地区にある拝所で、那覇南風原クリーンセンターに向かう道の途中にこの新川嶽 (ウガンジュ) がある。この東新川は昭和に入ってから発展した地区だが、沖縄人の心の拠り所である拝所はやはり造られている。
周りには広い墓地がある。
ここからの風景。
殿井戸 (トゥンガー)
新川嶽 (ウガンジュ) から少し下ったところに殿毛 (トゥンモー) にある石で囲った野井戸がある。草で覆われて近くに行かないとわからない。探すのに苦労した。
これで新川集落の見学は終了。首里経由、土肥さん宅に立ち寄って、帰る。
質問事項
- ウマーチヌ御願とは何か? 10の拝所は?
- 東新川に移って来た人はどの様な立場?その経緯。新川が大きく発展した事に比べ、東新川は今でも人口は少ない。理由は?
- 士族が移住して来たのは、ここに領地を賜ったのか? 開墾が領地の条件だった? 元々いた民との関係は?
- 新川は住宅地として人気あるのか? 人口増加が顕著だ。
(注)
屋取集落: 士族の帰農によって沖縄本島の各地で形成された小村落。方音<ヤードウイ> 18世紀の初頭、政治・経済・文化の中心地域であった首里・那覇から沖縄本島の農村地域に、良人(ユカッチュ)と呼ばれる士族の人口移動がおこなわれた。これらの士族帰農の移住者は居住人と呼ばれて、旧来の地人すなわち田舎百姓とは区別された。居住人は地人に配当された地割地(百姓地)に荒蕪地が生ずるとき、また請地・払請地が生じたとき、その耕地を叶掛け(小作のこと)して開墾耕作に従事するために寄留移住するもので、地人の住む古来の百姓村から遠く離れて、耕地のなかに点々と畑屋(はるや)式の宅地を構えるわけである。屋取の語義は<宿る>ということで、貧乏士族が田舎下りをして、しばらく農家に身を寄せ、そこに宿ったことから来たものである。これらの士族たちは、一時的仮居・仮住まいのわびしい生活を余儀なくされていたが、いずれは再起して、元の中心地域で一旗あげたいという信念が固かった。けれども時勢の流れは、かえって帰農士族を増加させ、ついに定着同化して集落化する方向へ進み、いわゆる屋取集落と称する集落形成をみるにいたる。沖縄本島の約600の村落のうち138が屋取起源の村落である。北谷間切、具志川間切、越来間切、などは、模式的な屋取集落の分布地域である。屋取には三つの類型がみられる。①独立屋取型;在来伝統の本村から独立して屋取だけで行政的単位村を構成するもの、②共存屋取型;本村と屋取が共存するもの、③従属屋取型;いまだ本村に従属する段階のもの、などである。在来伝統の本村(古村)と屋取起源の村(新村)とは、集落の立地・形態・内部構造の相違が大きい。[沖縄大百科事典から引用]
今日ははじめて肉じゃがを作ってみた。しらたきを買い忘れたが、大差ないだろう。最近は暑さであまり食欲が無いので、夕食はこれだけ。
コロナウィルス騒動に対して感じる事
先日、ある有名な演劇家が芸能文化の危機を訴えていた。内容は芸能文化は人の生活には非常に重要で、このコロナ自粛の影響で存続の危機にあると言う。確かに芸能文化は人の生活を豊かにし、人の考え方や感情に刺激を与えるもので重要だ。話をよく聞いていると、政府自治体からの経済的支援が必要と訴えている。オーケストラのメンバー、演劇人、などが収入を絶たれ、続けていく事が難しくなっている。このままでは文化を支えられないと言っていた。普通の人は同意するのだろうが、この演劇家の訴えには違和感を感じる。少し傲慢な考え方では無いだろうか? 支援が必要になっている理由は、芸能文化が商業手段になりすぎた事がある。職業芸能人や職業音楽家が増えすぎたのだ。文化芸能はこの様な職業としている人だけが支えているのでは無いはず。活動で利益を得ず、芸能文化を支えている人は多い。演劇家の言っていることは、「文化芸能を守る」と言う大義名分で、収入を保障してくれと言っている事と変わらない。ここに違和感を感じたのだ。芸能の世界は元々経済的に厳しい。世間が興味を示さなければ、それで生計を立てる事はできない。それでも、その文化芸能を愛して続けている人は多い。彼らは収入と文化は別のものと割り切っている。商業化しすぎた芸能は、その需要を商業的手段で作り上げたもの、コロナでその需要が無くなり、商業的収益が無くなり継続が難しくなるのは、コロナだけに限った事では無い。作り上げたブームが去れば、需要はなくなり、それでの収入がなくなるのは常の事。この演劇家の演劇に対しての情熱は確かなものと思うが、経済的支援が無ければ文化芸能が衰退すると言う論理はあまりにも高慢な意見と思えた。世の中には、利益を求めない芸能文化を愛して活動をしている人の方が多いのだ。メンバーが一時期仕事が無ければ、その期間は耐え、他の仕事をすれば良いのでは無いだろうか? 数ヶ月の事だ。戦時中は文化人、芸術家、音楽家、野球選手、芸能人はその活動を何年にも及んで禁止された。戦後、貧しいなか、活動を再開している。今回の事で、芸能文化を諦めるので有れば、その人にとって芸能文化は、金を稼ぐ為のものだったのでは無いだろうか。芸能文化はこんな事で衰退などしない。人が求めれば、芸能文化はどの様な環境でも生きて行く。支援が受ける事が出来れば、それについて文句は言わないが、自分達が特別だとは思わず、自分達で工夫して生き残りを考えるべきだ。
この様な意見を書くとそのブログは炎上するのだろうが、このブログを見ている人などはいない。