未来が見えないから価値がある
コロナウイルスによる感染拡大を受けて、世界中の多くの国、人が行動を自粛する体験を目の当たりにしています。
私が45年生きてきた中で、このような事態は初めてです。休日の銀座の目抜き通りに人影がほとんどなく、かつて多くの人で賑わっていた三越や松屋の前もひっそりとしています。
見上げれば、いつもよりも澄んだ青い空がゆっくりとした雲を従えながら、静かな街に微笑んでいるかのような柔らかな表情をしているように思います。
私が20代のころは、「24時間戦えますか?」と洗脳されていました。
今、この表現はもちろん御法度ですし、「リゲイン」という商品名自体もコンプラ倫理委員会から差し替え指示が入ることと思います。
大学を卒業して、就職をしたころは、「24時間戦える」自分がかっこいいと思っていましたし、そんな自分を社会は評価してくれました。
働けば働くほど、業績も上がって、クライアントからのオファーもどんどん増えてくるし、それで給料もグングン上がって、「まだ行けるぞ」「24時間短けー」などと豪語していた時代がありました。
社会全体で目指すものが明確にあり、そのゴールに向かって、それぞれが”正義”という名の承認欲求を満たし、何の疑いもなく、その正義感に恍惚ささえ覚えながら、全うしていました。
ただ、その正義感があると脱落したものへの配慮や環境への配慮などができなくなるどころか、免罪符となったことでそれらを打ちのめす快楽に陥ることがありました。
宗教にも近いものがあります。
宗派による規律、規範に厳格なあまり、他を排除したり、弾圧したり。
原理主義となるとその力は強靭で命を脅かす存在にもなります。
しかし、社会は少しずつ、その考えに疑問を持つようになりました。
「あれ、その行動で誰が幸せになるんだっけ?」
「それは、自分がしたかったことなのか?」
「承認欲求の先にあるものは何だろう?」
現状、敷かれているレールや組み上がった歯車にいることに違和感を感じてきたわけです。
でもそのレールはなんだか自分の存在価値を認めてくれるし、社会的な保障もしてくれるから、違和感を持ちながらも、冷たさの残る薄い化繊のカーディガンを羽織ったような感覚でいきていました。
2020年春、自分を支えてくれていた社会的な保障や存在価値を認めてくれる環境が崩れ落ちました。
寒い冬の池の薄い氷の膜に足を踏み入れたかのように、静かにやさしく、そしてはっきりと冷たさがわかる感触を味わうような感じで。
今までは、キラキラとした未来が見えていました。
いや、物語が出来上がっていて、そのシナリオから少し脱線したくらいの未来をそれぞれが煌びやかに描かれていただけなのですが。
ビジネスも、アートも、子育ても、政治も、アバンギャルドなスタイルで自己顕示をして、その称賛を得て、アイデンティティを確立しました。
それがもろとも崩れ落ちた今、私たちはもしかしたら ”初めて” 見えない未来を描くことが求められているのかもしれません。
私は、見えない未来だからこそ、自分のアイデンティティが確立できると考えています。
失業率が高くなると相対的に自殺率が高くなるという杜撰な公式に当てはめず、この先どうやって生きていけばいいかわからないからこそ、自分の進みたいことを評価される社会に変わっていくターニングポイントだと思っています。
未来が見えないからこそ、本当の美しさや愛情が純粋に感じとれる時代になると思います。
というか、そういう時代にしていきたいと考えています。