Okinawa 沖縄 #2 Day 12 (7/5/20) 南風原町 (12) Oona Hamlet 大名集落
大名集落
- 村屋 (ムラヤー、大名公民館)
- 摩文仁家の墓
- 上之井戸 (イーヌカー)
- 毛小 (モーグワ)
- 久米原井戸 (クンバルガー)
- 樋川井戸 (ヒージャガー)
- 樋川井戸坂 (ヒージャガービラ)
- ガマグチ
- 前之砂糖屋 (メーヌサーターヤー)
- 久米原砂糖屋 (クンバルサーターヤー)
- 三班壕
- ジンチョーガマ
- 真志喜壕
- イントゥイガマ
- クンディー
- ウマヌナガニー
大名集落
士族の帰農によって形成された屋取集落 (ヤードゥイ マキョ) で、与那覇の久米原 (くめばる)、宮城の大名原 (おおなばる) と宮城原 (みやぐすくばる) の3つの屋取 (ヤードゥイ) 集落を合わせて、1951年に新しい行政区として誕生した比較的新しい集落。この集落には琉球時代から伝統であった村落の形態の重要な要素の共「御獄」や「根神」、「ノロ」などがほとんどないのが特徴と紹介されている。
大名集落は首里がある丘陵が与那覇方面に下ったところにある。集落の中心は下った所にあり、大名に面している丘陵はかなり急斜面なのであまり民家は見られない。
集落の家屋は沖縄伝統の造りのものは少ない。
大名は人口は約1000人で南風原町の中では新川に次いで人口が少ない字になる。今日も南風原町発行の観光案内書に沿ってまわってみる。
村屋 (ムラヤー、大名公民館)
集落の中心になる公民館がある。昭和2年 (1927年) に摩文仁家 (この後にこの摩文仁家の墓を訪問) から土地を購入して建てた。まだこの時は3つの屋取 (ヤードゥイ) 集落の合併前で、大名屋取 (ヤードゥイ) 集落単独の時代。他の字と集落の成り立ちが異なっている。造られた当時は、まだ、村屋 (ムラヤー) と呼ばれていた。昭和26年 (1951年) に屋取 (ヤードゥイ) 集落合併による新しい行政区となった後も村の中心となっていた。
グフンシジ
公民館の裏に拝所がある。昭和2年に村屋 (ムラヤー) を建てた年に、大名でボヤ騒ぎなどの不祥事があり、毛小 (モーグワ 広場) の鉄棒に白い鳥が止まって北へ飛び立つという噂が広まり、災いの前触れではないかといわれた。そこで、大名から子 (ね) の方向にあり、琉球王朝時代、中山第一の鎮守として信仰を集めていた弁ヌ御嶽 (ビンヌウタキ) から神をウンチケー (歓請) した。それまではに大名屋取 (ヤードゥイ) 集落には村の守神は無かったのだがそれ以降、今でも大名の守り神として、崇め信仰されている。
摩文仁家の墓
摩文仁家は、第二尚氏王統第10代尚質王 (しょうしつおう) の次男・尚弘毅 (しょうこうき 1647年~1687年 大里王子朝亮) が始祖の御殿 (ウドゥン、王家分家の事で王統末期には28の分家として御殿が存在した) で、その墓は大名の村屋の近くにあり、11年間にわたり第11代尚貞王の摂政を務めた功績により国王から贈られた拝領墓。(築造年代は不明) 墓様式は、墓室屋根の前面部の形が亀甲墓のような眉型ではなく、扁平な三角形をしており、屋根部は土を盛って亀甲形に形成し、さらに漆喰で仕上げている。亀甲墓ではないが、玉陵のような破風墓でもない独特の形式。
上之井戸 (イーヌカー)
共同井戸 (村井戸 ムラガー) のひとつで、毎年旧暦9月、集落のウマーチヌ御願 (ウガン) に、ムラの顧問や評議員が6カ所の井戸をまわり、拝んでいる。ウマーチヌ御願とは沖縄各地で行われていた火の神に対する行う祈願の事で、防火災祈願のこと。村の御願所 (ウガンジュ) を廻り 祈願をし、家に帰ってから、各々の家のかまどで祈願をする。古老の話によると、この井戸は現在でも、雑用水に利用されている。
毛小 (モーグワ)
先程、グフンシジの由来で出てきた白い鳥がとまっていたところがここだった。村屋 (ムラヤー) から50m程の所にある。昔は商店があったのだが道路拡張工事で閉店したそうだ。当時の写真があった。店の前にあったガジュマルの木は今でも健在。ただ、道路拡張とは言いながらそれほど変わったとはみられず、店を閉めなくてもよかったのでは....
久米原井戸 (クンバルガー)
大名集落内にある六つある共同井戸の一つ。久米原が与那覇の屋取 (ヤードゥイ) 集落であった時からあったのだろう。
樋川井戸 (ヒージャガー)
その昔、東方から首里に上がるとき、長い坂道 (ヒージャガービラ、ビラ=坂) に差し掛かる場所にあり、通行人が渇きを癒し、休憩する泉となっていた。雨が降ると街道が水浸しになり、歩行に困難をきたしていたので、水捌けを改善する為にここに井戸が造られた。井戸がある場所にはガジュマルが多く生息している。
井戸の脇にこの井戸の由来を漢文で記した石碑が残っている。それによれば、この道路は雨天時には往来が難渋するので、1769年に知念筑登之 (ちねんちくどぅん) らが呼びかけ、井戸を堀り石を積み樋川を築かせたという。
樋川井戸坂 (ヒージャガービラ)
道は途中までしか残っていない。迂回して丘陵の上まで行く。そこから大名集落側を見下ろし、この道の跡が残っているか探すが、霊波之光の教会や病院の敷地で分断されている。丘陵から首里方面には細い道が二つあった。この一つが首里に向かう道だったのだろうか?
ガマグチ
前之砂糖屋 (メーヌサーターヤー)
大名集落には二つの製糖小屋 (サーターヤー) があった。跡地はわからないが、その周りにはサトウキビ畑があっただろう。その付近は今は草むらになっている。
久米原砂糖屋 (クンバルサーターヤー)
もう一つの製糖小屋 (サーターヤー) がこの付近。久米原 (クメバル) は大名集落に吸収された久米原屋取 (ヤードゥイ) 集落の住民のものだろう。
三班壕
三つの屋取 (ヤードゥイ) 集落合併の前の大名屋取集落は三つの班で形成されており、各班で戦時に備え防空壕がひとつづつ掘られていた。ここは三班の壕があった場所。住宅地になっており場所は特定出来なかった。
ジンチョーガマ
首里への丘陵の中腹に洞窟があったという。イラストマップなので場所は特定できないのだがこの付近にあったのだろう。現在は千葉県野田市に本部を置く霊波之光という新興宗教の沖縄支部への入り口になっている。相当に広い敷地を持っている。戦前にはここで村の女性達がパナマ帽を作っていたそうだ。書かれてはいないのだが、沖縄戦では防空壕にも使われていたかもしれない。
真志喜壕
案内書では大名集落の三つの班の避難壕として紹介されていた。住宅街になっており場所は特定出来無いのだが、多分この辺りかもしれない。
大名集落から少し外れた所にも紹介されている場所があった。那覇空港自動車道のアーチ橋が架かっている所だ。
イントゥイガマ
案内書に名前だけが記載されている。解説は無く、インターネットでも検索をするが、ヒットしない。ガマというからは自然洞窟があったはず。何に使われていたのかは不明。可能性があるのは、墓所として風葬に使われていたか、戦時中の避難壕かそれとも日本軍の基地か、村人の作業場としてか?
クンディー
ここにクンディーと呼ばれている地帯がある。写真で見るように丘陵に囲まれている。丘陵は急勾配になっており、暴風雨のたびに土砂崩れが起こったのでクンディーと呼ばれたとある。クンディーは何かそれに関わりある意味を持つ言葉なのであろうが、何を意味しているのかは分からなかった。
ウマヌナガニー
那覇空港自動車道のアーチ橋のすぐ下に丘がある。馬の背の様に見えたのでウマヌナガニー (ナガニは背中の意味で、現在では使われていない) と呼ばれていた場所で、丘の斜面には多くの墓が造られている。古いものもあるし、新しく造られたものも混在している。
いくつかを見て回ったのだが放置されているものもあり、墓の入り口が壊れて中が見える。怖いもの見たさで、チラッと覗くのだが、壊れた骨甕が見える。人骨は見たく無いので、凝視はしない。去年は頭蓋骨まで散乱した墓を見て、胸がドキドキしたので、やはり見ない方が良い。
これで大名の見学は終了。南風原町の12の全ての字を巡った。今日は暑さでバテ気味なので、アパートに帰り休むことにする。
質問事項
- 与那覇の久米原 (くめばる)、宮城の大名原 (おおなばる) と宮城原 (みやぐすくばる) の3つの屋取 (ヤードゥイ) 集落の合併の際に与那覇と宮城とは問題は起きなかったか?
- トゥンガーはどこにあったのが?六つのムラガーの一つ?
- ガマグチの由来は?
- イントゥイガマは何に使われていたのか?
今晩の夕食は昨日の残りの肉じゃがで済ます。今日もあまり食欲が無い。暑さのせいもあるのだろう。
コロナウィルス騒動に対して感じる事
今回のコロナウィルスでは、健康に対しての不安は一番大きいのだが、次に来る不安は経済的なことだろう。これについても首都圏とそれ以外の地域で、状況は異なり、温度差があるように思える。会社勤めをしている人達は雇用が続くのかを心配している。会社側は事業継続の不安。自営業者は資金繰りに対する不安。立場により、関心事は様々だ。全ての人を満足させる政策を打ち出す事は不可能だろう。日を追うごとに、業種、運営規模、休業要請適応かで、個々の問題点が明らかにされている。感じるのは、政府、自治体、事業者、非雇用者でそれぞれがバラバラに動いているように思える。自分の立場からしか考えていない様に思える。
その中で政府の対応が酷いとは思える。休業要請を行い、実質上命令に近いにもかかわらず、要請という事で、休業するかどうかは事業者の意思に任せて、圧力だけをかけている。実質上の命令であれば休業保障をすべきだろう。それを政府は見て見ぬふりをしている。なんと冷たい政府だろう。戦前の軍国主義と変わらない。
とは言いながらも、この政府の冷酷なやり方は想定内の事だろう。政府に救済を求める事も愚かしい。
飲食店へのインタビューで、ある経営者が言っていたのは、借入で凌ぐのは予定していない。借入をすると、返済しなくてはならない。保障をすべきだ。と言っている。これにも少し違和感を感じる。このコロナウィルスは政府が起こした問題でも無い。休業要請をしなければ、感染が広がり、生命の危険が増して行く。政府自治体としては休業要請以外の手は無かった。要請をしなかったとしても、客は激減しただろう。現在は休業協力金が支給されることになったが、これが経済的支援の限界では無いだろうか。残りは借入で自助努力をすべきだ。コロナウィルスが収まったとしても客足が戻るのは、何年か先になる可能性が高い。人は観光地や飲食店に行くことに不安がまだ残るだろう。これはマーケットのニーズが変わってきたと考えるべきだ。コロナウィルスでの影響とは違うが、多くの観光地はかつては、一時的ブームで観光客が殺到し、金儲けを狙って色々な投資を行ったが、ブームが去り倒産する事業者が続出した。これもマーケットの状況が変化した事による。今回もスケールの違いはあるが、マーケットの状況が変わっている。ただそれがコロナウィルスという事だ。事業者はその中で、どう生き抜くかを考えなければならないだろう。コロナウィルスが鎮静してもマーケットの規模は今より小さくなり、民衆のデマンドには変化が出てくる。恐らく、今までのニーズに安全という要素が付け加えられると思う。安全という事を納得させられる商品やサービスを持たなければ、縮小した市場の中で生き残れない。そう考えると休業保障は単なる1〜2ヵ月の延命だけであって、根本的な解決では無い。本当に今後も勝負をする気迫のある事業者は、借入をして次の手を考えるべきと思う。1〜2ヵ月の固定費や運用費が借入で返せない、もしくは返したく無いと思っている事業者は、所詮、いつかは身の振り方を考える時期がくる。それは誰のせいでも無く、市場が変わって、ついても行けないだけの事だ。それを見越して、たくましく考えている事業者もいる。これは競争だ。いつの時代も変わらない。今回はその変化が未曾有の物だと言うだけだ。それを政府にだけに責任を追及するのは少し間違っていると思う。政府の休業保障などあてにしないで、今は破格の条件の融資がある。積極的に打って出る勇気が望ましい。そうしない競争相手は潰れていき、それを実行した事業者が市場での優位性を確保できる。今こそ、努力をすべきで、指を加えて政府保障を待つべきでは無い。
会社員はこれに比べて恵まれている。失業保険がある。会社都合の解雇でなくても保険金がすぐに支給されることになりそうだ。社員を危険に晒す様なブラック企業に勤めたくなければ辞める手もある。先にも書いたが、世の中には政府の生活保障でなんとか凌いでいる人もいる。個人的には政府が決めた生活保障額では贅沢は出来ないが、生活をして行くには十分の額が支給されている。その生活を惨めと思うのは、額の問題でなく、恐らく生きている意義が見出していないからではないかと思う。勿論、全ての人を満足させる事は出来ないのだが、考えようによっては、今の状況は決して悲観する状態では無い、まだ日本は発展途上国に比べて恵まれている。現状に文句を言うより、今の環境で何ができるかしたいかを前向きに考えて欲しい。