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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

日本宣教16-秀吉運命の九州平定へ

2020.05.07 11:39

1585年、高山右近は高槻から明石に6万石を与えられ移封された。明石の僧らは寺社が破壊されるのを恐れ、船で大阪に運び、秀吉の取りなしを求めたが、逆効果で、結局仏像は天王寺で廃棄された。右近は明石にも聖堂を建設の計画し、翌86年に準管区長ガスパル・コエーリョを迎えた。

コエーリョはその後大坂に赴き、秀吉の歓待を受けた。そのとき、秀吉は朝鮮と中国への侵略を口にし、ポルトガル船二隻の支援が欲しいと言い、コエーリョは約束した。これはオルガンチノによれば、コエーリョ自ら、九州のキリシタン大名共々出兵させようと売りこんだとのことだ。この大口はあとで高くつくことになる。

同じ頃、豊後のキリシタン大名大友宗麟も、秀吉に、島津の侵略の防止の訴えに来ていた。秀吉は、全国統一のために九州平定を行うこととした。しかし黒田らの助言により、毛利や四国勢を主に使うことになった。

この九州平定には、毛利勢の武将であったキリシタン大名小西行長も行くことになった。行長は小豆島で1万石を与えられ、その旗下には、足利義昭と共に失脚した内藤如安が居た。行長はこの後小豆島に右近を匿うことになり、如安は右近と追放を共にすることになる。

下は右近時代といわれる明石城巽櫓