5月10日(日)復活節第5主日
聖書 ヨハネ15章18~27節(新約p.209)
今日の聖書の箇所から学びたいと思います。
19節のみことば、「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選びだした。だから、世はあなたがたを憎むのである。」に注目していきたいと思います。
人の生き方にはいろいろあると思いますが、どこに、また、何に一番の価値を置いているかで違ってくるように思います。いい学校に入り、いい会社に入り、出世をして、高い地位につきたいと思う人もいるでしょうし、自分のやりたいことを自由にやってみたいと思う人もいると思います。
夢や希望が叶う人もいれば、叶わない人もいます。適切な治療を受けられずに障がいを負う人もいます。生まれつき何らかのハンディを負っている人もいます。
優しすぎて損ばかりする人もいます。ずるい人は人の成果まで横取りしていい思いをしようとします。順風満帆でいたはずが不慮の事故や思いがけない出来事によってすべてが狂ってしまう人もいます。何かが不自由になり、生きること自体が重荷になる人もいます。
人の精神や心や体は鋼(はがね)では出来てはいません。実に、傷つきやすく病みやすく、虚しくなったり、絶望しそうになったりします。
この世の現実のなかで人が生きるということは、とても大変なことです。
わたしは沖縄にいたとき、『生まれてはならない子として』と題する本を読みました。付いていた帯に「隔離収容された両親の過酷な人生。国の政策や社会の偏見のなかで自らを隠して生きた苦難の日々。ハンセン病患者の両親のもとに生まれた著者が、人間の尊厳を取り戻す闘いを綴る記念碑的な作品!」と書かれていました。
彼女の生きざまは、この世を生きることの悲哀と意味を考えさせずにはおかないものでした。この世の差別と偏見が、「生まれてきてはならない」と思わせたほどに彼女を苦しめたのです。
イエス様のおっしゃった言葉の意味を考えたいと思います。
「あなたがたが世に属していたなら」とは、この世に一番の価値を置いた生き方のことをおっしゃっておられるのでしょう。確かにこの世だけにしか価値を置かない人たちもいます。この世の栄枯盛衰にだけ関心と価値を置いて生きる人たちは少なくありません。信仰者も例外ではありません。この世に属するものとしてこの世の価値観によって認められたい、愛されたい、と願ってしまいます。
けれども、先ほど取り上げた本からは、この世的な価値観から生み出される差別や偏見がどれほど人間を傷つけ苦しめるかが、痛いほど伝わってきます。
わたしが中学生の頃、父はよく草津に出かけて行きました。あるとき、母に、父は何をしに行っているのか聞いたことがあります。母は、父が草津のハンセン病施設のなかにある子どもたちの施設に聖書のお話をしに行っているのだと教えてくれました。
はじめてそのことを聞いた夜、父がいつものように帰って来ても怖くて近づけませんでした。父に、“お父さんは怖くないの?“と聞いてしまいました。父は、”今はいい薬があってみんな治っているんだ。怖くないよ。隔離で親から引き離されている子どもたちに聖書のお話をしに行っているんだ。”と話してくれました。そう言いながら“草津の湯はとても気持ちがいい。毎回入ってくるんだ。”と嬉しそうに話してくれました。わたしは、子どもながらに、自分が何か愚かなことを言ってしまったような気持になりました。今でもそのときのことを思い出します。
わたしたち人間の内面にも外面にも、この世的な価値観がこびりついています。そして残念ながらそれを引きはがすことは容易ではありません。
けれども、イエス様は、今日のみことばを通して「あなたがたは世に属していない」という生き方を示してくださっておられます。そしてそのことは、この世の価値から生み出されてくる多くの差別や偏見からの解放への道でもあると思います。
わたしたちは、イエス様に導かれて神の国の福音に触れながら、この世の価値の不条理によって弱くされている人たちと共に、御心にかなった隣人愛や社会正義へと開かれていきたいと思います。
信仰者としての道を真実に歩もうとすれば、かならず自らに問われてくる今日の聖書のみことばだと思わずにはいられません。
“然り、然り、アーメン”と言えるように導かれてまいりたいと思います。
アーメン。