5月3日(日)復活節第4主日
聖書 ヨハネ 21章15~19節
今日の聖書の箇所から学びたいと思います。
15節以下を読みますと、弟子たちとの食事の後に、復活のイエス様が、弟子の筆頭格のペトロに、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われ、それに答えるペトロとのやり取りが記されています。ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答え、そのように答えたペトロに、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。
イエス様から「わたしを愛しているか」と三度も繰り返されたら、皆さんならどう思いますか。
イエス様は、最も重要な掟として「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22章37節)と神様を愛することを教え、「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22章39節)と教えておられました。
ギリシャ語には愛をあらわす言葉が四種類ほどありますが、イエス様が愛を説かれるときアガペーというギリシャ語が用いられています。愛についてのイエス様の教えとご生涯から、アガペーの愛は犠牲の愛、無償の愛、贖いの愛、神様の愛として理解されるようになりました。
イエス様は、神の国の福音を宣教するなかで神様の愛を説かれました。イエス様に従ったペトロも、よく傍で神様の愛について耳にしていたと思います。ですから、イエス様から「この人たち以上にわたしを愛しているか」と聞かれたとき、ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがご存じです」と胸を張って答えたのかなと思いたくなります。
けれども、イエス様は、なぜか一度ならず二度、三度と「わたしを愛しているか」と問うています。ペトロは一度目、二度目と同じ言葉をもって答えていますが、三度目には悲しくなりました。
そして「あなたは何もかもご存じです」と言って「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えています。
復活のイエス様は、「わたしを愛しているか」とペトロに言われたとき、一度目、二度目まではいつものようにアガペーの愛で尋ねておられます。しかし、ペトロはアガペーの愛では答えられず、フィリアの愛でしか答えられませんでした。
「フィリア」とは、ギリシャ語で友人知人との信頼関係や友愛をあらわすときに使われる言葉です。また、親子関係や家族関係のように血のつながりのなかでの愛については「ストルゲー」というギリシャ語が使われ、男女の愛や切磋琢磨の向上心には「エロス」というギリシャ語がよく使われています。
今日の箇所で、二度アガペーで「わたしを愛しているか」と問われたイエス様は、三度目にはペトロに寄り添うようにフィリアの愛で問うておられます。フィリアの愛でしか答えられないペトロに寄り添ってくださったのだと思います。
「あなたは何もかもご存じです。」というペトロの言葉には、アガペーの愛で答えられない人間存在としての限界が顕わにされていると思いますし、自分以上にわたしを知っていてくださるイエス様への信頼が見られます。
アガペーの愛を言葉で、業で、またご自身そのもので教えられたイエス様が、フィリアの愛でしか答えられないペトロに寄り添ってくださり、そのことをもってわたしたちにアガペーの愛の何であるかを教えてくださっているように思います。
遅れて使徒となったパウロが、はっきりと「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(コリント第一13章2節)と述べていますが、信仰には愛が伴わなければ虚しいと教えていることも、今日ここで覚えたいと思います。
18節以下には、ペトロが「行きたくないところへ連れて行かれ・・・どのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」とありますが、まるでこの世の只中においてイエス様に従っていく者の厳しさを見るような思いになります。
「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れていかれる」という文言は、確かに穏やかなものではありません。けれども、ひとたび十字架の死と復活のイエス様によって神様の愛である「アガペー」に出会わせていただいたペトロにしてみれば、イエス様を証ししていくというはっきりとした使命が与えられていったのではないでしょうか。
「愛しているか」という問いは、ペトロと同じようにわたしたちにも向けられている問いだと思います。
ペトロと同じように、わたしたちもアガペーの愛では答えられない存在です。けれども、だからこそ、アガペーの愛を、ご自身をもって示してくださったイエス様を信じて歩んでいくのです。
今週も神様に守られ導かれて過ごしてまいりましょう。
アーメン。