病気と私 42 HIV2
誤字脱字等、その他本文のおかしなところは、随時修正していくつもりです。
お気づきの点などありましたら、どうかコメント欄で教えてください。
よろしくお願いします。
1987年(20歳)
----- 東京 -----
父に相談し、どうしても引っ越しをしなくてはならなくなったので、どうにかお金をだしてもらえなかと頼んだ。
当時の日本のエイズ感染者への対応は、今のコロナウィルス感染者とほとんど同じ扱いだった。
誰しもが隔離しろと声を上げ、同性愛者を非難し、人権など自分からどうにかしてくれと言えるような状態ではなかった。
なによりも、本人が一番、自分自身が人類にとって害悪な存在になってしまったことを自覚していたのだ。
父は、お金をだしてくれて、4月の末には引っ越しをした。
他人を自分の基準で、必要かどうかとか、そんなことを考えていた自分への報いだと思った。
他人のとっての自分は、有用かどうかを通り越して、害にしかならない存在になってしまった。
医師から言われたことは、クラス担任に伝え、みんなにも自分が怪我をしても自分の血液には触れないでもらいたいと話した。
ほとんど意味のない説明だった。
エイズに感染しているかもしれない。
その一言だけで、誰も私に近づいてくる人は居なくなった。
これでいいのだ、
その方が誰も傷つかない。
私は、数日間学校に通ったが、何か気力が無くなってしまい、アパートの外へ出る気にならなくなった。
色んなことを一人で考えた。
やるなと言われていた心理テストでの自己分析も行ったし、残された5年間をどう生きようかとも考えた。
自分はこれまで、本当に沢山人の世話になり、生かされてきた。
こんなにも辛い思いをしながら生き抜いてきて、最後は他人から存在しない方がいいものとして捨てられて死ぬのか。
それでも、自分から死のうとは思わなかった。
こんなことになる前にだって、生きているのが嫌になることなんて何度もあった。
崖の上に座り込み、何時間もどうしようか悩んでいたこともあるし、洗面器に水を入れて顔をつけ、酸欠で死んだらどれぐらい苦しいのかも何度も試した。
私には、そんなことをする勇気も根性もなかったし、死ぬ時ぐらい痛いのも苦しいのもとても嫌だった。
その度に、どうせ死ぬなら、死んだ気で生きようと思ってきた。
どうやって生きていこうかと考えてはいたが、何も食べる気にならず、何かをしようかという気にもならず、水を飲んでトイレに行き、天井を見ながら考えを巡らすぐらいしか、何もしなくなった。
眠れることは幸せで、目が覚めることは苦痛だった。
何日か過ぎると、突然友達がマンションの部屋に入ってきた。
私は部屋の鍵すらかけていなかったのだ。
その友達は、エンカウンターグループという心理療法の研修会で一緒になって、お互いにとても深い部分で理解し合い、仲良くなった友達だった。
彼は自己紹介で、将来は医者になりたいと言っていた人だった。
私と連絡がつかなくなり、なにかあったのではないかと心配して来てくれたのだ。
エイズが移ると大変だから帰ってくれと言った。
彼は、馬鹿を言うな移るわけないだろうと言った。
彼は、私の酷い状態を見て、ちょっと待ってろと言って、部屋を出ていき、吉野家の牛丼を買ってもって来た。
とにかく食えと言った。
全部食べたのだったか残したのかはよく覚えていないのだが、このままではダメだから、俺のアパートに来いと言って私を連れ出した。
彼のバイクの後ろに乗せられてアパートに向かったのだが、「お前バイクの後ろに乗るの上手だな」と言われた。後ろに乗るのにうまいもへたもあるのかと思った。
バイクの後ろに乗ったのは、父と兄以外では初めてだったので、私は少し怖かった。
何日か彼のアパートで過ごした。
彼にエイズを感染させるのがとても怖くて、何度も自分には近づかないでくれと言っていた。
お風呂を使わせてもらうことも、トイレを使わせてもらうことも、なんだかとても嫌だった。
しかし、私の気遣いに対し、彼の態度は、まるで私の言うことなど無視であった。
彼は毎日吉野家の牛丼を買ってきた。
自炊を全くしていない人で、牛丼の他は、コンビニの弁当だけだった。
彼の部屋は禁煙だったので、タバコを吸うには外に出るしかなかった。
食事はなくとも平気だったが、タバコが吸えないことには耐えられなかった。
玄関に缶コーヒーの空き缶をおいて、そこで見慣れない景色を眺めながら煙草を吸った。
そのうち、少しずつ正気に戻ってきて、痩せこけて頭もおかしくなっていた自分に気づき始めた。
「捨てる神あらば拾う神あり」
この時からこの言葉は、私の座右の銘になった。
私は自分のマンションに戻った。
部屋は、酷い匂いだった。
何日も開けていなかった部屋の窓を開け、虫の湧いたシンクを掃除し、タバコの吸い殻だらけになっている空き缶やら瓶やら灰皿を掃除した。
とにかく吸い殻だらけだった。
綺麗になった部屋で、ドリップした珈琲を入れて、タバコに火をつけた。
ああ、タバコがこんなにも美味しい。
綺麗になった灰皿に、灰を落とすのもなんだか楽しかった。
珈琲もうまい、
これでいい。
自分は、強い人間だ、他人を道具にしてまでも生きようとしているとても強い人間だ。
どうせ、死ねないのだから、どうにかして生きていこう。
自分が幸せに生きるための勉強を、ずっとしてきたではないか。
多くの人に迷惑をかけ、何度も生かされてきたのだから、幸せに生きることは自分の義務ではないかと思った。
拾う神は居たのだ、
私は拾ってくれる神とだけ付き合っていけばいいと思った。
それから数ヵ月が過ぎると、エイズの正確な情報がテレビでも報道されるようになり、理不尽な差別をしないように啓蒙する動きが活発になってきた。
そんな時だ、仙台の病院で一緒だった友達から電話が入った。
「お前大丈夫か?」
彼の存在を全く忘れてしまっていた。
「他の病院では検査結果の告知はしないということになっているみたいだけど、先生は、希望があれば教えると言ってる。先生はすごくお前のことも心配してるから、一度来てみたらどうだ」
先生が心配するのはもっともだった。
私が通院していた病院は、後に薬害エイズで業務上過失致死罪で逮捕・起訴された「安部英 氏」が在籍していた帝京大学病院だ。
お前こそ大丈夫かと聞いたが、自分は検査結果を聞くのが怖いので、聞いていないと言っていた。
検査結果が陽性でも陰性でも、患者には結果を伝えられないというのは、本当の事だったということもこの時に知った。
私は、自分が陽性だから医者があのような説明をしたのだと信じて疑わなかったのだが、そういうことなら検査結果は適当な理由を付けて聞いてしまおうと思った。
先生には自分は大丈夫だからと伝えてもらいたい、それとお礼を言ってくれと頼んで電話を切った。
私はだいぶ正気に戻っていた。
言われてみれば当たり前のことだ。同じ病気の友達が何人もいて、それぞれがそれぞれに悩み苦しんでいるということに気づきもしなかった。
自分が切羽詰まると、自分のことで精一杯になり、どんなに冷静なつもりでいても、何も見えなくなってしまう。
私は、自分が怖かったのだ。
他人を信じることができない自分が怖かった。
他人が自分を受け入れてくれないのではない。
他人が自分を認めてくれないのではない。
自分が誰のことも信じられないから、他人がたとえ自分を認めてくれて、受け入れてくれたとしても、そこに疑念を抱き、どこかに絶対に嘘があるはずだと必死で自分の考えが正しい裏付けを探していたのだ。
そもそも、他人なのだから、完全に理解し合えるなんてあるはずもない。
あらを探せば、見つからないわけがない。
私を救ってくれた友達が私と同じ状態になり、私が彼の立場だったら何の躊躇いもなく同じように振る舞えただろうか。
私自身が、もし、自分が健康な人間で、相手が障がいをもっている人だったり、病気を抱えていた人だったりしたときに、その相手を認めて、一緒に生きていけるような人間であるだろうか。
相手がHIVに感染していたら、自分はその相手を恐怖の目で見ることなく一緒に生活をすることができるのだろうか。
これらを克服しない限り、私自身が自分を認めるということは永遠にできないと思った。
人は、恐怖の感情は絶対に隠し通せない。
そこに恐れがあれば、それは必ず相手に伝わり、それが違和感となって相手を傷つけることになる。
私は、そう思ったのだ。
気の流れに淀みが生じれば、そこにいるメンバー全員が淀みの場所に気づいてしまうことと同じだ。
人の意識は、なんらかの身体的な変化を常に生じさせている、それらは敏感な人からみたら、言葉と同じものとして認知されてしまう。
私がもし、自分の恐怖を克服しようとするなら、自分自身に対してそれが嘘や誤魔化しであってはいけなのだ。
これまでも、呼吸法を使ったリラクゼーションや、気の流れを感じるトレーニングをやってきてはいたが、瞑想を行う時間を極端に増やしていき、自問自答を繰り返し、何があっても折れないものを持とうと必死になっていった。
そして、私を地獄から救ってくれた神に心から感謝した。
神とは、人間以外の何者でもない、
#血友病 #血液製剤 #心理学 #エイズ #HIV