音楽と体癖 〜野口晴哉先生語録〜
≪野口晴哉語録より≫
音楽と体癖
七種の人は無闇にボリュームを上げる。そしてその音の大きなだけ感激している。
体をゆすぶって前へ乗り出して。耳が遠いのかナと思うと、そうでもない。
そのためか、その人の声も大きい。下らないことでも大声を上げる。
その代わり、声の大きさに負ける。相手が自分より大きな声を出すと、その方が本当だと思ってしまう。他人が喧嘩しているのを見ても、声の大きい方の言葉に共感する。
七種の人が席に一人混じると、なんとなく騒々しい。だまっていても威圧する。
そしてサーカスの太鼓でも、大きな音がすると気をとられる。
静かな言葉は聞かない。聞いても言い訳だと思う。
一種の人は音を小さくし、小さい音に心が集まる。自分の声も小さい。
そしてメロディだけがはっきり頭に残るが、ダンスの音楽を聴いても踊れない。七種と反対だ。
身を動かして聴くのでなく、静かに聴いてあとの批評の言葉を無意識に考える。素晴らしいなんて平凡な言葉だ、梢を秋風が渡る如くだ、と。
そして音楽そのものより批評の方を気にする。
三種の人は音色に敏感で音楽に酔う。
酔うが言葉にならない。「すばらしいわ」とか「嬉しくなっちゃうわ」とかである。
しかし中には一種人の批評を口にしてその通り感じようと努める。
しかしウッカリ言ってしまう「カラヤンを見たわ、素敵だったわ、あの髪!」と。
音楽を見にゆく方が多いらしい。
五種は無口で静かに聴き、技術に酔う。
「見事な指のさばきだ」とある五種の人は語った。シェヘラザードを聴いたあと「実によく揃っていますね。
レヴユー・ガールが一声に脚を上げるように、音が揃っているというが、静聴して感激がない。
九種は間のとり方に興味をもつ。音楽の休止符の部分に音楽を求め、それがあると見事だと感ずる。
三種と十一種とは、音楽を聴いて涙を浮かべるが、三種は文学的空想、十一種は内的感動のためらしい。
二種は雑音を気にし、十種は雑音に平気だ。
四種は高音に敏感で、六種は高温も低温も気にならない。
八種はリズムの少ない曲をつまらながって聴かない、十二種は音楽と雑音を区別しない。AMもFMも、短波も、音が出ていればよい。
五種なら、ながら勉強していてもAMかFMかを聴き分ける。
写真
by H.M. デジカメ