いかるがの里テッチャンと隠れ佛・隠れ旧蹟6
『国宝春日権現験記絵』に記載された目安「竹林殿」―
名刹惣持寺鎮守春日社の創建
大字〝目安(めやす)〟は、大和川の自然堤防上に形成された集落で、安寧〝水安(みずやす)〟からの転訛と考えられている。
魚梁船(やなぶね)の濱が向かいの御幸ケ瀬(ごこうがせ・かわいの濱、大和川に架かる廣瀬街道旧橋は〝ごこう橋〟。バイパス橋は〝新みゆき橋〟になってしまった)。架橋以前は「御幸の渡し」と當麻道の「舟戸の渡し」は、重要な渡し場。
そもそも大和川水運動脈の「魚簗船(やなぶね・長8間半15.45m・巾5尺1.52m・蓆帆9枚)」を始めたのは、慶長14(1609)年に大和の米を大坂に運ぶ為に、龍田藩主片桐且元によった。目安もその一躍を担っている。現在目安堰の地点の岸部は大和川第一緑地として設定されている。また、砂地であるので、大根栽培に適していたらしく、弘法大師と目安娘との伝説「目安の美人」・「大根の虫」が伝わる。
夜摩郷(目安)にあった「竹林殿」と称する春日が、『国宝春日権現霊験記(絵)』(かすがごんげんげんき(え)・春日大社秘蔵伝来・幕末流失、勧修寺経逸収集鷹司家を経て明治8・11年皇室献上・現宮内庁三の丸尚蔵館蔵の御物・現在の春日蔵品は写本重文)第一巻に登場する。
権現記は、絹本着色の20巻(+目録1巻、93節の詞書と挿絵、タイトル数にして56・説話数は72。朝廷貴族説話と興福寺僧説話の二部構成)から成り延慶2(1309)年に奉納された。藤原氏一門の西園寺公衡(さいおんじきんひら)が一門繁栄に感謝さらなる繁栄を祈念して製作を企て、詞書を前関白鷹司基忠(たかつかさもとただ)父子4人、絵を宮廷絵所預(きゅうていえどころあずかり)高階隆兼(たかしなたかかね)担当が歴然。大和絵技法頂点の精微な描写は卓越史料として、我が国屈指の宗教文学文化遺産とされる鎌倉後期の代表的絵巻。春日大社の創建と由来・神々の利益霊験を描き、藤原氏の氏神として興福寺と一体となって政治的・文化的に大きな影響力を持った春日社の効験を集大成したものである。
目安の竹林殿普請場面の概要は、「大和国官人藤原光弘は、大和川北岸に夜ごと光る霊地を見つけた。訪ねると貴い女人(春日明神)がいて〝この地は子孫繁栄の霊地である〟と宣託を受ける。そこで春日明神影向の地の平群郡夜摩郷(目安)の地に館を建て移り住み竹林殿と称した。数十年後、藤原吉兼(子孫)の夢に再び春日明神が現れる。庭の竹林に影向した春日明神は〝この竹林が盛んに繁るならば、そなたの子孫も繁栄するであろう〟と託宣した。さっそく明神を祀る社を建て〝神の竹を決して斬りません〟と誓約書をかいた」。
この社が目安の春日神社(昭和初期の大和川大改修で参道が無くなり、敷地は半分になったと云う。鳥居昭和9年銘)。竹林殿は神社の東北側(字堂垣内・大垣内88番付近)にあたると伝承する。
場面は、竹林殿の普請(右方尺杖を持ち指示する棟梁。準縄で水平を測る者。曲尺や墨縄で材木に目印を付ける者。槍鉋や銚で加工する者。食事をする者。木屑を運ぶ子供達など)の様子と画面左には、邸内の吉兼の夢に盛装の貴女(春日明神)が現れた場面を描写する。
絵巻の僧分にも登場する興福寺学僧解脱上人貞慶(じょうけい、保元・平治の乱主人公藤原通憲・信西の孫、弁官貞憲の子)がこの竹林殿の春日大明神を、元寇退散祈祷寺にもなった勢野の名刹「惣持寺」(36坊・現在持聖院のみ)を創建にあたって勧請したのが、「惣持寺鎮守春日神社」なのである。文献:小松茂美編『春日権現験記絵』中央公論社1991・野間清六編『春日権現験記絵』角川書店1978
【freelance鵤書林205 いっこうD6記】