〜野口晴哉口述 愉気法講座(136)より〜
「手」のもっている良さというのを、下記の野口先生の講義録で再確認させられました。
自動書記のように、「手」に導かれるような感覚が、「穴追いの愉気」にもあります。
意識や頭で考えることから離れて、「天心」になって、ただただ手で息することに集注すると、「手」が勝手に動き出します。
受ける人の体が、愉気に感応して、「手」を必要な処へ導いてくれるのです。
この「手」に任せてしまって、導かれるままに追いかけてゆく愉気の方法を「穴追いの愉気」と呼んでいます。
これは、錘体外路系運動の訓練法である活元運動の相互運動の延長線上にあるもの、と私は捉えています。
そして、この穴追いの愉気の過程から、私たちは受ける人の体の状態をはじめとして、色々な情報を得たり、受け手の体と愉気の手から身体の叡知を学ぶことができます。
例えば、その重要な情報のひとつとして、
活元運動を訓練してきた者同士がこれを行うと、
かつては、教えても実際にやることが難しいとされていた、その人のための整体体操が、その過程の中で自然に出てきます。
なお、ここで言う穴追いの愉気は、野口晴哉先生が行われていたものを、野口裕介(ロイ)先生が、誰にでもできるものに発展させられたやり方によるものです。
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≪野口晴哉口述 愉気法講座(136)より≫
前述略
私なども原稿を書き出すと、考えが纏まってくると自分の手がまどろっこしくて仕様がない。手が六本くらい欲しい感じです。そして発想の纏まらない間は無駄なことでも書いている。中略
私はよく便所のなかで字を書きます。机の前では下らないことばかり書いております。便所の中でも下らないことなのですが、あったこと、心覚えのことを書いておりました。
そうしたらその書いたものが無くなっているのです。何処かへ片付けたのかと思ったら、今の「体運動の構造」という本がそれで、全部便所のものです。自分は下らんと思って書き終えたら捨てるつもりだった。
中略
ともかく色々なことに使われておりますけれども、私自身としてはただの落書きです。だから落書きで構想を纏めて次へいく。
手が二本だからそれまでに疲れちゃうからやめてしまう。やめてしまうとまた書けない。そういうことを長い間繰り返しておりました。
手に書かせるというつもりで持っていると書くのです、手が。
最近それを覚えて、何か考えると手に任せてもちゃんと書いている。自分で書いたより良い。
昔から心が集まると自動書記というのが自然に行われるということは言われておりました。
多分そういう自動書記をやっている人達は色々の信仰の結果そうなるのだと思うのですが、私のは活元運動の延長ー人間が健康を自分で保っていこうとする働きの延長なのです。
愉気も自分で自分の体を守ろうとする、自然に備わっている能力の延長です。延長というより能力そのものです。
人間にはそういう力がある。使わないで放っておいた。それを使うようにしだした。
それを使う為には何が必要かというと、余り気持ちをザワザワさせない。
天心。或いは無心でもいいでしょう。要するに余分な知識を全部無くしてしまう。中略
ともかく、人間の生きているというのは大変面白いことに、人間は何かあると手で摘む、触る。
方々に「触るべからず」なんて書いてある。
本能で無意識に触るからです。
触らない限り、自分と結びつかない。私など特にそうなのです。
お茶碗を持ってもこの持った感覚が悪いと嫌なのです。
感触も重さもみんな一つにならなければならない。手が決めるのです。
写真
by H.M. スマホ