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うさねこまったり

病気と私 45 帰郷

2020.05.11 18:56

誤字脱字等、その他本文のおかしなところは、随時修正していくつもりです。

お気づきの点などありましたら、どうかコメント欄で教えてください。

よろしくお願いします。

1988年(21歳)

----- 福島 -----


就職に失敗したおかげで、学校は無事に卒業することができた。

お金もぎりぎりだったので、東京からの引き上げは、引っ越し業者の車に乗って荷物と一緒に福島に帰ってきた。

ドライバーは一人だったのだが、迷惑をかけたくもなかったのであまり話しかけたりはしなかった。

頭の中に流れていたのは、南こうせつ「ByeByeTYO」(52:26~)


高速を使ったが、時間はたっぷりあった。

記憶に残したいと思ったので、首都高速を出るまでは寝ないで景色を眺めていた。


別れてから、全く言葉を交わさなくなっていた人とも、卒業パーティーでは笑顔で「元気でね」と声をかけることができた。

もう二度と会うことはないだろうに、また会おうねと言った人もいた。

連絡先を書いて、渡してくれる人もいたし、もっと早くから知り合えていれば良かったと言ってくれた人もいた。

高校の同級生とも東京で会って、2年生の2学期からなにかおかしな感じになったことの理由も聞くことができた。

1年の時から3年間も一緒に居た人が仕掛けたことだった。

ずっと自分が何が悪いことをしたのではと考えていたので、理由があまりにも理不尽なことだったことに安心し、とてもすっきりした。

振り回されていたのは、私だけではなかったと思う。

仕掛けた本人だって、おそらくはそのことで良識のある人からは軽蔑されたはずだ。


大人になっていくというのはこういうことなのかも知れない。

様々なことに納得し、少しずつ感情が動かなくなってくる。

分からないことが少しずつ減っていき、感動も達成感もなくなっていく。


人は全ての人から愛されることはできない。

そういう人間を、嫌う人間が居るからだ。


私の知り合いと付き合っていた人が、その人と別れてから

「あんなに好きだったのに」

そう言ったことがあった。

その言葉が頭から離れなかった。


感情というのは、理屈ではどうにもならない。

誰かに頼まれてたからといって、人を好きになれたり嫌いになれたりしない。

自分で好きになろうと思ったからといって、それは同じことだ。


「あんなに好きだったのに」

この言葉は、今でも自分の中に時々現れて、自分ではどうしようもない感情が人にはあるということを思い知る。


目が覚めると、須賀川インターを降りたところだった。

実家に到着すると、すぐに荷物を降ろし、ドライバーはお金を受け取ってさっさと帰っていった。


母が、私が使っていた布団を見て、こんな布団で寝ていたのかと驚いていた。

私は、真綿の布団の扱いなど知らなかったので、布団を干すたびに、何かの棒で、力任せにバンバン叩いていたので、真綿が中でちぎれて、デコボコになっていたのだ。

母は可哀そうと言いたげではあったが、単に扱いが悪かっただけの理由だった。


3年間の東京生活で股関節を悪くしてしまい、松葉杖を使わないと歩くことが難しくなっていたし、そのおかげで入院もした。

卒業するだけで精一杯で、就活が全くできなかった。

マンションの部屋代と、生活費を稼ぎながら東京で生活するのは到底無理だったので、東京に未練はあったが、実家に戻ることはやむを得ないと思った。

収入がない状態での東京での生活は、想像しただけでも恐ろしかった。

家賃が月に7万円、食費が4万円としても、それだけで11万円かかる。

半年も仕事がなかったら、66万円も借金することになる。


それと、町の診療所で臨時雇用だが医療事務の仕事やらないかと言われていたので、それはそれでいいと思ったのだ。

私は、4月から勤務できるものと考えていたが、そういう話ではなかったらしい。


実家に戻っては来たものの、4月からやることがなくなってしまったので、診療所で雇ってくれるというのだから、せめて医療事務の認定書ぐらいもらっておこうと思い、講習会に通うことにした。

車は、兄が乗っていた車をもらうことになったので、まさに親の「スネかじり」状態で、学費もガソリン代も出してもらいつつ、食事から小遣いまで面倒を見てもらい、平和な生活を送ることになった。

親も東京での家賃や生活費を出すことを考えたら家に居られるぐらいなんともないと思っていたのだろう。


それでも、診療所に勤務するまでの間、ただ医療事務の勉強だけをしているわけにもいかず、24時間営業の郡山のビデオ屋で深夜のアルバイトを始めた。

駐車場が店のすぐ裏にあったことと、バイト中はほとんど立つ必要がなかったので、私にとってはかなり都合のいい仕事だった。


深夜のビデオ屋は、色んな訳あり系の人たちがやってきて、お客さんを見ているだけでもかなり楽しかった。

女子高生みたいな若い女の子が、パジャマ姿で店に入ってきて、会員になりたいというので身分証をお願いしたところ保険証を出してよこしたのだが、ありえない生年月日に思わず笑ってしまったことがある。

「すみませんが、誰の保険証ですか?」

「お店のママが貸してくれたのよ」

誰が来たのかを知っているのは自分だけなので、ちゃんと返してくださいよと言って、ママの会員証を作ってビデオを貸してしまったことがある。

物騒なことを言えば、店の近くで発砲事件があり、翌日のニュースを見て驚いたこともあった。


実家に戻ってからの楽しみと言えば、車を走らせることぐらいしかなかったので、バイトを始めるまでは、毎晩峠に通って車を走らせ、すこし変わった連中の知り合いが増えたりもした。

いわきの方まで、他の走り屋を見に行くこともあったし、車を早く走らせることは、とにかく無条件に楽しかった。


そして、この深夜のアルバイトは、毎晩が実家から店までのタイムトライアルになっていて、自分でも恐ろしくなるぐらいに、日に日に時間が短縮していって、仕事は仕事で楽しかったのだが、深夜の通勤も、悪くない楽しみになっていた。


体の方は、無理に歩く必要がなくなったおかげで、次第に松葉杖なしでも歩けるようになり、見た目には病気があるようには見えなくなっていった。


医療事務の資格も取り、臨時ではあったが、翌年の春には診療所に勤め始めた。


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