不眠解消、抱き枕
ウィリアムとルイスが週末に合わせロンドンの屋敷に帰ると、そこでは在宅していたアルバートとジャックが出迎えてくれた。
ジャックが屋敷の管理をしている以上、ルイスはモリアーティ家の執務を総括する立場として何の心配もしていない。
けれど定期報告で交わす文書だけで満足するはずもなく、今も変わらずウィリアムとともに毎週末にはアルバートが待つロンドンに帰ってきているのだ。
ウィリアムに尽くす日々は勿論充実しているが、アルバートに尽くす日というのもまたルイスを満たしてくれる。
そんな弟を近くで見ることを、ウィリアムは特別気に入っていた。
「ではワシは失礼する。何か用があれば呼んでくれ、ルイス」
「ありがとうございます、先生。あとは僕にお任せください」
ジャックが用意した紅茶を前に、モリアーティ家の三兄弟は互いの近況を報告し合う。
双方概ね聞いていた通りの報告に過ぎないが、それも家族という関係の中で交わされる会話であるならば一層の特別感に溢れている。
安心が確立された邸宅の中、何に構うこともなくありのままの自分を見せられるのは本来の自分を思い出すようだった。
決してモラン達の存在に気を遣う訳ではないが、幼い頃から三人で生きてきた三兄弟にとって、三人きりの空間というのはやはり別格なのだ。
アルバートもウィリアムも、何よりルイスが一番この空間を心地良く感じている。
そうだというのに、心地よいこの空間の中で今日のアルバートは普段の彼と違って見えた。
「はぁ…」
「兄さん、どうしました?」
「顔色が優れませんが、もしや体調でも悪いのでしょうか?」
主治医を呼びましょうかと、ルイスが真剣な表情で立ち上がる様子を片手で制し、アルバートは軽く痛みを覚える眉間に手をやった。
その仕草にルイスのみならずウィリアムも眉を寄せ、弱みを見せることを良しとしない性分の兄が隠そうにも隠し切れない頭痛を抱えているのだと理解する。
出迎えてくれたときには何の違和感もなかったけれど、今この場で三人きりになった途端アルバートの緊張の糸は切れたのかもしれない。
弱みを見せても良い相手だと認識されているのだと思えばウィリアムとルイスの心は明るくなるが、それ以上にアルバートの体調が優れないという事実は二人の気持ちを重くさせた。
「兄様、頭痛があるのですか?」
「あぁ…いや、大したことではないんだ。ここ最近、少し眠りが浅いだけで」
「眠れない、ということですか?」
アルバートはウィリアムの問い掛けに頷くことで返事をする。
心配そうに自分を見つめる二人の弟に、兄としての自尊心が満たされるとともに要らぬ気苦労をかけてしまう申し訳なさが沸き立った。
元々アルバートは不眠とは無縁の人間だ。
眠ることは効率的に物事を進める上で重要なファクターだと認識しているため、ウィリアムとは違い必ず一日の終わりには睡眠を取る。
ショートスリーパーではあるが、その短時間で確実に脳と体を休めることが出来るのだ。
そんなアルバートのことをウィリアムもルイスも知っており、だからこそ彼は滅多なことで体調を崩すことはない。
ルイスが記憶する限り、アルバートが不眠を訴えるなど初めてのことだった。
「た、体調が悪くて眠れないのでは?やはり医者を呼んで診察を依頼するべきでは…」
「その可能性はないよ、ルイス。眠れない理由に検討はつかないが、それなりに疲れているというのに眠ることが出来ないだけなんだ」
「眠くはなる、ということですか?」
「あぁ、眠いと思うのに眠れない。矛盾した症状については知っていたが、実際に経験すると中々つらいものだな」
「ふむ…心当たりは本当にないのですか?」
「ないな」
おろおろとアルバートを見やるルイスとは対照的に、ウィリアムは冷静にアルバートの不眠について原因を探る。
アルバートほど本人の自覚を信じられる人間もいないだろう。
ウィリアムは自分の限界を知って尚落ちるまで活動してしまうし、ルイスは倒れる寸前まで自分の体調不良には気付かない。
けれどアルバートは社交界を渡り歩く伯爵として、そして不甲斐ない弟達の見本となるため、己の体調については厳格に管理している。
そんな彼が体調の優れない理由を不眠と言うのであればそれは間違い無いだろうし、不眠の心当たりがないというのもまた事実なのだろう。
ウィリアムは狼狽えてアルバートの熱を測ろうと露わになっているその額に手を伸ばすルイスと、そんな彼の様子に苦笑しながらも随分と和んでいる様子のアルバートを見た。
「一般的な不眠の原因といえば不安・恐怖・緊張・ストレスですが、これらに自覚はありますか?」
「前三つはないだろうな。ストレスはないとは言えないが、あるとも言い切れない」
「なるほど」
身体症状と環境、アルコールやカフェインの摂取は普段と変わりないのだから原因にはならないだろう。
そうであるならば、不眠の原因はアルバートの内面に起因するはずだ。
ウィリアムは顎に手をやり、優れた頭脳を持ってしてありとあらゆる可能性を考えていく。
最愛の兄が悩んでいるのであれば、それを解決に導くのは弟としての役割であり義務なのだから。
「より良い睡眠のためには体を温めることが重要です。今晩はしっかりシャワーを浴びましょう。眠る前には僕がとっておきのハーブティーを淹れるのでお飲みください」
「ありがとう、ルイス」
「あとはリラックス出来るようにアロマオイルを焚くのも一つの手かと思います。オイルをすぐには準備出来ませんが、庭から薔薇を摘んでくるのでお部屋に飾るのはいかがでしょう?」
「なるほど。良い案だね」
額に当てていた手に感じるのはいつも知っているアルバートの体温そのもので、少なくとも熱はないのだと確信したルイスは少しだけ安心した。
自分から睡眠を取ることのないウィリアムのため快適な睡眠についての心得があるルイスは、今はウィリアムではなくアルバートのために幾つかの提案をする。
眠れずに思い悩むアルバートの姿など、見ていたくないのだ。
彼はいつだって自信に満ち溢れていながら穏やかで優しい、ルイス自慢の兄なのだから。
そんな心遣いがこそばゆい程にありがたく感じられて、アルバートは健気に自分を慕うルイスの体に腕を伸ばした。
「に、兄様?」
「ルイスの体は温かいね」
「そうでしょうか?兄様よりも体温は低いので、あまり心地良くはないかと思いますが…」
「そんなことはない。温かいよ、ルイス」
確かに体温自体は低いのだろう。
心臓を患っていたために未だ循環が悪いルイスの体なのだから低体温であることはどうしようもなく、けれどもその低い体温に彼の気持ちを加えれば、アルバートにとってこれ以上ないほどの心安らぐ温もりになる。
おずおずと遠慮するように、だがしっかりとアルバートの背に腕を回したルイスははにかむように微笑んだ。
儚く美しいルイスが幼い笑みを浮かべる様子は率直に「可愛い」と評価出来てしまう。
久々に見る弟の表情は、疲れていたアルバートの心を確実に癒してくれた。
そんな微笑ましい兄と弟の様子を気分良く見ていたウィリアムは、脳内で解決策を導き出すよりも目の前の光景にこそ正解があると考えついた。
「ルイスを抱いて眠るのはどうでしょう」
推察を重ねるでもなくすぐに提案してみせれば、アルバートからもルイスからも驚いたような目を向けられる。
「ルイスが言うように体を温めることは質の良い睡眠には不可欠です。安心できる良い香りもあるに越したことはないでしょう。そしてそのどちらも、ルイスを抱いていれば解決するものです」
「…確かに」
アルバートは腕の中のルイスを抱きしめたまま、その温もりを堪能する。
抱いていると鼻に届く彼本来の香りはどこか甘く、香水など振りかけていないはずなのに優しくアルバートを包み込んだ。
懐炉とアロマの代わりにするには上等すぎる、随分と有能な抱き枕になることだろう。
そして己を見上げるルイスを抱きしめたアルバートの耳に、今夜を決める決定的な言葉が響いてきた。
「何より、ルイスを抱いて眠るのは抜群の癒し効果があります」
「ルイス、今夜は私と寝ようか」
「は、はい…?」
ウィリアムの言葉に心の中で最大限の同意をしつつ、アルバートはルイスの顔を見て夜を誘う。
ともに眠るのは初めてではないし、純粋に抱きしめて眠るだけなのだから羞恥も必要ない。
ルイスが持つ抜群の癒し効果は今まさに実感している通りで、この癒される弟をそのままベッドに連れ込めるのであれば気分良く眠れるだろう。
兄の間であまりにもスムーズに進んでしまった解決策に驚きつつも、ルイスはアルバートの勢いにつられるように頷いてしまった。
「よく眠れると思いますよ。効果は僕が保証します」
「それは楽しみだ」
小さな顔にバランスよく配置されたパーツは実に美しい。
アルバートもウィリアムも系統の違う美しさを持っているが、当然の如くルイスも社交界から声が掛かるほどの美貌の持ち主である。
本人は傷物ゆえに自己評価を低くしているが、その危うさこそルイスの魅力を引き立てていると二人の兄は考えている。
特に生来の貴族であるアルバートは本能的に見目麗しいものに惹かれてしまう。
ウィリアムもルイスも、出会った頃からアルバートの審美眼に敵う逸材である。
見ているだけで確実に心満たされるし、自分の腕の中で安心したように寝入る様子を見ながら眠れるのであれば、それは他では感じられないほどの癒しになるだろう。
振り返れば過去にルイスを抱いて眠ったとき、誰かと眠るなど安眠どころではないと思っていたはずのアルバートが熟睡出来たのだから効果は確かだ。
まして今でもよくルイスとともに眠っているウィリアムが保証するのであれば、今夜を持ってしてアルバートの不眠はルイスによって解消されるに違いない。
「今夜は頼むよ、ルイス」
「は、はい。お任せください、アルバート兄様」
何を任せられるのかルイス本人が一番理解していないが、頼られたのであれば全力を尽くすのみだ。
アルバートが自分を必要としているのであれば精一杯応えようと、ルイスは気合いを入れてアルバートの背中を抱き返す。
健気に兄の役に立とうとする様子はウィリアムの目を癒し、アルバートの期待を高まらせてくれる。
頑張っておいでと、ウィリアムはふわり流れる髪を撫でて大事な弟をアルバートに託していった。
(兄様、庭からハーブと薔薇を摘んでくるので離してもらっても良いですか?)
(何に使うんだい?)
(眠前に飲んでいただくお茶に使うハーブと、アロマ代わりに部屋に飾るための薔薇です)
(あぁ…どちらも必要ない)
(え?ですが)
(ルイス。兄さんの言う通りだよ、どちらも必要ない)
(でも)
(いいから)
(おはようございます、兄さん。どうでした?)
(驚くほどよく眠れた)
(それは良かった)
(ここ数日の不眠が嘘のようだ…ルイスを抱いているだけであれほど熟睡出来るとは思いもしなかった。ウィリアム、今までルイスを独り占めしていたとは酷いな)
(ふふ…独り占めしていたつもりはなかったんですけどね。ルイス、君は眠れたのかい?)
(はい、普段と変わらず。兄様の腕は温かかったのでよく眠れました)
(では今夜も一緒に眠ろうか、ルイス)
(あ、それはいけませんね、兄さん。独り占めは酷いと言っていたじゃありませんか)
(ふ…では三人で眠るのはどうだ?)
(…!是非!兄さん兄様と一緒なのは嬉しいです!)
(ルイス…ふふ、じゃあ今夜は三人で眠ろうか)