その人らしさとは 2 〜野口裕介(ロイ)先生講義録〜
≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫
その人らしさとは(2)
前文略
それと同じで、それを体にたとえたとき、体が自動車、或いは万年筆だと考えたら、その体の使い方に癖があるとすれば、それはその体の持ち主の癖なのです。
例えば、ある人が胸椎の五番なら五番にいつも力が集まる、或いは腰椎のの五番にいつも集まるというように、もし私達が脊椎で観察しているとすると、それはその体自体に癖があるのではなくて、その持ち主である人の癖がそこに現れているわけです。
それでは、その持ち主というのはいったい何なのだろうか。
このことが私にとっての興味でもあるし、説明の仕方として大変気に入ったのです。
その持ち主というものを考えたときに、体の持ち主というものはじっとしているものではありません。
よくテレビのドラマなどで人の霊を描くとすると、何となく体と心が分かれていて、何か変な白っぽい感じにしていますね。透明みたいな感じにして、これが実は霊であるというふうになっていく。
そういうイメージは、非常に強くイメージとしてあるのです。
野口先生もその講義の中で生きているということを説明するときに
「西洋の人達は死骸に霊をくっつけると生きているということになるのだと思っている。しかしそれは間違いだ。生きているということは、一粒の細胞の時から生きているのだ。私達が生きている生というものは、一粒の細胞の時からあるのであって、今こうしてある私達の形というのは自分で作ってきたのだ。一粒の細胞が二つになり、四つになり、八つになり、十六になりと、そうやってどんどんどんどん自分の体を形成してきた。だから、こういう形になる前から生きているということがある。
つまり、形造っていくそういう勢いというものが生きているということなのだ」
というように説明をする。
そして、その癖がついていくというときに、何となくイメージの中に、人が持っている動きというもの、運動というものをどこかで空想するのです。
もしかしたら人間の動きの中で、人間を本当に一つの何か形になる前の勢いだけを考えたとしたら、それは伸びたり、縮んだり、捻れたり、片方にちっちゃくなったり、前に固まったりする、そういう動きだけなのかもしれない。人を動きだけで観ることをしてみれば、そういう動きだけを観ることになるのかもしれない。
私はそこが一つの発想になって、その動きというものに興味を持ちました。
もう勉強をはじめて二十年も経った後に、ようやくそうやって興味を持ち出したわけです。確かにそれは野口先生にとっては極めて当たり前な、一番最初から分かっていなければならないことで、言うに及ばずというようなことです。
けれども私はまずそこから始まったのです。その中で私は次に、野口先生の作られた整体体操というものがあるから、その体操を少し研究してみようと思いました。
中略
自分達の仲間でやりながら試していっています。すると、整体体操は大変精緻にできているということが分かりました。また、きちんと行い得れば体に大変な変革を起こすことも分かりました。
時期を選んで行うということをすれば、それは大変な変革を起こすだろうな、画期的なものだなということがよく分かりました。ですからこれは残しておきたいと思っていますし、後に残せるような体勢を創っています。
しかし、そこでも一つの問題があって、ちょうどそれが私が抱えていた問題と殆ど同じでした。
つまり偏るということ、一人の人が偏るということの意味が今一つ分かりにくかった。
偏りとは何なのだろうか、体の偏るということはどういうことなのだろうかということが分からないまま体操を実際に行ってしまうと、使いこなすことができないのです。
どんなに整体体操が理論においても、また実際に体の動き方を徹底的に研究して作り上げられた優れたものだとしても、やはり実際にできなければ意味がない。
大勢の人がやってみて試してみたり、或いは自分でとにかくそれらのことを使いこなしてみることができない限り、やはり後に伝えていくことは難しいと思ったのです。
つまり野口先生が作られた体操はあまりにも精緻で、変化が激しすぎてしまう。結論を言えばそういうことなのです。
そうすると、それを使いこなすためには、或い一つのクッションを使って、それを経てから次に行かない限り、使いこなせるものではない。
そこで、それではこれは自分で作るよりしょうがないというわけで、自分で偏りを作る体操を作ってみようと思ったわけです。