親切の研究 2 〜野口裕介(ロイ)先生講義録〜
≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫
親切の研究(2)
その時に、私は昔のその人のことを思い出している。つまり、一度そういうことを経験して観ていますから、初めて観るのとでは、全然違うわけです。やはり経験を持っていることは強いもので、経験が役に立っている。
それで首を観てみると、大学の先生の状態とよく似ている。これは頭の中でどこかが閊えた状態なのだろうと思う。
けれども、もし閊えてどこかが切れてしまっている場合であれば、手足がどちらか利かなくなってしまうことが殆どなのですが、手も足も麻痺しているようなことはない。
そうすると、頭に影響があるのだろうけれども、、頭に直接ではなくて首に異常感があるのかなと観ていくことができる。そして首を調べていくと、頸椎の二番という処が曲がっている。
けれども、、その時に頸椎の二番を「曲がっているからまっすぐにしなければ」とは考えない。昔なら考えたかもしれませんが、今は考えません。
一日経ち二日経ち、四日目が一番大事だと思いましたので、「四日目にもう一度いらっしゃい」と言いました。
四日目に観てみると、首の曲がっていたものが明らかに戻ってきている。何をしたというわけでもないのですけれども、自然の経過の中で元に戻ってきている。
「ああ、自分で戻る力があるのだな」と思った。
お腹を観てみると、虚冲実というバランスがちゃんと揃っている。
「よし、それではこのまま少し様子を観てみよう。今度は一週間目が大事ですよ」と言ったのですが、その四日を過ぎた時に強烈な活が入ったのです。
その人のお母さんが八十幾つなのですけれども、立派な老人ホームに入っている。大変しっかりした人ですけれども、お母さんが入っている部屋の隣にはずっと惚けていたお婆さんが入っていたのですが、そのお婆さんがついこの間亡くなってしまった。それで隣の部屋が空いている。そうしたら、娘がふとこう言った。「お婆ちゃんの隣の部屋が空いたから、あそこにお母さんが入ればいいかもね」と。
そうしたら、急にハッキリしてきた。あそこに入れられては困ると本気で思ったのでしょうね。なかなか大したものです。
娘の一言が効いて、それ以後に急に取り戻った感じに成った。もっとも、それは四日を過ぎてちょうど自分で少し戻ってきだしたところだったからでもあるのですが、ともかく活も入って1週間経つと大分戻って落ち着きました。
こういうことは五月とか六月に多いのです。首の曲がっている汗を急に冷やしたというような場合にそうなることがよくあります。
一過性と言えば一過性なのですけれども、首のひとつの異常でもあるのです。まあ、臨時の惚けですね。
けれども、人のことは言えないのですよ。一過性健忘なんてしょっちゅうあるもので、〝二階に上がってきたけれども、何をしに上がってきたのかしら〟ということがありましでしょう。
そういう時に首を観てみると、特に首の左側が異常にこう血管が硬張っているみたいになっている。血が上がりにくくなっているのです。そして頸椎の二番という処が閊えてしまう。脂の固まりみたいなものができてしまう。そういう人は首の肌の色艶みたいなものがすごく悪くなっているのです。
この季節には時々そういうことがありますから皆さんも気をつけてくださいね。まあ、若い頃から惚けていたという人はあまり気をつけなくても大丈夫ですけれども、若い頃に秀才だった人ほど気をつけなければならない。
それは、そういう頭の中の血行障害が起こってしまった場合に、自分ではこう喋ったつもりなのに、違った言葉が出てきてしまうということが起こってくることがあるのです。
そういう人に対しての親切は、それを言い直させないことです。本人は違った言葉が出ていることは知っているし、分かっている。それを「そうではないでしょ?こう言わなくては駄目でしょ」と言わせようとすると、却って壊れてきてしまう。
もともと壊れているのですけれども、その壊れたことが助長されてしまうのです。ですからそのまま話を聞いていること、それを無理に言い直させようとしないことが大切です。
もっと積極的に誰も気付かないでいる。これがある意味で一番親切だったりすることだってあります。
例えば癲癇(てんかん)を起こしたような人がいるとします。今は薬品で抑えてしまいますからわりに少ないけれども、それでも時々相談を受けることがあります。癲癇というのは引き付けを起こしてしまう。場合によれば失禁といって小水を漏らしてしまうこともあります。
そうなるのが癲癇のひとつの特徴でもあるのですけれども、引き付け自体はわりに大丈夫なのでして、止めることもさほど難しくはありません。
難しいのは、その引き付けた状態から目を覚ました時に、誰も気がついていないふりをしていることなのです。皆が口裏を合わせたように、何も知らん顔をして、何が起こったか全然分からないような形を取っているのが最もよい。
たったそんなことで引き付けを起こす傾向が抜けてくる場合だってあるのです。それを一々こと細かに「ちょっと前にこんなだったのよ」とか言って教えている人がいますけれども、それはずいぶん罪なことをしているのです。ですから知らないでいる、気付かないでいるということが一番の親切にもなるのです。
中略
ともかく何もしないということが親切だということもあるのですね。ベタベタしてやることが必ずしも親切のあり方ではないのです。却って危ないことだってあるわけです。
続く