親切の研究 3 〜野口裕介(ロイ)先生講義録〜
≪野口裕介(ロイ先生)講義録より≫
親切の研究(3)
そんなように、親切というのは人によって受け取り方も違えば、やり方も様々ですから、なかなか難しい面があります。
また考え方によれば、親切のあり方にも「天」の親切、「地」の親切、「人」の親切があるのかもしれません。
「天」の親切というのは、今お話ししたような、或る意味で何もしないでいるような、或いは全く気がつかない、そういう親切のあり方ですね。
「地」の親切というのは自分の中から自然に出てくる気持ちというものなのかもしれないのですが、
「人」の親切というのは、例えばここで転ばれては困るから抱えて手助けしてあげるというような形の親切のあり方ですね。その点で、うっかりすると自分の親切を押し売りするような、人からこう見られては困るからという形の親切になってしまう可能性があります。
よくここで指導を受ける時に、お年寄りの方が自分でここまで椅子を持ってきて座っていたり、座っていたら立ち上がれないとその椅子を使って立ち上がったりする。それで「あそこはなんて不親切なところだ。どうして手助けしてあげないのだろう」と言われます。
けれども、私はその時に手助けをすることが失礼だと感じることがあるのです。「相手は八十を超えた立派な人間で、経験も智恵も豊富に持っている。自分で立つことだってちゃんと知っている。そういう人に手助けすることはどういうものだろうか」と。
ですから手助けがいるかどうか見極めることが大事です。これは父の代からでもあるのです。それこそ立てなければハイハイをしてやってくる。
しかしそれを不親切かというと、私は不親切だと思っていない。それに私が家までついて行って立たせてあげることはできないですからね。
やはり、自分の力で立ち上がることを覚えていった方がよいに決まっています。それは今でも変わりません。
ある病院勤めているお医者さんとそんな話をしていましたら、「この畳というのは便利ですね」と言う。「自分で這ってでも来れますからね、病院ではふだん土足で歩いていますから、そこを這っていくわけにはいきません」と言っておられた。親切ということを考えると、人に見せるための親切ということを注意しなければならない。
親切の研究と題して考察してきましたが、親切のあり方も時代によって変わってくることもあるでしょう。私たちの整体指導というのももちろん親切で、善意で始まっているものです。
そういう意味でも整体指導における親切の問題ということは考えておかなければならないのではないかと思っています。私たちに何ができるのか、何が親切なのかということをもう一度皆様にも考えていただきたいと思っています。