論語読みの論語知らず【第58回】「中人以上は、以て上を語ぐ可きなり・・」
学術的アプローチにたいしてなかなかその正体を露わにしてくれないものがあるとしたら、その一つは記紀(「古事記」「日本書紀」)かもしれない。これまでに多くの学者が学問的にアプローチしている集積はあるし、それらをある程度読み込めばその解釈や考え方に納得できる部分もあるが、個人的には根本的なモヤモヤが残ることが多い。
たとえば、歴史学者で史料批判のアプローチで記紀に迫った津田左右吉の残したものなどは、言葉で言葉を丹念に洗っていくような迫力はあるし、よくこれだけ研究分析したものだなとは思う。ただ、どこかまったく手を付けていない領域を残したままの理屈であり結論のようにも感じたりもするのだ。記紀を読み返すたびに、知力と言葉の力で何がどこまで解明できるものなのだろうかそんな素朴な問いかけを感ずるのは私だけだろうか。
さて、「日本書紀」のなかの有名なお話にイザナギとイザナミがともに力を合わせて国を生み、そしてイザナミが黄泉の国へ旅立ってしまうものがある。これについては一般的に共有されているイメージは次のようなものだろう。
イザナミは黄泉の国へいき、寂しく思ったイザナギはそこへ出向き戻ってほしいと願うも、すでに黄泉の国のものを食べてしまったことを理由に断られる。そのときついイザナミの変わり果てた姿をみたイザナギは逃げ帰ろうとする。変わり果てた姿をみられて恥じたイザナミは怒って鬼女などを従えて追いかけてくる。そして泉津平坂(よもつひらさか)あたりでイザナギはついに追いつかれて言葉の応酬となる。イザナミ曰く「愛するわが夫よ。あなたがそのようにおっしゃるならば、私はあなたが治める国の民を、一日に千人ずつ絞め殺そう」。するとイザナギ曰く「愛するわが妻が、そのようにいうならば、私は一日に千五百人ずつ生ませよう」・・・
このあたりのことは「日本書紀」の「第五段一書第六」からの導かれるイメージであろう。実は「日本書紀」は構成が少し複雑であらすじは似ても子細が異なるストーリーがいくつも収録されているのだ。(「日本書紀」巻一と巻二は「本文」と「一書」(異伝)に分かれており、段によっては十以上もの「一書」が収録されている)
その中から別の「一書」を紹介したい。この「第五段一書第十」は知られているものとは少し詳細が違う。
一書(第十)にいう。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が伊弉冉尊(いざなみのみこと)のおられる所へいらっしゃって、語っていわれるのに、「あなたがいとしくてやってきた」と。答えていわれる。「どうぞ私を見ないで下さい」と。伊弉諾尊は聞かれないで、なおもごらんになっていた。それで伊弉冉尊は、恥じ恨んでいわれるのに「あなたは私の本当の姿を見てしまわれました。私もあなたの本当の姿を見ましょう」と。伊弉諾尊は恥ずかしいと思われたので、出て帰ろうとされた。そのときただ黙って帰らないで誓いのことばとして、「もう縁を切りましょう」といわれた。また「お前には負けないつもりだ」といわれた。そして吐かれた唾から生まれた神を名づけて速玉之男(はやたまのお)という。次に掃きはらって生まれた神を、泉津事解之男(よもつことさかのお)と名づけた。二柱の神である。その妻と泉平坂で相争うとき、伊弉諾尊がいわれるのに、「はじめあなたを悲しみ募ったのは、私が弱虫だった」と。このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊のお言葉がありまして、『私はあなたともう国を生みました。どうして更にこの上生むことを求めましょうか。私はこの国にとどまって、ご一緒には参りません』と」このとき菊理媛神(くくりひめのかみ)が申し上げられることがあった。伊弉諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。・・・(現代語訳 宇治谷 孟)
この最後に出てくる菊理媛神、登場するのは後にも先にもこの一回限りでこの「一書」だけである。そして、伊弉諾尊に何をつたえたのかまったく書かれていないのだ。ちなみにこの神様を今日お祀りしているのは石川県白山市にある白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)とされる。伊弉諾尊と伊弉冉尊の間を取り持ったことで縁結びの神様としても崇敬を集めている。数年前になるが私自身も参拝させてもらったが静寂に包まれたところに格式を保って建つお社という感じであった。話を戻してそして繰り返すがこの菊理媛神は何を言葉にしたのかは一切書かれてはいないのだ。いうなれば読む側は言葉でもって言葉を手繰り寄せる手掛かりがまったくないのだ。
このことが何を意味しているのだろうか。何か深い配慮と知恵があってのことなのだろうか。もしかすると言葉でもって手繰ろうとする試みそのものを控えるべき領域があるのだと仄めかしているのかもしれない。我々は日常を生きる中で言葉をもっていろいろなことを学び、そして多くを教えられる。そして、とても大切ではあるが手段の一つにすぎない言葉を万能のように錯覚もしやすく、その扱いに長けたものはときに増長もする。
ところで論語にこのような言葉がある。
「子曰く、中人以上は、以て上を語(つ)ぐ可きなり。中人以下は、以て上を語ぐ可からず」(雍也篇6-21)
【現代語訳】
老先生の教え。(人物を上・中・下に区分したとき)中級以上の者には、高度なことを教える(しかと語ぐ)ことができる。しかし、中級以下の者には、高度なことを教えることはできない
孔子は言葉を大切にした人だ。一つの単語がきちんとその物事の本質を言い当てているかどうかも非常に重んじた人であった。一定以上のレベルの弟子たちを教えるときには言葉を懇切丁寧に指導した。論語などはそうしたやりとりの記録を編集した集大成ともいうべき存在である。そして、言葉を巧みに運用できるものが、その学団(集団)のなかで高い地位に着きやすく、そして立身出世を遂げやすかったのも事実であろう。
だが、一方で孔子自身は言葉がもつ限界をしっかりと捉えていた人物でもあると思う。またどこかで改めて触れたいがそうであったと思わせる言葉がまたたくさん論語には散見されるのだ。なお、今回引用した論語の一文の訳は論語の第一人者ともいえる加地伸行先生のものであるが、もう一つ別訳を紹介して終わりとしたい。どこか辛辣で突き放すような訳だが個人的には好きな訳である。緻密で論理的でかつ壮大だけど結局は屁理屈を説く者などを一蹴する辛辣な訳でとても良い。
【別訳】
ほんとうの事はある高さまで来ないとわからない。その高さまで来ない者にはほんとうの事を説いてもむだなものである(五十沢二郎訳)
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。