病気と私 49 ライフスタイル
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よろしくお願いします。
1997年(30歳)
--- 福島 ---
1992年 長女誕生(24歳)
1994年 二女誕生(26歳)
二女が生まれる頃になると、右股関節が、時々亜脱臼をしたように何かに嵌ったような感じで引っ掛かり、関節がロックしたような状態になるという症状が出始めた。
関節がロックすると、ほんの少し動かしただけで激痛が走り、その状態からしばらく動けなくなってしまう。
痛みを我慢しながら、ゆっくりゆっくり動かしていると、ふっと抜けるような感じで動くようになり、そうなるとまた普通に動かせるようになった。
関節の悪化により、歩行時は常に痛みがあったし、極端な蟹股でしか歩行できなくなっていた。
血友病患者の50歳以降の生存率は知っていたし、現状でいつまで仕事を続けられるかを考え、子どもたちの養育費を妻に稼いでもらえないかと相談した。
二女が大学を卒業するまでとなると19年も先だ。
自分の体を考えれば、とてもこのまま働き続けるのは無理だと思った。
「一人で生きられない人間は、誰かと一緒に生きようとしても幸せには生きられない」
私は常にこう考えて生きてきたので、家族ともどう付き合っていくことが理想的なのかはずっと模索していた。
私が歩けなくなる。私を頼りにできなくなる。
これを、それぞれが自立する生き方を選んでいくきっかけにしようと思った。
当然自分自身のことも幸せにしなければならない。
二女が生まれたことは、私自身にとって、人生を考え直し行動に移す大きなきっかけとなった。
目標は二女が大学を卒業する19年後までの生き方だ。
私の病気で一番怖いのは脳内出血だと思っていたので、片頭痛が酷くなる度にCT検査を受けていた。
自分はとにかく、19年間は生きて、やれるサポートをしたいと思っていた。
子どもたちの面倒を見て行けるだけの仕事を彼女にしてもらいたいと相談し、生涯の仕事としてやりたいことはないかと二人で話し合った。
そのために資格が必要なら、大学でもかまわないので行かせてやると話をした。
今持っている預金の全てと、これから自分が働いて得られる収入の全てを使ってやれることなら何でもよかったので、とにかく、「やりたい」+「安定した収入が得られる」という二つの条件で話し合った。
私は貯金することが趣味だった。
それこそ小学生の時からコツコツとお金を貯め続けていた。
父にお金を預けると、とても喜んでくれたことも貯金をすることの楽しみになっていた。
何か買いたいものができて貯金をおろして来て欲しいと頼むと、買いたいものの半分だけは父がいつも出してくれていた。
また、全額出してくれることも珍しくはなかった。
そのおかげで、預金残高は結構な額に達していた。
高校からの進学の時、「小学校の保健の先生をやりたいと思っていた」と言っていたことを思い出し、その話をしたのだが、現状では資格があったにしても就職することはほぼ不可能だということだったので、保健師の仕事ではどうかという話になった。
老人ホームで働くなど、福祉施設で働くにしても、看護師・保健師の資格を持っていれば多くの選択肢が得られる。
保健師の資格取得は無理でも、まずは看護師の資格を取るため、看護学校の卒業を目指してはどうかということになった。
本人は私の面倒を見ることも目的としていたようだが、私自身は、自分の病気のことで家族に迷惑をかけることも、面倒を見られることもとても嫌だと思っていた。男としてのプライドもあったが、それ以上に甘えてしまえば自分がダメになることを自身が一番よく知っていた。
今回の私の提案は、お互いの人生にとってベストな選択をしようということであって、私自身は、自分が働けなくなることに関して、何か引け目を感じたりということは全くなかった。(結婚する前から自分がいずれこうなることは話しをしていた)
私自身は、いつ何を失ってもそこから生きられるようにと考えながら生きてきたので、何がどうなっても、自分一人で行きていける自信はあった。
そして、子どもたちは、私のような親の元に生まれたのだから、経済的に裕福な家庭は最初から望めないものだったので、お金がなくとも幸せに生きられるようにと、上の娘にはしっかりと前向きに生きていけるだけの教育をしてきた。
これから育っていく二女も同じだ。
人生は金がなくとも幸せに生きられるということを教える。
自分にやれることはそれだけだ。
子どもは親を選べないが、親は子どもをどういう人に育て上げるかという絶対的な権利を持っている。もちろん、6歳になるまでの話だ。
6歳を過ぎれば、親には子ども自由にする権利がなくなる。
何故なら、そこからは、自分の意思で生きるようになるからだ。
看護学校の受験は、現役から離れておよそ10年のブランクがあったので、まずは受験科目の通信教育から始めてもらうことにした。
私には、彼女がこういうことをやれる人だということは、結婚する前から分かっていたことだった。
しかし、「やれる」ということと、実際に「やる」ということは、本質的には全く違う意味を持つ。
文句を言うどころか、子育ての合間に、楽しそうに毎日コツコツと勉強を進めていく姿は、尊敬に値するものだった。
自分で選んだので当たり前ではあるが、彼女を結婚相手に選んだことを一度も後悔したことはない。
私の稼ぎがあまり多くなかったので、公立の看護学校を目指して受験をしてもらうことになり、入試の敷居は更に高いものになっていた。
最初に受験した看護学校では、成績は全く問題がない状態だったにも関わらず落とされてしまった。
どうしようかと相談したところ、もう一年勉強を続けたいというので、了承して見守った。
更に一年間受験勉強を続け、もう一度同じ学校を受験した。
成績は更に良くなったにも関わず落とされてしまったので、学業成績ではないもの(おそらくは年齢)を理由とした理不尽な扱いを受けたものと判断し、公立への進学はあきらめ、滑り止めで受けていた私立の看護学校へ入学することになった。(1997年)
私にとっては、学費の大小など、大した問題ではなかった。
2年間も勉強を続け、きちんとした結果を出したことに対して私が応えるのは当然のことだった。
できるできないではない、ただ、卒業させてやると決めただけだった。
彼女が学校を卒業し、経済的に子どもたちを支えていくことを考えれば、私の数年間は全然たいした仕事ではなかった。
私の職場から通えるようなところには、私立の看護学校がなかったため、彼女の実家から通える学校を選んでいた。
学校を卒業するまでは別居して何とかしようということになった。
子どもたちには申し訳なかったが、私だけが福島に残り、他は彼女の実家で生活し、子どもの面倒も含めて、向こうの両親にお願いすることになった。
結果的には、孫と暮らせることをとても喜んでもらい、私も余計なことを気にすることなく、自分の面倒を見ながらお金を送るだけでよかったので、貧乏なこと以外はとりあえずどうにかできる道が見えていた。
彼女には弟がいて、私とは泊りがけで一緒に釣りに行ったり、ドライブをしたり、パソコンの話をしたりとかなり仲が良かった。
子どもたちの幼稚園の運動会などは、福島まで来てもらって、私の代わりに参加してもらったりしていたので、子どもたちもとても弟になついていた。
私にとっては弟が居たこともとても重要なことで、祖父母だけとの生活になってしまうと、無意味な甘やかしが入り、自立心を育てるのにとても邪魔になるので、弟が歯止めをかけてくれることは、とても有難いことだったのだ。
娘たちにとっては、二人目の父親と同じようなものだったろうと思う。
そして二人目の父親は、私以上に融通のきかない、物事に白黒をはっきりつける人間だったので、子どもたちが成長する環境としては申し分なかった。
彼女の看護学校での成績は、とても優秀だった。
卒業する頃には、公立の短期大学への編入推薦が受けられるようになり、保健師の道へと進むことができた。
福島に戻って来た時には、保健師の資格も取り、郡山の病院への就職も決まっていた。
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