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たくさんの大好きを。

消えた青空 4 (おわり

2020.05.17 05:54

 

失くしたものは失くしたままならよかったのに

感情は複雑すぎるときっと持て余してしまう

飲み込まれそうになる

揺られる

獠の声が聞こえないこと

ぼんやりと見えなくなっていくこと

とても怖かったけど、それよりももっと怖くて怖くて目も耳も塞ぎたかったものは


何度も繰り返し見てきた光景

獠の過去のこと

過去のヒト

平気なフリして、でも全然平気じゃなかった一コマ一コマが、奥多摩以降苦しくて苦しくて叫び出しそうで無理矢理蓋をしていた。



「獠。」 

どうしてそんな風に傷ついた顔をしているんだろう。

離れていく温もりはきっと誰のものでもないけれど、今はここに在る気がした。

落ちた視線の先に映るのがあたしだけであればいいのに。

 

振り向かない背中にもう一度名を呼ぶ。

重なった視線はとても真っ直ぐで、さっきまでが嘘のようにひどく穏やかで。

どんな感情もいらないと思った。

ただただそこに手を伸ばしたかった。


「香。」

そんな風に呼ばれると、全部を勘違いしてしまいそうになるけれど、頭の奥のどこかは冷えている。抱き合うだけで溶けてなくなりそうなくらい幸せなのに、泣きたくなるくらい苦しいなんて、心と身体がちぎれてしまいそうになる。

こんな顔をきっと見せてきたんだ

こんな声を聞かせてきたんだ

触れられる身体はどんどん熱さを増していく。

「香。」

だからそんなに優しい声で、瞳で呼ばないで。

目が離せなくなる。もっとと欲しくなるから。

こんなのパートナーの枠を超えている。

そんなのお互いわかっているから。

多分いつもは他の誰かのぶつけている熱を、何故だか今はあたしなんだと思う。

そうしてまた何もなかったような顔で日常が繰り返されていくはずだから。

「何考えてる?余裕だな、香チャン。」

顎をくいと持ち上げられて、合わさないようにしていた視線を絡めとられる。

余裕なんてあるワケない。

ここがソファーで、こんな時間からなんでこんなことになっているのか、今気付いたくらいなのにやっぱり意地悪だと思う。

「アイツのこと?」

かすれた低い声と共に、また揺らされ翻弄される。

焼けるような痛みが連れてくる底の底から湧き上がる初めての感情に、思わず獠の頬に手を伸ばすと、ギュッと掴まれて、至近距離で目にする色気の破壊力に、クラクラと目眩がしそうな程に頭の中が溶けていく。

アイツって誰だろうとぼんやりと考えながら、そんなことはどうでもよくなるくらいに、熱の塊がぶつかってくる。

「や・・だっ。りょぉ・・」

「やだじゃねーだろ?いいからっ・・捕まってろよ?」

「?・・!!」

激しさは速度を上げていき、もう何も考えられなくなって真っ白になっていく意識の中で、灯ったのは愛しいという感情だった。



聞こえてくるのは少し耳障りな旋律。

五感のどこかが波立っている。


『優しかったのよ、とっても。』

『大切にしてくれた。身も心もね。』


吐き気のような感覚が喉の奥からせり上がり、きっと漏れていただろう声にならない悲鳴をあげながら、跳ね起きた。

気が付けば、掛け布団を握る右手はきつく食い込み、額や背中に嫌な汗が流れ落ちていく。

気持ちが悪い。

この汗も、あの声も、全部を望んでしまう強くなれない自分自身も。

「香?」

背を優しく撫でるその手は誰のものなんだろう。まとまらない思考に思わず涙が溢れ落ちそうになりながら、

「りょお?ここ・・・?」

と記憶とは違う景色に戸惑いを感じ、のっそりと体を横に向けて問いかけた。

バツが悪そうに頭を掻きながら、しどろもどろに答える獠の姿がなんだか不思議だった。

きっとまた、いつものポーカーフェイスでさらりと交わされていくんだと思っていたから。

「あ、あー、あーだな、あれだ。」

ちょっと何言ってるのか本気でわからない。

それでもまだ大人しく答えを待っていると、

「ここはおれの部屋だ。」  

「それはわかってる。」

即答した。だってどう見ても獠の部屋だ。何言ってるの?と訝しげな表情を向けると、ガシガシと頭を乱暴にかき乱していく。

獠はいつも困った時や焦った時なんかにこの仕草をするけど、それはつまりそういうことなのだろうかと気持ちがまた下へと沈む。

「いいよ。もうわかったから。」

「へ?」

とにかく早く逃げ出したくて、焦る気持ちを抑えながら先刻、翻弄されながらいつの間にか脱がされた上着を探そうと、下へと手を伸ばそうとすると違和感に気付く。

「あ・・れ?これ?あたしの服・・」

覚えのないシャツに助けを求めるように、獠の方を振り向くと、

いや、だから。だの、あー、だのまだ言うから、ギュンと上がった沸点のままに獠のシャツの襟首を掴み上げる。

「獠!?」 

「ぐえっ!!待て、待て待て。だから話を聞けって。」

「だから、さっきから聞いてる!!」

「・・・ぐえっ!!コラ!香。待てって!」

ギリギリと締め上げれば、涙目の獠が軽く制して、掴む手は緩まっていく。

「どうして・・・」  

「だから、おまえが意識なくなってからそのままだとあんまりだと思って、風呂入れて着せたんだよ。それからここに連れてきたってワケ。あそこで寝るわけにいかねーだろ?」

「意識?・・お風呂?・・獠が?」

「意識がない奴をどうこうする趣味はないからそこは安心しろよ?」

「なん・・で?」


なんで。どうして獠は。

どうしてあたしを抱いたの?

聞きたいことは一つも言葉にならなくて、うまく動かせない身体が繋がりの名残だけ残して、心をどこかに置き忘れているようで焦燥感が襲いかかってくる。

無意識にベッドから抜け出そうとすると、足に力が入らなくてフラリと揺れた体を抱き留められた。いいのに。きっとこんなことも慣れているんだろうと、スキルが皆無の自分自身に俯くことしかできない。

「だい・・じょうぶだから。」

逃れたいのに、離して欲しくないなんて本当に馬鹿だと思う。

振り切るように腕をすり抜けると、獠の瞳が少し細められて、

「無理するな。悪かった・・な。」

とまた捕らわれる。

なにが悪かった、なんだろう。

言葉通りの意味なら、やっぱり獠は後悔しているんだと思った。

抱きしめたり優しくするのは、優しいから。

狡いくらいに優しいから。

そんな優しさはいらない

やめて。と小さく吐きながら、胸を押し返すと、拘束から逃れて縺れる足でそれでもこの場から逃れようとするあたしの背に、

「香!」

と声が届くけど、振り向くことなく飛び出した。




「で?」

「・・・なにが?」

「もう!だから、香さんは?」

飛び出していった香をすぐに追うことができずに、軽く半刻ほど部屋から出れなかったなんて、美樹ちゃんの前では口が裂けても言えないな。と、鉄壁の仮面でやり過ごす。

の、ハズだが、

「ふ〜〜〜ん・・・」

あり得ないくらい、わざとらしい返しが来るから、

「・・・あんだよ?」

と探るようにちらりと見れば、

「ふーーーん?」

と美樹の顔が近づき、ずずいと覗き込んでくるから思わずのけ反りながら牽制から逃げる。

「ねえ、冴羽さん。香さんと何かあったでしょ?」

なんだ、このしてやったり顔は。

聡いにも程がある。海坊主いったいどんな風に育てやがった!

「あ〜ん?なんのことかなあ?獠ちゃん、わかんなあい。」

「あらあ?それって認めてる?きゃあ!ファルコン!冴羽さんがね、そうなんだって!」

「なにがだよ!」

主語がないのは女子の会話の特徴なのかと、ただでさえ内心穏やかじゃなく荒れまくりなところに、ジャブを打ってくる美樹に食ってかかっていく。

「美樹、やめなさい。馬鹿には何言っても無駄だ。」

奥から出てきたうすらでかい男が優しく妻をたしなめる。

誰が馬鹿だ。誰が。

おまえらこそ真性バカップルじゃねーかよ!

と、ダン!とカウンターにちょっとだけ足を踏み出せば、ダブルでやめんかい!と攻撃を喰らう。

「冴羽さん・・・うちのカウンターは足置き場じゃないのよお?」

「自分で拭け!自分で!・・ったく香がいないくらいで荒れるなんざ、情けないな、獠。」

「だめよ、ファルコン。そこまで言っちゃ。ただでさえピリピリしてるんだから。逃げられたのかしらね?」

「大方、逃げられたんだろ。」

「そうね。逃げられたのね、きっと。」

ワザとやってんのか?コイツら。

一番言われたくないワードが飛び出して、的確にピンポイントで突いてくる。

逃げられたのか?

アレは逃げられたんだよな。そうだよ、逃げられたんだよ。と言い返す気力を根こそぎ持っていかれて、力無くカウンターに突っ伏した。

「あら?やり過ぎたかしら?」

「やめとけ。今は豆腐のメンタルだ。コイツは。」

「だあれが、豆腐だ!!誰が!!」

「ねえ、冴羽さん。」

「・・・・・」  

獠の言葉なぞ聞いちゃいないけど。とばかりに、にっこりとマイペースに目の前のメンタル豆腐の男に問いかけてくる。

気のせいか尻尾のような黒いモノが揺れている気さえする。

無言で睨みをきかせてみても、一ミリも気にする様子もなく、ねえ?と妖しい笑みを浮かべる。

「気づいてる?どうして冴羽さんからそんなに香さんのカオリがするのかしら?」

「は?」

ニコッと笑って首を傾げる姿は確信犯だ。

気づいてなかったと言えば嘘になる。

商売柄と、幼い頃から身体の感覚を研ぎ澄ませて生きてきた環境下で、嗅覚は自然磨かれていき、身体に残る残り香には人一倍敏感にならざるを得なかった。

香を掻き抱きながら過ごした数時間が頭の中を一瞬よぎるが、バレたら色々面倒なのは確実なので、

「そりゃ、おれ達おんなじ家に住んでんだから匂いなんておんなじに決まってんじゃね?」

そう無難に交わす。

「そんなの前からでしょ?そうじゃなくて・・ね?」

「何言ってるかわかんねーな。」

これ以上ここに居ると思わぬボロが出そうだなと、軽く腰を浮かせて立ち去ろうとすると、

バアアアン!!!!

というけたたましい音と共に、今関わりたくない男ダントツナンバーワンの金髪男が息を切らせながら飛び込んできた。

「ミキ!!!ファルコン!!」

いつもは涼しげな雰囲気を撒き散らしている男の口調は酷く切羽詰まっている。

美樹の瞳がまあるく開かれて、とりあえず。とコトリと冷えた水の入ったコップをカウンターに差し出した。カランと氷がぶつかり合う音が店の中に小さく木霊する。

「どうしたの?ミック。」

「どうしたもこうしたもないよ、ミキ!」

一気にコップの水を飲み切り、ダン!とカウンターに叩きつけながら、ミックがまくしたてる。

「ちょっと!割れちゃうから!」

美樹が抗議の声を上げ、後方で彼女の夫が軽く威圧をかけていく。

双方からの圧に、両手を上げてsorryと呟きながら、ちらりと獠の方に視線を走らせると眉間にシワを寄せる。

「・・何やってんだ?オマエ。」

「何って、なんだっていーだろ?」

「何でここに居るんだ?」

ヤバイくらいに目が据わった男の真意が分からず、面倒はごめんだとばかりにフンと視界に入らないように首を反らせる。コイツがこんな時は嫌な予感しかしない。

「へーへー、言われるまでもなく去りますよっと。」

「・・・どこ行くんだよ?」

「んー?ナンパあ。」

ガツンという鈍い音が鳴り、拳を振り下ろした男と、赤く腫れた頬を抑え、視線を外した男が纏う雰囲気で対峙する。

「・・いってーな。おまえ、いきなり何なんだよ」

コイツが熱くなるなんて予想が付く事柄なのかと、声色が低く尖っていく。

「なんだじゃねえよ。おまえ知らないのか?

カオリがどんなになってるか!」

ぴくりと眉が跳ね上がる。

「どういう意味だよ?」

「おまえ・・ほんとに知らないのか?あんなの放っておけよって方が無理だぞ。いや、無理だ。やっぱ無理だ。無理だったら無理だ。」

喚く金髪男の髪をガシッと掴み、

「だから何なんだよ。早く言え。」 

と促す。

「ミック!」

美樹の声が更に続き、早く言え。の空気が店内に色濃く広がっていき、ミックのため息が盛大に漏れた。 

ガタンと乱暴に椅子に座り込み、不貞腐れたようにカウンターに頬杖をつく。

「さっき駅前で偶然カオリを見かけたんだよ。声かけようとしたらさ、もう既に先約済みでさ。」

「先約?」

美樹がすかさず問いかける。

「ああ。なんだか少し辛そうでさ、多分それで近くにいた奴が声かけたんだろうけど、それがだ、ミキ!」

美樹と言いながら視線はジトリと獠を捕らえている。歯ぎしりまでしてなんだか視線だけで殺されそうなぐらいの勢いだ。

「ダダ漏れなんだよ!ダダ漏れ!!もうとにかくすごいんだ!」

『「「はあああ???」」』

その場にいるミック以外の三人の頭にはてなマークの花が咲く。

「何が?」

拍子抜けしたような声で美樹が首を傾げる。

「何がって、色気っていうか可愛さっていうか、とにかく身体中からエロい光線出まくりなんだよ!でもって身体は辛そうだから、儚さ?っての?合わせ技で、声かけた奴しばらく見惚れてたんだよ。軽く20秒は止まってたな。あれは。」

「・・それで?」

地を這うような低い声をものともせずに、ミックが更に続けていく。

「そいつはさ、カオリが丁重に断っていたけど周りのヤロー供が、舐めるように見てるのがだなあ!カオリは気付いていないし、危なっかしくて見てられなかったよ。」

「じゃあ、どうして!」

「どうしても何も、待ち合わせ相手がいるんじゃオレの入る余地なんかないだろ?」

「待ち合わせ?」

「しきりに時計を気にして、周りを見てたからな。ピンときたわけだ。まさか・・まさかと思うが、カオリのあの雰囲気は女のソレだ。ミキなら何か知ってるかと思って飛んできたんだけど・・知らない?」

「・・・さ・え・ば・さん?」

「なんだよ?獠なんか知ってるのか!?言え!言いやがれ!」

目が本気すぎて暑苦しい。

何でおまえがそんなに必死になるんだと、心の中で舌打ちする。

ホワイトデーなる日に待ち合わせなど、件の男なのかと黒い塊が感情の根っこに落ちる。

「冴羽さんからね、香さんの香がしたのよ。」

「はあ!??」

「美樹ちゃん、今それ言う?」

焦り顔の男を横目に、今言わなきゃいつ言うのよ。とフンと一瞥してミックの前で頬杖をつきにっこりと笑う。

小悪魔だ。やっぱり尻尾あんだろ?てか、止めろよ、タコ坊主!

ひたすら皿を拭きながら、関心なさげを装っているが、広角が僅かに上がっているのを獠は見逃さなかった。

この夫婦はやっぱり喰えない。

この状況を密かに楽しんでやがる。否、密かになんてもんじゃなくあからさまにだ。

横でとにかく金髪ヤローが、どーいうことだ!

おまえまさか!!とか、わーわーと煩いから、とにかく無視する。

「おまえな!よーし!おまえが言わねえならオレが言う!街中に言い回ってやる!お店の子達にもみーんな言ってやる!」

待て待て。それはヤメロ。

「なんでそうなる?知りもしないこと広めんな!アホ!」

「じゃあ、教えろ。」

うんうん。と美樹が頷き、海坊主のキュッキュッと皿を拭く音が心なしか強くなった。

はああと心の底からのため息が漏れる。

なんでオレが。

こんなとこで。

香とのあれやこれを。

言わなきゃならんのだ!と理不尽さに吠えてみたくなるが、全く逃してくれそうにない三者三様の圧に、目の上にズキズキする痛みが走る。

香の様子が気になって仕方ない。

というか、とにかく早く捕獲して連れ帰りたいが、逃れるにはある程度の説明は必要かと素早く頭の中で算段する。

否定をするのは簡単だか、今はそれはしたくはない。

したくないものはしたくないのだから仕方ない。自身の心境に驚きもあるが、口に出してしまえば、そちらが真実になりそうでとにかく嫌なのだ。

拒絶されその上逃げられたことが獠の思考から冷静さを奪っていた。要は傷ついているのだ。

メンタル豆腐はあながち間違ってない。

「だから。」

「「だから?」」

海坊主は無言で皿を拭く。

「今朝香と」

「「と?」」

「寝た。」

ぱあああとわかりやすく美樹の顔が輝く。

ガツンともう一度、頭にかなりの痛みが走り、できたたんこぶをさすりながら、ミックを睨む。

「いてえ!!さっきから何すんだ!!おまえが言えって言うから言ったんだろーが!」

「うるせー!おまえ、おまえ!よくもオレのカオリに!」

「おまえのじゃねーよ!おれのだ!」

「あら?でも逃げられたのよね?」

美樹ちゃんほんと今それ言う?が何回目だ?とげんなりとして、尻尾が生えているであろう女店主を軽く睨む。

「逃げられた?だからか?そうだよな、普通あんな状態のカオリを外に出さないよな?今までも可愛かったが女の色気が増して、いらん虫が付きまくりだからな。そうか、逃げられたのか。そーか、そーか。」

こめかみ辺りがひくついて堪らない。

「あら、危ないわね、それ。」

「そうだな。危ないな。香は気付いていないだろうから余計にな。」

沸点が切れそうだ。

「・・もういいだろ?」

纏う空気が瞬時に変わったことに気付き、それでも瞳では牽制しながら、ミックが獠から少し距離を置く。

「これ以上引き留めちゃうと、お店で暴れられても困るものね?」

諦めたように美樹が愛する夫に視線を送る。拭き終わった皿を戸棚に戻しながら、

「早く行け。」

と海坊主が幕を引く。

やっとか、と足早に立ち去ろうとすると、

「冴羽さん!」

と美樹の声を背に受け、軽く振り向くと

「冴羽さん、あのね、言霊よ。言霊。言葉にしないと分からないことだってあるんだから。今の香さんには特に・・ね。」

頑張ってね。と聞こえないくらいに呟いた美樹の声が届き、獠の瞳がすうと柔らかくなり、目元を緩める。

サンキュ。と片手を上げながらカウベルを鳴らして出て行く男の背が心なしかいつもより小さく見えるのは気のせいではないのかもしれない。

「なあ、普通はさ、幸せいっぱいなんじゃないのか?なんでアイツあんな余裕ないんだ?しかも逃げられたって。」

訳がわからないという顔で側の椅子に座り直しながら、ミックが呆れたように両手を軽く上げる。

「コーヒーは?」

「ん?もらうよ。」

サイフォンから程よく温まったコーヒーを注ぎ、ミルクと砂糖を二つ添えて、美樹がどうぞ。と差し出した。

「以外と甘党よね?」

「スイーツ男子だからね。ボクは。」

ふふ。と美樹が笑う。

「それを言い訳に香さんのことあれやこれやと誘ってるでしょ?知ってるんだけどなあ?」

「な、なんでそれを?」

「香さんがね、楽しそうに話すのよ。ミックったら甘いものが好きなのよって。一人じゃ恥ずかしいからお店に付き合ってくれって言われるって。かずえさんは?って聞いたらかずえは甘いものが苦手でね。って言うんだって。確かにかずえさん、あまり食べるイメージないけど、苦手って程じゃ、ないわよ・・ね?」

「わー!わー!ミキ、何を言ってるのかなあ?あー、そうだ、アイツだ、アイツ。なんであんなになってんだ?」

明後日の方向を見ながら、ミックの額に冷や汗が滲んでいく。

「あ、誤魔化したわね。・・まあいいわ。とにかくこれからはあんまりそういう事はやめた方がいいわよ。どうなっても知らないんだから。」

「怖いこと言うなあ、ミキ。」

ハハハと乾いた笑いが虚しく店に響く。

「冴羽さん、ちゃんと話せたらいいんだけど。」

「まとまったんじゃないのか?全然そういう雰囲気じゃないのは何でだ?」

「う〜ん?今になって・・かな?」

「??」

「過去のね、色々なこと。まあ100パーセント冴羽さんなんだけど。原因。」

「ああ、まあ、気にならないって言ったら嘘になるよな。オレもそういえばかずえに色々聞かれたなあ。」

「聞ければいいんだけどね。」

「そういうことか。」

「香さん、肝心なとこで引いちゃうから随分色々溜まってたんじゃないかしら?で、どーん。て・・ね?」

「獠は獠でアイツも肝心な事言わないからなあ。」

「でしょ?本当なら幸せな時なのにきっと壮大にすれ違ってるのよ。」

ふう。と美樹がため息を落とす。ランチタイムはとうに過ぎた店内は三人だけの空間で、聞こえてきそうな心の声は、早くまとまって仕舞えばいいのに。の言葉に尽きる。

「まあ冴羽さんが、これから先香さんを離すなんて想像できないけどね。寝ちゃったんなら尚のこと無理ね。そうじゃなくても無理だったのに。」

「美樹!そんな言葉ははしたないからやめなさい!」

海坊主の制止に、は〜いと美樹が大人しく従う。

「アイツ・・多分しつっこいぞ。そんな気がする。うん。」

ズズズと残りのコーヒーを飲み干しながら、ミックが一人頷き、

「そうね。香さん逃げるなら今の内ね。」

美樹が同じく頷くと、

「美樹!ミック!お前たちいい加減にしろ!」と真っ赤になったゆでダコ海坊主がシューシューと湯気を上げている。

「大丈夫かしら?」

「多分な。」

想いが通じた香が逃げ出した理由がなんとなくわかるだけに、全部吐き出してしまえばいいと思う。

もちろん、吐き出す想いのセレクトは必要だと思うが、シンプルに嫌なものは嫌だと伝えるのは大切だと思うから。

それがわからない男でもあるまいし、まさか拒否などすることもないと思うが、万が一には何がどう転んだって全面的に香の味方になるつもりだ。

「まあ、さっきの感じだとこれから逆に冴羽さんが振り回されそうよね。」

「・・知らないぞ、獠。大事にしないとあっという間に攫われるぞ。」

まー、オレがさらってもいーんだけどねーという戯言は、聞かなかったフリをしてドアの向こう側に消えたどうにも不器用な男にエールを送った。




立ち並ぶビル群を早足で駆け抜けて、騒がしさが増していく新宿駅前の人の波の先に探していた赤みがかった薄茶色の癖っ毛を捕らえて、思わず獠が眉を寄せる。

ミックの言う通りならば、何故よりによって人通りが溢れているこんな場所にいるのかと、速度を早めて近付こうとすると、隣で笑う男に気付く。

気付いたと同時に、アスファルトを蹴り、驚いた様子の香の腕を掴んだ。

「なん・・」

「悪いがコイツは体調が良くないんでな。連れて帰らせてもらう。帰るぞ、香。」

有無を言わせぬ獠の気迫に気圧されたように、男が怯む。

「槇村・・?」

名を呼ぶなとばかりに射抜いてくる視線に、男の声が上擦っていく。

「離してっ!!」

強い拒絶の意思で香が思い切り腕を振り切るが、本気の力の獠に敵うわけもなく掴まれたまま宙を切る。

「離せ!馬鹿!!なんでっ・・。あんたのそういうとこ大嫌い!」

香の振り切った感情が止まらない。

痴話喧嘩かと好奇の目を向ける周りの反応が次第に騒がしくなり、立ち止まるものこそいないが明らかに目立つ空間になっている。

「槇村、落ち着けよ。ちょっとこっちで話そう。」

「柿崎・・・」

「これはオレと香の問題だ。おまえには関係ない。」

「おまえじゃない!ちゃんと柿崎っていう名前がある!いきなり来て関係ないのはあんたよ!」

「槇村、いいから。」

「でもっ!」

「あなたも。こんな所で槇村を怒らせて好奇の目に晒していいんですか?」

とても堅気に見えない雰囲気を色濃く纏う、目の前の男を怖いという感情に臆することなく、柿崎が真っ直ぐに獠を見つめる。

「・・・行くぞ。」

「自分で歩ける。離して。」

「・・体、辛いんだろ?無理するんじゃねーよ。」

「・・辛くない。」

「嘘つけ。」

「うるさい!違うったら違うから!」

獠の頬が緩やかになり、

「・・何よ?」

怪訝な顔で香が睨みつけるが、獠の目元が柔らかく下がり、笑う。

「いや、久しぶりだなと思って。おまえがこんな風に怒るなんてな。」

「・・・・・」

「ハンマーも出なくなってただろ?朝起きたらいつもいねーし。あれ、わざとだろ?」

「・・気付いてたんだ。」

「気づくだろ?普通。」

「でも・・そんなの獠は気にしないじゃない。」

「あのなー、勝手におれの気持ち決めつけんなよ。こたえたさ・・かなり、な。」

「え?」

少し前を行く柿崎が、向かいに見える落ち着いた雰囲気のコーヒー店に入ろうかとジェスチャーで問いかけてくるが、獠が軽く首を振る。 

少しだけ思案を巡らせた様子で立ち止まっていたが、思い立ったように二人の側に柿崎が歩み寄り、香に視線を移す。

「槇村、最後に会えて良かった。おれさ、おまえのこと昔好きだったんだ。再会してまたあの頃に戻った気がしてさ、でもそうじゃないんだよな。槇村はもうとっくに新しい人生見つけてる。おれもさ、頑張るよ。槇村に負けないぐらいにな。」

「柿崎・・・」

「・・っていう感じに玉砕したんですよ。な?槇村。」

「な!?」

訳がわからない様子の獠が思わず声を漏らす。

「バレンタインの数日後にね、失恋したんですよ、おれ。」

罰が悪そうに柿崎がまいったなあ。とポリポリと頭を掻いた。

「冴羽さん・・ですよね?」

「・・ああ。」

「おれ、こんな事なんであなたに言ってるのか自分でも変だと思いますけど・・槇村、そんな簡単にブレたりしませんよ。おれは槇村の友達でもあるから嫌なんですよ。こんな事で槇村が誤解されるのは。だから槇村を責めないでやって下さい。昔の同級生のおれの想いに付き合ってくれていただけですから。」

「・・あたしだって楽しかった。昔に戻ったみたいで。だから・・謝らないでよ。なんか、ほんと、そういうとこ変わってなくて嬉しかった。ありがとう。」

少しの時間であったとしても、昔の懐かしい記憶に包まれた時間は幸せだと感じられた。

「頑張れよ。色々、な。」

「うん。柿崎もね。」

「冴羽さん、槇村をよろしくお願いします。」

先程から黙って二人を見つめていた獠に、軽く頭を下げて、じゃあな。と立ち去っていく。


「・・なんだよ、全部持っていきやがった。」

「ん?」

なにが?と香が斜め下から獠の瞳を覗き込み、首を傾げる。

「・・おまえはさ、いいのかよ?アイツいい奴だし、その、なんていうか、おれみたいな先がどうなるかわかんない奴よりーーって、香?おい!!」

気付けば振り向く事なく、獠を置いて華奢な背中が遠くなっていく。

「おい!待てって!」

それでも歩みを止めず進む香が、コンクリートに足を取られてその身体がぐらりと揺れる。反射で瞳を閉じた香が着地したのは硬いコンクリートの地面ではなく、獠の腕の中だった。

「バカ、無茶するな。」

戸惑ったような表情を浮かべた香だが、おぼつかない身体で拘束を振り切りながら、またよたよたと歩みを進めていく。

はあとため息を落としながら、包み込むように獠が肩を抱き寄せ、言葉を落とす。

「とにかく帰るぞ。」

「帰らない。そういうのさ、もういいから。後悔してるならしてるって言えばいいのに。あたしは・・こんな事しなくても一人で帰れるから。」

頑なな香の瞳は獠を映そうとはしない。

「・・だから勝手に決めつけんなって言ってんだろーが。おまえこそ嫌だったん・・だろ?」 

ドンと胸を突き、乾いた音が鳴る。

赤い跡を残した頬に再度拳が飛ぶが、不安定な足元が揺れて片腕で獠に抱き留められる。

「おまえなあ・・拳で思い切りなんていてぇよ。」

腕の中で香の肩が僅かに揺れ、瞳が真っ直ぐに獠の芯へと向かっていく。

「あたしは、後悔なんてしてない!」

「じゃあ、なんで逃げた?」

「逃げたんじゃ・・ない。怖かっただけ。」

ポツリと香が漏らした一言に、獠の表情が強張る。

「おれが?」

「違う、あたしは・・嬉しかったの。嬉しいって思う自分が怖かった。」

「香・・・」

「だけど・・あたしじゃなくてもこうなんだって。優しかった・・って言ってた。だからっ!そんな事考える全部が嫌、なの。」

メイン通りから少し外れた人通りの少ない道は案外と人通りが極まばらだ。

痴話喧嘩のようにも見えるやり取りは、特段目立つこともなく、時間に急かされるようにみな一様に足早に通り過ぎていく。


 

腕の中で堰を切ったように本音が溢れ出る

嫌いなんかじゃない

嫌いな訳がない

嫌いになれたらいいのに

そんなことはどうしてもできない

できないよ、獠

そう言いながら、涙を零す


胸が苦しいとはこういう事をいうのだと獠は思う

はらはらと零れ落ちていく涙を、この手で拭っても

どんなに強く抱きしめたとしても、きっと香の心は全ては癒されない

それでも。と

腕の中の存在が消えていかぬようにと、深く抱き込むことしか術を持ち合わせていない。

香の前では今までの経験などなんの役にも立たないのだ。

「昔のこと気にするな。って言っても、無理だよ・・な?」

無言のまま香が俯く。否定ではなく肯定だと受け取った獠が、そうだよな。と香の頰を撫で、指先で涙の跡をなぞる。

「なあ、香。おれはこんな男だしこれからもまた泣かせることもあるかもしれない。

・・って、バカ!コラ、泣くな。だから、そうじゃなくて、おい、頼むから泣くなって!」

俯いたまま肩を震わせる香に、言葉のチョイスを色々間違えているなと、どうにも情けない顔で獠が、香?と躊躇いがちにのぞき込む。

「・・もう無理。心臓が痛くて持たない。これからもなんて、あたしはそんなに強くないから。もういいから離してよ!一人にして。」

「いや、待て。違うんだってーの!暴れんな、バカ。」

「バカはあんたよ!」

涙を振り切り、怒りに染まる瞳が獠に向かう。

「・・まあ、そうだよな。すまん。上手く伝えられねーんだよ。悪かった。」

「・・なにが?」

「今のも、今までのも全部、だな。」

「・・これからも、なんでしょ?いいよ、もう。だって獠だもんね。」

やっぱり誤解してるよな。と獠の口からため息が漏れる。


『言葉にしないと分からない事だってあるんだから』


言葉。言霊。言の葉。

柄じゃないし、恥ずかしさで死にそうなくらいだが、今はそれが必要だと分かっている。

「あのな、こんな事一生言うもんかと思ってたけど、言わねーとどうしようもないみたいだから言うけど・・な。」

「・・・・・」

瞳を逸らしたままの香に、見せようとしなかった心を剥き出しにする。

「もう随分前からおまえしか見てないし、欲しくないし、これから先もおまえだけでいい。」

言いながら、どんどん明後日の方向に目が泳いでいく。

「嘘。」

「嘘じゃねーし。おれって信用ないんだな。」

自分で言っていて、あるわけないよな。そりゃそうだよな。と過去の行いを少しだけ後悔してみる。

「あるけないでしょ?からかってるの?あんたってほんとにーー」

「違うって言ってるだろうが!」

「違わない!」

「香!!」

「ねえ、こんなとこでじゃれ合いはやめてくれる?」

「「え!??」」


背後から降ってきた声に、二人同時に振りかえる。

「あっ!!・・・」

「へ??」

「なによ。二人とも変な顔しちゃって。」

「ママ・・・」

香が縋るようにやたら大きな図体のその胸に飛び込む。

「な!!?」

「あらあら?え?香ちゃん、もしかしなくても泣いてる?・・獠ちゃん、どーーゆーことかしらあぁぁ?これは?」

「なんだよ!ただおれはだなあ。説明をしていただけで!」

「なんの?」

「それはっ・・・」

「香ちゃん、どうして泣いてるの?聞かせて。」

香に向けられる瞳は限りなく優しい。

緊張が途切れたように、ぎゅうと強く抱きついてボロボロと涙を零しながら、香が想いを吐露する。

「ママっ・・見えなくなって、聞こえなくなって、怖かったの。でも.、なんにも考えなくてよかったから。あの人の声だってよく聞こえなかった。それでよかったのに。」

「あの人?・・もしかして?」

「うん。獠の好きだった・・ひと。」

「なんでそうなる!!?違うわっ!」

「獠ちゃん、うるさいから。香ちゃん、それはちょっと違うわね。」 

「違う?どうして?だって・・・」

「違うってんだろ!」

「黙っててってば!獠には聞いてない。」

「だから獠ちゃん、落ち着きなさいってば。今は香ちゃんの話を聞いてるのよ。言い訳はあとあと。」

しっしっと追い払うように手を振るラフレシアのママと、獠の事を全身で拒否している香の様子に、思わず舌打ちが出る。

「香ちゃん、あなた見たくないもの聞きたくないことが見えなかったり聞こえなくなってたのね。誰よ?そこまで追い詰めたのはっ!ああ、そこの苦虫潰したような顔してる人かしらあ?」

ますます獠の顔が険しくなっていく。香が居なければすぐにでも逃げ出したい所だが、できるはずもなく、ぐうと睨みつける。

「やだ、怖い。香ちゃん、でもねさっきの話だけど、それあなたが思ってるような事じゃあないわよ。」

「え?・・・」

驚いた顔で弾かれたように香が見上げた。

「ん〜、そうね、昔の獠ちゃんね確かに刹那的でそんな話もね、たまに聞いてたりしたの。まあ、本気になられたら絶対手を出さなかったけどね。」

ママの言葉の意味する事を理解し、香の顔が歪む。

香ちゃん。とママが言葉を繋ぐ。

「香ちゃんみたいなまっさらな子には酷な話よね。でもいくら昔のことでも嫌なものは嫌なんだって言ったっていいんだからね。香ちゃん肝心なとこでいつも我慢しちゃうから、そんなんじゃダメよ、ダメダメ。」

「昔って・・」

「んー?だってもう随分前から獠ちゃんのそんな話誰からも聞いてないもの。あたしの情報網を舐めないでよねっ。間違い無いんだから。ね?」

「ママ・・・」

ウルウルとした瞳で見つめられて、本来眠っているはずの、男としての庇護欲がモリモリと競り上がっていき、ウルウルキラキラの天然爆弾娘を強く強く抱き込む。

「おい、コラ。」

不機嫌極まりない男の声に、はっ!と我に返りラフレシアのママが乾いた笑いを浮かべる。

「あら、つい。やだ、そんな怖い顔!だってあんまりにも可愛いんだもん。あら、固まってるわ。おーい、香ちゃん?」

「誰のせいだ!誰の!」

「え、あ?!マ、ママ?」

「びっくりさせちゃってごめんね。そうよ、そうそう!香ちゃんに会いにきた女もね、獠ちゃんがこの街に来た頃にいた子よ。その頃の話。今更持ち出すなんて、獠ちゃんも罪作りな男よね。」

獠に視線を走らすが、不機嫌さを貼り付けたまま、そっぽを向き顔を合わせようとはしない。

「一度だけよ。一度だけ。獠ちゃんそこは徹底してたもの。」

「おい!」

あからさますぎて、香の気持ちを思うと、慌てたように獠が遮るが、話は折られることなく続いていく。

「香ちゃん。」

ラフレシアのママの大きな手が香の頬を撫でる。

「過去はねどうしたって変えられないから、今からの獠ちゃんを見てあげて。こんな風にね、また同じようなバカなことする子がいるかもしれないけど、気にしちゃだめ。」

香の口元に人差し指を当て、ね?とウインクするママに香がパチパチと瞬きをする。

間近で見ると迫力あるだろ?そーだろ?固まってるぞ、おまえ。と獠が心の声で同情を送るが、気付くワケもなくそもそも視線すら合わない。

「ママ・・・気にしないってできるのかな。あたし、ダメかも。それに・・・」

「それに?」

「だってあたしも結局おんなじなんだと思う。獠にとって。今までの人たちと。」

「んん?香ちゃん何が?同じなわけないじゃない。」

潤む瞳で香が訴える。

「ううん。変わらないよ・・獠は後悔してたから。あたしとそうなったこと。一度だけでも本当は望んでなかったんじゃないかって・・」

「か、香?!」

「はああああ???!!!」

突然の告白で頭の中がキャパオーバーのママが素っ頓狂な声を上げる。

「ど、ど、ど、どういうことよ!獠ちゃん!!いつの間にっ!ていうか、むしろなんで揉めてんのよ?することしたんならさっさと丸く収まりなさいよ。なんでまだすれ違ってんの?全くあんたたちってほんとに・・」

深い深いため息を吐きながら、ラフレシアのママがトンと香の背を押し、

「香ちゃん。あとは二人の問題よ。だけどね、いいこと教えてあげる。あのね・・・」

すうと近づき、そっと耳打ちで言葉を告げる。

「え?・・」

「大丈夫。み〜んな香ちゃんの味方だから。どうしてもの時は、ね?」

「・・あんだよ?」

ジロリと睨みを利かせながら、香の肩を引き寄せる。

「獠ちゃん、大事にしないとバチが当たるわよ。」

「・・・・・」

「じゃあーねー。お店で待ってるわああ!今日はいい話が出来ちゃった。フフン。」

スキップでもしそうな勢いで、ラフレシアのママがたらら〜と鼻歌まじりの声を上げながら立ち去っていく。

「りょ、獠?あた・・し??」

真っ青な顔で獠のジャケットの裾を握りながら、先程とは違う感情で香の瞳が涙目になっていく。

「おまえなあ、テンパるにも程があんだろ?すぐに噂になるぞ、あれは。」

馴染みの店全部に飛び込んでいそうだな。あれは。と獠が頭をガシガシと乱す。

「ご、ごめん、獠。ど、どうしよう?」

必死で訴える香の顔をじっと見ると、僅かに視線をずらし消えていった、まだ昼間の穏やかな装いの街並みを見つめて目を細める。

「ま、いいんじゃないか?」

「よくない!!なんであんたは平気な顔してんのよ!だ、だ、だってーー」

「おまえだからいいんだよ。」

今は言葉に乗せて想いが届けばいいと願う。

「おまえがいいんだよ。香。ずっとな。」

「・・・だって・・一度きりだって。それなのに噂になんてなったら!」

脱力感と憤りで、腹の底からのため息をはああと吐きながら獠が右手で顔を覆った。

「誰が!一度で終わらすかよ。嫌だっつってももう無理だからな。」

「え!?」

「だーかーら、香ちゃん?おれがいつそんなこと言った?」

「だって・・謝ってたじゃない。困ってたし、悪かったって・・。獠そう言ったじゃない。」

ジャケットを強く握りしめたまま、泣き出しそうに香が伝える。

「そうじゃねーよ。大切過ぎて、さ。おれでいいのかって。おまえの気持ち考えずに、止まらなかったから・・だよ。」

今日の香は本当に泣き虫だと思う。

バカ。バカ。と呟きながら、涙を掌で拭う香の両手を右手で緩く拘束して、空いている左手で、全部を包み込む。

「さっきの、今なら信じてくれるか?もう随分前からおまえしか見てないし、これからもおまえだけだって言葉。」

「ほ、ほ、ほんとに?」

ガクッと思わず頭を垂れる。

「はあ・・どんだけ信用ないんだ、おれ。」

途端、獠の下腹部から胸のあたりにかけて柔らかい感触が押し付けられて、足元から腰のあたりにかけて熱いものが一気に疼き出す。

だからそれは反則だと、胸の中に飛び込んできた香の甘い無意識の誘いに、理性の蓋が弾け飛びそうになり、数時間前の香の乱れた姿に想いを馳せ、色々と臨界点を超えていく。

「あたしで・・いいの?」

「だから、おまえじゃなきゃダメなの。はあ・・もうダメだ。無理。」

香の髪に額を当てて、抱き止める。

「え?な、なにが??」

「もう無理。頼むからおれのものになってよ、香ちゃん。」

「・・もうなってる・・けど?」

けど?のところでその上目遣いはヤメロ。

可愛すぎて今すぐここで押し倒したいなんて、知ってしまった香のあれこれに、もう歯止めは効かないなと口角が緩りと上がる。

「おれの全部をおまえにやるから、おまえの全部、もらうぞ?」

「え?」

「今朝だけで全部だと思ってる?甘いな〜、香。覚悟しとけよ。」

「な、なにを??」

不安という名の感情を貼り付けた顔で、恐る恐る香が尋ねた。やっぱり相変わらずこんな時だけは勘がいい。身の危険を本能的に感じているのだろう。でももう逃がさない。逃せない。

言霊でもなんでもおまえが手に入るなら、いくらでも伝えてやるから。

「りょ、りょ、りょうだって!」

緊張であり得ないぐらい、上擦った声の香がキッと獠を睨みつける。

「また、こんな事があったら、ハンマーだけじゃなくてこんぺいとうで潰すからっ!10割増にするんだから!」

真っ赤になりながら喚く香に、

「・・こんな事って?」

加虐心がくすぐられて、ニヤリと意地悪く獠が余裕の表情を浮かべる。

「だから!昔のっ、彼女!」

自分で言って、壮大に落ち込む顔を見せるなら、言わなきゃいいのに、と八の字に下がった香の眉に苦笑するが、そんなところまでが愛おしくて、いつだって胸を温かくする。

欲だけではない確かな感情があることに、いつも安堵し救われている。それはもう、覚えていないくらいに何度も自覚していたのに、それでもこれからも何度だって刻まれていくのだろう。

「ば〜か、だから彼女だなんていたことねーよ。今の今まで一度だって。」

「へ?」

「香チャンがは・じ・め・て。」

ボンと沸騰しそうなぐらいに茹で上がった香の全身が直立不動で固まる。

「ん?どーした?」

「あ、あ、あ、あんたって!!」

「んー?」

バチーンと思い切り叩かれた頬がじんじんと痛むが、あまりの予想外の香の一撃に、獠の瞳が大きく見開く。

「おま・・?」

「あんたってほんと最低!!あんたがそう思ってなくても、そう望むからあたしのとこまでみんな来るんじゃない!!あたしは、ただのパートナーだけど、それでも・・あんたにぶつけられない想いを側にいるあたしに、って!いつだって本気にならないのは獠の方じゃない!狡いよ、獠・・・」

「・・何でおまえが怒るんだよ。」

「だって、わかるから。なんであたしに言うのってすごく嫌だったけど、でもっ。同じだから、あたしも。」

「・・同じなわけがないだろ?」

「そんなのわかんない。」

「わかれよ、バカ。」

「わからないわよ、バカりょう!」

売り言葉に買い言葉で落とし所が掴めない。

それでも繰り返すのはごめんだと、あっさりと獠が白旗を挙げた。

「・・なにしてんのよ?」

「抱きしめてる。香ちゃんを。」

「やめてよ、こんなとこで。」

まばらとはいえ、視線をちらほらと感じるようになり、羞恥心から香が拘束から逃れようと抵抗を試みる。

「逃がさねえって言っただろ?」

「・・・本気?」

「当たり前だろ?おれは全部言ったぞ。言わなきゃ・・伝わらないからな。」

「・・今まで散々はぐらかしてきたくせに。」

「悪かったって。ゴメンナサイ。スミマセン。許して、香ちゃん。」

ぷっと思わず香が吹き出す。

「あたしも・・ごめんね。獠のこと避けてた。さっきも・・逃げ出して、ごめんなさい。」

「獠ちゃん、すご〜く傷ついたんだけどお?香ちゃん責任取ってくれる?」

「責任って?」

獠を見つめる瞳がやけに艶めいて見えて、目を奪われる。囚われる。

たった一度の重なりが、こんなふうに匂い立つような女の誘いを放つようになるなんて、先を思えば色々と複雑な感情が混じり合っていき、確かめるように、香の下唇を親指で撫ぜるように触れていく。

「!?りょーー」

「ここも、さ。」

「え?・・」

触れるだけのキスを落とす。

香の瞳がまあるくなる。飴玉のようだなと、くっと笑いが漏れ、触れる髪も寄せた頬も腕の中で可哀想なくらいに固まっている香の全部が、欲しくて欲しくて堪らない。

飢えのような欲を満たしていた先にあるのは、色を持たない世界だけだった。

そんなもんだと思っていた。


出逢いが世界の色を変えて

過ごす時が増えていく程に、色を持たない世界の虚しさを知った。

「おまえの・・全部、もう一度、貰ってもいいか?」

「い、一度?そ、それだけってこと?」

この期に及んで、斜め方向に舵を切る香はやっばり通常運転で。バカだなと柔らかい笑みを浮かべながら、コツンと額を合わせる。

「んなわけないだろう?責任ってのはこれからずっとだよ、ずっと。」

「りょお・・・」

未来をはっきりと示唆する言葉に香の涙腺が崩壊寸前になっていく。

「泣くなよ。」

困ったように獠が右眉を下げ、笑う。

「だって、獠がそんな事言うなんて。」

嘘みたい。と香が泣き笑いになる。その涙と笑顔が、こんな世界に居るなんて思えないくらい透き通るように綺麗で、涙を掬ってやる事を忘れてしまうぐらい見惚れていた。

「仕切り直しだ、香。行くぞ。」

言いながら、肩を抱き歩き出すが、ムスッした顔で振り向きちらちらと視線を送ってくる数人の馴染みの気配に牽制の睨みを投げつける。

全く、仕事が早すぎるんじゃないか?

とラフレシアのママのニンマリした顔が浮かび、明日からしばらく夜の店は行けないな。と心の中で盛大にため息を漏らす。

「獠?」

「なんでもない。とっとと帰ろうぜ。」

「え?こんな時間に?どうしたの?いつもならナンパに行ってる時間じゃない?熱でもあるの?」

本気で心配している様子の香が、伺うように見上げてくるから、なんだか色々と可笑しくて仕方がない。

「あのなあ・・仕切り直しっつーたろーが。帰ったら朝のすれ違いをやり直すんだよ!」

「え?!えええ!!無理!ムリムリムリ!まだこんなお日様の時間だから!!それにあたし、死んじゃうから!」

「・・ば〜か。初心者の香ちゃんにそんな無茶するかよ。そっちはもうちょい時間空けてゆっくり・・な?」

「そっちって・・。なにこれ。なんだか全然落ち着かないんだけど。獠とあたしがこんな会話してるなんて・・」

「これからも〜っと沢山いろ〜んなあれやこれを話してやるさ。」

キメ顔で迫る冴羽獠は誰これ?ホンモノはどこに落としてきたの?状態で、香の頭の中は激しくパニック状態に陥る。


「香。」


それでもたった一言で香の心は凪いでいく。

大好きなこの声に包まれていたいと願う。


大切なものをまた失くしてしまうかもしれない

どうしたってまた昔のことで苦しくなる日が来るのかもしれない


だけどいつだってこうやって側にいてくれるから

失くしてしまったらまた取り戻せばいい

苦しくなるなら苦しいって言ってしまおうと思う。


「ねえ、獠。」

「ん〜?」

「ママがね、もしもの時はね。」

「あ〜?」

「香ちゃんも遊んじゃえばいいのよ!だって。」

ギョッとした顔で獠が固まる。

「・・なんつーこと言うんだ!ったく・・」

「しないよ。」

「へ?」

薄茶色の瞳にはどこにもカケラほどの迷いも見当たらない。短く言い切るその清々しさが香らしい。

「あたし、獠以外は知らないし、獠しか見てなかったから、だからそんなの今更無理だし。」

さらっとすごい告白しているのを、まるで分かっていない安定の天然さは罪だと思う。

獠の顔がみるみる赤く染まり、そうか。と小さく呟くのが精一杯だ。

「だから、だから・・ね?獠もそうだったらいいなあ・・って思い・・マス。」

最後は消えるような小さな声で、真っ赤に俯きながら、何故だか敬語なんかでお願い事をしてくる可愛い生き物に、獠は一人悶えていく。

「ぜ、善処します。」

おれもそうだ。とはっきり言えない天邪鬼さは変われないが、目は口程にものをいう。とは言い得て妙で、獠の瞳は香しか映してはいない。


まいったな。と天を仰ぐ。

広がる青空は、呼吸の中まで滲み入るようにひどく青く清廉だ。

隣にいるからなんだとそう思う。

香の瞳に映る空もそうであればいいと願う自身は、随分変わったなと口角が緩む。  




なあ、香。おまえの瞳にはどんな空が見えている?






END




2020.5.17




最後もとても長くなりましたが、ここまで読んで頂いて本当にありがとうございました🙏

直接的な表現はなかったかもしれませんが、二人の絡みだったり、昔のヒトのお話があったりで、苦手な方はごめんなさいです🙏

いつから自覚して、いつから香ちゃん以外は、、になったのかなあとか原作から垣間見える台詞などから想いを馳せていくのがとても好きですが、あくまで個人的な解釈なので人それぞれいろんなリョウ香ちゃん像があると思いますので、こんな二人もいるのかなぐらいでさらっと読んでいただけたら幸いです(*´-`)



ネットプリントもとても拙いものですが、たくさんの方にして頂いて、ありがとうございますの気持ちでいっぱいです🙏🙇‍♂️🙇‍♂️🙇‍♂️

そちらの記事は期間が終わり次第削除させて頂きたいと思います😊本当にありがとうございました(*´∇`*)