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「宇田川源流」 「ワイドショー疲れ」の原因はまさに「適当なことを言って国民を不安にする」というテレビの終焉

2020.05.20 22:00

「宇田川源流」 「ワイドショー疲れ」の原因はまさに「適当なことを言って国民を不安にする」というテレビの終焉

 今回のコロナウイルスで、一つ確実にわかったことは「テレビはつまらない」ということである。まあ「テレビはいらない」まで言わなくてもいいのであるが、しかし、タレントのマツコ・デラックスは「テレビは終わるよ」というような言葉を使っているなど、テレビそのものの役割が全く果たせていない。

少なくとも「ジャーナリズム」というのは、正しいこと、事実を報道するものであり、何か捏造したり、いたずらに不安をあおるものではない。しかし、日本のジャーナリズム擬きは、「政府を批判する批判精神こそジャーナリズムである」などというような定義をしている。その定義そのものが間違えているので、まったく話にならない。それでもジャーナリストはある程度の節度がある。こういうと反対をする人が少なくないのかもしれないが、一応屁理屈であっても何らかの理屈を通すし(それが稚拙であるから聞いていて腹が立つのですが)それでもうまくゆかない場合は、「報道しない自由」を使う。

つまり、自分たちの何らかの意思があり、それを通すために「大多数の人とは関係のない正義」を取り出して、自分たちの思い込みで報道しているのである。

しかし、その内容をタレントがやってしまうとどうなるのか。

タレントというのは、ある意味で人気商売である。そのためにないかを過激化することがよいが、しかし、批判することだけであったり不安をあおるだけでは、話にならない。見ている人も批判を受けているような感じになってしまい、不快感だけが残ることになる。ある意味で、そのような不快感や押し付けるような意見だけでは、視聴者は「疲れ」を感じてしまうのである。

「○○疲れ」ということであれば、4年前のアメリカ大統領選挙における「ヒラリー・タイアード」が有名である。実際に、ヒラリークリントンの演説や得意満面の顔というのは、見ている側に「飽き飽きした」というような感想を持たれてしまう。その辺の原因を考えてみる。

「もう坂上忍を見たくない…」外出自粛で“コロナ疲れ”ならぬ“ワイドショー疲れ”を感じる人が続出

 コロナ禍による外出自粛の影響から、リモートワークになった会社員や学生などが自宅にいる機会が増えたことで、平日昼間のワイドショーを見る人が増えた。その結果、ネットでは「主婦は毎日こんなの見てるのか、そりゃ洗脳されるわ」「文句ばっか言ってる」「これはもはや有害」「こんなん見てたら馬鹿になるだけだわ」など、ワイドショーへの批判的な意見が散見されるようになった。

 中でも『バイキング』(フジテレビ系)のMC坂上忍に対しては、「政権の文句しか言わない」「怒ってばかり」「適当なことばっかり言ってる」「もう坂上忍を見たくない」など、辛辣な意見が続出している。

 例えば最近では、原稿を読みながら会見する安倍首相の映像を見た際に、坂上は「また読んでらっしゃるんだなぁと、僕も率直に感じた。期待してる分、ちょっとショックを受けてしまう」と発言。これにネットでは「原稿を読むのは当たり前」「丸暗記しなければいけないのか」「的外れな発言」といった指摘が相次いだ。また、「感染者数減少は医療従事者と国民の成果。政府が自分の手柄にするのは絶対に許さない」といった、偏った発言にも違和感を覚えた人も多かったようだ。

 ネガティブで不安を煽る情報や発言は、人の注目を集め、記憶に残りやすく強い影響力を持つ。そのため、番組の中でしばしば不満や怒りをあらわにしている坂上の様子や発言が、人々の印象に強く残ってしまうのも無理はない。

 そして、それらの発言が自分の意見と違うことが多い場合は不快な印象として残るが、中には、流れてくる情報について自分の中で検討することなく、そっくりそのまま素直に受け取ってしまうこともある。

 テレビを見ている時の脳は、視覚と聴覚をつかさどる部分が活発に働く一方で、思考に関わる前頭前野の活動が低下する傾向があることが分かっている。このような状態の時は、流れてくる情報の影響を受けやすく、場合によっては、あたかも自分の意見として取り込んでしまうこともある。特に、共感性が高い人や、能動的に考えたり行動することが苦手な判断力の低い人、与えられた情報をうのみにしやすい純粋な子供などはその影響を受けやすいだろう。

 さらに、ワイドショーは、報道機関のニュースなどの信憑性の高い重要な情報と、司会やコメンテーターの個人的な意見や感情がないまぜになることも多く、情報を受け取る側としては判断がややこしくなりやすいという性質も持っている。そのため、ワイドショーを見る時は、司会者やコメンテーターの意見は、あくまでも個人的な意見にすぎないことを意識しながら見なければならない。

 また、時には偏ったり誤ったりした情報が放送されてしまう場合もあることや、情報は移り変わることなども念頭に置いて見ることも必要だ。

 その上で、見ていて不快に思うことが多く、無駄なストレスになってしまうと感じる場合は、見ないようにすることをおすすめしたい。

文:心理カウンセラー 吉田明日香

2020年05月16日 06時00分 リアルライブ

https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12184-200024717/


 さて、上記の記事においてはこのようなことが書かれている。

それらの発言が自分の意見と違うことが多い場合は不快な印象として残るが、中には、流れてくる情報について自分の中で検討することなく、そっくりそのまま素直に受け取ってしまうこともある。<上記より抜粋>

要するに、テレビを見ているときというのは、そのまま中にあることを検討しないで受け入れてしまう人が多いということになる。確かに「テレビで言っていた」などといってその情報を検証することもなくうのみにして信じている人が少なくない。これが、おいしい店などというものであれば、一回ぐらい騙されておいしくない店に行ってみてもよいが、政治の問題や生活の問題ということになると、必ずしもそうではない。ましてやコロナウイルスなど極端な話自分の命がかかった話になるとそうもいかない。もっとわかりやすい言い方になれば、「責任のある話」でなおかつ「取り返しのない話」では、無責任な話に対して不快に思う頃が少なくないというのだ。

報道機関のニュースなどの信憑性の高い重要な情報と、司会やコメンテーターの個人的な意見や感情がないまぜになることも多く、情報を受け取る側としては判断がややこしくなりやすいという性質も持っている。<上記より抜粋>

そのうえで感情的な話になってしまえば、自分の中でその話を消化しながら聞かなければならないということになり、頭を使いながら見なければならなくなってしまう。つまり「不快な上に疲れるテレビ」ということになってしまうのである。

なぜ今のテレビは「素直に褒める」ということができないのか。そのことが大きな問題になるのである。もちろん、私もやってみて「批判する方が簡単」であるが、しかし「簡単なことしかしていなければ、不快しか与えない」ということになるのである。

「生活に関すること」「命に関すること」に関しては「極端なことを言う」ことができる。しかし、日本の場合は大多数がそのような極端な意見を求めているわけではない。単純に「自分たちの日常に何らかの役に立てばよい」という話であり、そのことで政権批判などをする必要もなければ、直接的な問題がない限りあまり関係がない。ましてや政治の問題などに関しては、あまり興味がないというのが本来の話であり「どちらでもよい」とか「政治政党なし」が60%を超えている内容なのである。そこを強制的に一定方向に誘導しようとすることに関しては、国民や視聴者は無意識に不快感を感じ、そして抵抗を感じるのである。それでも「(笑)」のなかで行うことが可能であれば、無意識に刷り込まれることになるが、不快などや顔を見せられても、不快しか残らない。もっと言えば、「自分が批判されているかのような不快感」しか残らない。単純に、いじめの現場に遭遇しているかのような状況になってしまうのである。

見ていて不快に思うことが多く、無駄なストレスになってしまうと感じる場合は、見ないようにすることをおすすめしたい<上記より抜粋>

  まさに最終的には今のままテレビを続けていれば「見ないことをお勧めする」状況になってしまうということになるのである。見ることを勧められない状況ということに、テレビはどう考えるのか。はっきり言って、「テレビ不要論」が台頭してくるのも時間の問題なのである。