いつでも身軽に、フットワーク軽く ─ 日本とドイツで活躍するオペラ歌手・川合ひとみさん
ヒューマンインタビュー第4回は、オペラ歌手の川合ひとみさん。
川合ひとみ(かわい ひとみ)
東京都生まれ。東京芸術大学音楽学部卒業。桐朋学園研究科修了、ロストック音楽演劇大学修士課程修了。二期会会員。
在学中からZita “Gianni Schicchi” Puccini, Sorceress “Dido and Aeneas”Purcell , Marcellina “Le nozze di Figaro” Mozart, Ute “Die lustige Nibelungen”O. Strauss , Altichiara “Francesca da Rimini” Zandonai等のオペラに出演する。
2016年にケルン室内歌劇場及び2017/18年シーズンにミュンヘンの劇場Pasinger FabrikにてRossini作曲のオペラ”La Cenerentola” にタイトルロールとTisbe役、2018/19年シーズンにはVerdi作曲のオペラ”Luisa Miller” にFederica役で出演する。
その他にも “Falksongs” Berio , “Kantate Nr. 2” Sutermeister等の近代音楽、”Wesendoncklieder” Wagner, “Sieben frühe Lieder” Berg, “Zwei Gesänge für Altstimme und Bratsche” Brahmsの歌曲分野、オラトリオでは”Nelsonmesse” Haydn, ”f-noll Messe” Bruckner, “Oratorio de Noel” Saint-Saens, “Messias” Händel, J.S.Bachのカンタータのアルトソロ、及び第九アルトソロ、”Alt-Rhapsodie”Brahms , “Rückertlieder”, “Urlicht” Mahler等の作品をStaatskapelle Schwerin, Symphonisches Orchester München-Andechsを初めとしたオーケストラと共演。
2017年ドイツPerlebergにてLotte Lehmannアカデミー最優秀賞受賞。2020年7月11日東京文化会館にて二期会オペラ「ルル」ベルク作曲にゲシュヴィッツ伯爵令嬢役で出演予定。
撮影:Matthias Ellinger
ドイツの歌劇場を中心に10年近く、国際的な歌手としてのキャリアを着実に積み重ねてこられた川合さん。筆者は大学時代からご縁を持たせていただいていましたが、2021年1月に開催予定の二期会サロンコンサートでご一緒することがきっかけで、再び親しくお話出来る機会に恵まれるようになりました。今回は、現在の筆者の住まいのご近所でもある川合さんと、飛鳥山公園でソーシャルディスタンスを保ったまま、お話をお伺いしました。
撮影:Matthias Ellinger
「ドイツに渡ったのは、2010年の年末のことでした。その直後に3.11の大地震が起きたことが、自分にとってはとても衝撃的でしたね。当時私が住んでいた家のインターネット環境があまり良くなく、情報はテレビのニュース頼り。衝撃的な映像が、今も心に刻み付けられています。このまま日本に帰れないかもしれないな……って、覚悟を決めました。私だけでなく、その頃ヨーロッパにいた日本人は皆、多かれ少なかれ、そんな覚悟を決めていたのではないかと思います。
その頃は様々な情報も、錯綜していて、何が本当のことなのかを見極めるのが難しかったですね。人間って、自分の目で見た情報を信じやすいじゃないですか。だから、お店や病院で『日本は大変なんでしょう?』って、心配そうに声をかけられたことも、何度かありました。きっと大丈夫!って、その度に答えていました」
ロッシーニ作曲《ラ・チェネレントラ》より(2017年、ミュンヘン)
撮影:Stefan Weber Photo Art
「ドイツと日本の違いでびっくりしたことは、日常生活だけではなく、劇場の中でもありましたね。たとえば、日本だと、衣装のまま座ったり、ご飯を食べたりってことは、絶対にしないじゃないですか。けれど、みんな衣装のままご飯を食べて、お手洗いに行って……って光景を見た時は、すごくびっくりしました。あと、『掃除は掃除をする仕事の方がいるから』という、プロとしての棲み分け意識がきっちりしていたので、楽屋を出る時にゴミをきちんと片付けて帰らない人も結構いました。これもやっぱり、びっくりしましたね」
日本とはかなり違う、ドイツの劇場文化。音楽面でのアプローチの違いなどもあるのでしょうか。
「発声のクセは、日本人が指摘されるものとは随分違うんだな、って印象を受けました。日本で多いのは、喉声というか、声帯の先の方を使ってキーッとなるようなタイプだと思うのですが、ドイツではそれはありませんでした。代わりに、ふわっとした、捉えどころのない声で歌う人が多く、注意を受けていましたね。
ただ、ヨーロッパの人たちは言語面でのアドバンテージがあります。大体みんな、英・独・伊の3カ国語は話せましたね。フランス語も、意味がわかるかって言われるとそうじゃないけれど、発音はきちんと出来る人が多かったです。あと、多かったのがスペイン系の人たち。南米からスペインに渡って、そこから学費の安いドイツに来て……ってパターンの人たちが少なからずいましたね。アジア系だと、韓国、次いで中国の人たちが多かったです。日本人はちらほら……という感じ。
ドイツに来たきっかけですか? 芸大を卒業してから、桐朋の研究科に進んだのですが、そこでスイスのローザンヌで教えてらっしゃる先生のマスタークラスがあったんです。その時の先生のお声が、他の人と全然違うところで響いていることにびっくりして……。それで、その先生に師事したいと思って、ローザンヌの学校を受験したんです。でも、結果はNG。その後、どうしようかなあ……と思って、イースターの時期にベルリンに住む友達を訪ねていったら、ドイツの大学のことを教えてもらって、魅力を感じました。
また、それと同じ位の時期に、コンヴィチュニー演出の《皇帝ティートの慈悲》を見たのですが、オーソドックスなアプローチとは全く違う世界に、強い魅力を感じましたね。それと、ロッシーニとリヒャルト・シュトラウスの作品のレパートリーを増やしていきたいと考え続けていたのですが、シュトラウスのレパートリーを学んでいくなら、やはりドイツ語圏だろうと思って……。この3つの要素が絡み合って、ドイツに渡りました」
パーセル作曲《ディードとエネアス》より(2014年、ロストック)
撮影:Reiner Nicklas
ドイツの各地に移り住みながら、着実にキャリアを積み重ねていった川合さん。多い時には、月に3〜4回はオーディションを受け続けていたそうです。
「オーディションは呼ばれないと受けに行けないんです。応募しても〈招待状〉が届かないと、受けに行くことも出来ない。でも、受け続けないと、チャンスも巡ってこないから。そんな風にオーディションが重なって、移動が続くと、お尻が肌荒れしてくるんですよ。座りすぎて。初めての経験にびっくりしました(笑)
劇場付きの合唱だと、終身雇用で将来は保証されています。実際、劇場に勤めている私の友人は、コロナ禍の中でもお給料はもらえているそうです。けれど、ソリストとしてのキャリアを築いていきたいなら、オーディションは切っても切り離すことが出来ません。オーディションの課題は様々ですね。課題曲の他に、朗読を準備するのを忘れて、とても焦ったこともありました。
いい結果を得られた時は、審査の後にだいたい話しかけられました。もちろん、人となりを知りたいというのもあったと思いますが、劇場に入った時にコミュニケーションをスムーズに取っていけるかってことも見られていたんだと思います。国籍の壁だけでなく、年齢も大きな壁になりますね。だから海外の歌劇場を目指す若い方には、出来る限り早く、向こうに渡ってもらいたいって願います」
ロッシーニ作曲《ラ・チェネレントラ》より(2017年、ミュンヘン)
撮影:Stefan Weber Photo Art
そして、掴んだ主役の座。ロッシーニ作曲《ラ・チェネレントラ》で主役のアンジェリーナを演じ、様々な〈壁〉を乗り越え、大きな賞賛を浴びました。
「《ラ・チェネレントラ》は、思い出深い公演ですね。自分にとっても、ぴったりなレパートリーなのでとても嬉しかったです。ミュンヘンで夏と冬の時期の公演でした。トリプルキャストだったのですが、冬の公演ではプレミエを担当することが出来て……。プレミエに選ばれた時は、本当に嬉しかったです。公演直前にインフルエンザになってしまいましたが、完治して舞台に立てた時の喜びは、忘れられません。
また、この公演で忘れられないのが、あるおじさんとの出会い。終演後、友達が『ヒトミを呼んでる人がいるよ』って教えてくれて、舞台に戻ってみると、そこにいたのは知らないおじさん。すごく興奮して話しかけてくれて、『今夜のチェネレントラは本当に素晴らしかった! 君の歌に、僕はすごく感動したんだ。花束をあげたいと思って、休憩時間に探したけれど、どうしても見つからなくて……。でもこの花を見つけたから、どうか受け取ってほしいんだ!』って言って、摘んできたばかりの花をくれました。すごくびっくりしたけれど、そのストレートさが、いいものはいいって伝えに来てくれるその率直さが、とても嬉しかったです。ドイツはこんな風に、客席との距離が近いんですね。街の文化の中に、自然に劇場が溶け込んでいるんです」
木漏れ日の中、川合さんは大事な思い出を慈しむように語りました。
ロッシーニ作曲《ラ・チェネレントラ》より(2017年、ミュンヘン)
撮影:Stefan Weber Photo Art
現在は、ドイツと日本を行ったり来たりしながら、双方で活躍の場を拡げている川合さん。海外でのキャリアを考える方へのメッセージを伺いました。
「海外に行きたい若い方には、『行くなら早いうちに行って!』って伝えたいです。私自身が、30代近くなってから渡航したこともあって、年齢のことは常に考え続けてきましたので……。そして、ヨーロッパは人種も多様だし、競争率も半端ないですから。アジア人はヨーロッパ人の3倍はよくないと、採用しないと言われましたし……。これは差別ではなく公然とした事実で、もちろん人種や国籍を問わず素晴らしい歌手であれば採用されますが、とにかく気を抜いている暇はありませんでした。
劇場でソリストをつとめていくとなると、大きなコンクールで入賞するか、オペラスタジオを修了するかのどちらかが王道だと思います。このスタジオに入るとしたら、街や声種にもよりますが28歳位までがひとつのライン。向こうは大体、24〜5歳で大学を終えて、その後オペラスタジオで経験を積んで、小さな役からデビューしていって……という積み重ねの上にキャリアを築いていきます。そして、オペラスタジオで研鑽を積む間に、エージェントを探したり、紹介されて劇場との縁を繋いでいきます。キャリアを始めていくなら、早いに越したことはありません。特に、スーブレット系だと、20代のうちに勝負をかけた方がいいです。ソプラノの方なら、大学院を終えて、24〜5歳のうちには海外に渡っていた方がいいよ、って伝えたいです。
ただ、今の状況だと、どうしても動くことが出来ませんよね。それでも、語学の勉強とかはどこでも出来るのだから、今せっかく時間があるうちに取り組んでもらいたいって思います。語学は、いくらやっておいてもいいです。あと、大事なのは人間力。人見知りしないで、いろんな人の輪の中に飛び込んでいく勇気を持ってもらいたいです。
向こうの人は、精神的に強いです。ラテン系の人たちは常にオープンマインドで、いつも明るく話し続けています。スラブ系、たとえばロシアの人なんかは、ものすごく気が強い。そういう人たちと同じ土俵の上で、選ばれる努力をしないといけないんです。日本で美徳とされる謙虚とか、いつか選んでもらえるかも、っていう淡い期待は通じません。そういう人たちを押しのける……というのではなく、『私は、ここにいますよ』って表明し続ける努力を、常にしていくということが大事だなって思います」
撮影:Matthias Ellinger
川合さんは現在、7月の二期会公演ベルク作曲《ルル》に、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢としてご出演予定のため、日本に滞在中です。(※5/25(月)に、本公演は来年8月に延期となりました)
今後のビジョンを伺いました。
「これから先、10年後のビジョンを自由に描くとしたら? 最高なのは、バイロイト音楽祭に呼んでもらえるような歌手になることですね。ワーグナーの作品も、これから大事に歌い続けていきたいです。また、マスネ作曲《ウェルテル》のシャルロッテや、リヒャルト・シュトラウスのオクタヴィアン(《ばらの騎士》)、コンポニスト(《ナクソス島のアリアドネ》)なども、演じられる機会が巡ってくることを願っています。リヒャルト・シュトラウスだと、他に《カプリッチョ》や《エレクトラ》もいいですね……。でも、最終的には、聴いて下さる皆様が幸せを感じていただけるような作品を歌っていきたいです。また、オーケストラとご一緒に奏でられるような作品にもご縁を持てるといいですね。
今もこうして、日本とドイツの2拠点生活を続けているのは、いろんなものから自由でありたいという気持ちの現れなのかもしれません。いつでも身軽でありたいし、いつでもフットワーク軽くいたいんです。日本に帰ってきた時には、友人が経営する地元のパンケーキ屋さんでお仕事のお手伝いを続けていましたが、そういう時間も自分にとってはとても大事な時間。パンケーキ屋さんで色んな方と接しながら働いて、また音楽のことを考えるっていう、このバランスが自分にとってはとても大事なものだったと思います。」
川合さんが音楽家の皆さんと制作された動画、ロッシーニ作曲「ヴェネツィアの競艇」
「最近、可能性を感じているのはインターネットを通じた表現です。こういう事態になって、オフラインでのコンサートというのは難しくなってしまったけれど、オンラインによる音楽の愉しみはものすごく広がったなあ、っていうのが、すごく面白くて。今までにない、新しい表現が可能となりましたよね。シェアや拡散、情報共有もしやすいし、自分はこんな歌い手ですよってことを発信していける。何回も繰り返して聴いていただけることで、なんとなく顔や名前を覚えていただける。これって、すごい可能性を秘めているなあ……って感じています。自分でも、音楽仲間と一緒に動画を作り始めました。ご自宅で楽しんでいただける、新しい表現を求めていきたいです。
ヨーロッパだと、クラシックの基礎知識がみんなあるんですよね。教会でバッハをみんなで歌っていたとか、そういうことがごく普通の日常なんですから。でも、残念ながら日本はまだ、そうではない。すごく知っている一部の層の方々と、知らない大多数の方々に分かれてしまう。けれど、オペラを知らない方々でも、そこに描かれるドラマや深い人間性などを知れば、一気にハマってしまう可能性も高いと感じています。そういう方々と、オペラを、クラシック音楽を繋いでいける役割を担っていけたら、とても嬉しいですね」
そう言って、川合さんはにっこりと笑いました。いつでも身軽に、フットワーク軽く……先程の声が蘇りました。きっとこれからも、川合さんは様々な冒険に挑み、軽やかに乗り越えていくことでしょう。五月の緑の風が、爽やかに吹き抜けていきました。
リヒャルト・シュトラウス作曲《ナクソス島のアリアドネ》より
コンポニストのアリア「仲直りしましょう」
マスネ作曲《ウェルテル》より
シャルロッテのアリア「ウェルテル! ウェルテル!(手紙の場)」
川合さんは二期会《ルル》に続き、8月8日の二期会サマーコンサートにもご出演予定です。川合さんのますますのご活躍を、心よりお祈りしております!
(文:藤野沙優)