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Chisato Kato OfficialSite

〜フルート奏者になるまでの道のり〜 幼少期からのエピソード

2020.10.20 12:27


フルート奏者として仕事をしていると、

「何をきっかけにいつからフルートを始めたの?」

「いつからプロを目指したの?」

というようなご質問をいただきます。


ここではフルート奏者になるまでの道のりを記します。


〈幼少期編〉


姉が先にピアノを習っていたことから、

私は生まれた瞬間から音をよく聴いていました。


姉は小さい頃、母の手ほどきで絶対音感をつけるためのトレーニングをうけていたそう。


そして母は私にも絶対音感をつけようとトレーニングをしたところ、既に音感がついていました。


姉のトレーニングが聴こえていたからでしょうか?母は驚いたそうです。


赤ちゃんはお腹の中にいる時から声が聞こえていて、

人間の感覚の中で「聴覚」は早期に発達するそうです。


〈小学生 前編〉


私は幼少期からこの頃まで、ほとんど何も喋らない無口な子でした。


自分の考えや感情を言語化するのが苦手だったのだと思います。


だからこそ、ピアノに夢中でした。


自分が感じたことを音で表現できる、

唯一「自分」というものを出せる手段でした。


「音楽表現=自己表現」

楽器を通して自由に表現する創造力は、

ヤマハ音楽教室で培われました。


ヤマハ音楽教室には幼児コースから入り、

専門コース上級科まで進み、


ピアノとソルフェージュ(読譜能力や初見、聴音などの訓練)や作曲、即興演奏を学びました。


ピアノの先生は大変熱心で厳しい先生でした。


レッスンでは楽譜に2Bの濃い鉛筆で「下手くそ」と書かれ、

その次のレッスンでは「まだ下手くそ」と書かれ…

45分間のレッスンはたった2小節間をひたすら反復、音色と音楽性をとことん追求…

泣く暇さえもない厳しいレッスンでした。


この頃からコンクールや発表会で舞台に上がっていましたが、緊張することは全くありませんでした。

隣に恐い先生が座っていなかったからです。

レッスンの方がよっぽど緊張感があったのです。


ひたむきに練習する精神力、舞台に立つ度胸を先生は身を粉にして教えて下さり、

今の私のベースとなっています。

(それにしても恐かった…)


〈小学生 後編〉


私はフルートの魅力に気が付きはじめます。


ヤマハではエレクトーンアンサンブルのレッスンも始まりました。

エレクトーンアンサンブルのコンテストにも出場し、オーケストラの曲を弾きました。

私は主に管楽器パートを弾き、フルートって良い音だな〜と気が付きました。


その後ラジオから流れるフルートの音色も気になりはじめ…

吹奏楽部の練習を覗きに行き、友達が吹くフルートを聴きました。


いつしかフルートをやりたい気持ちが大きくなり、でもピアノもあるし…と悩んでいたところ、

学校の担任の先生が親に「フルートをやらせてあげられませんか?」とお願いしてくれたことで、

フルートを始められることになりました。11歳の冬です。


〈中学生編〉


ピアノとフルートを両立し、学習塾にも通い、てんやわんやな日々を過ごしていました。


フルートのコンクールにも挑戦し、少しばかり結果を出すことができ、

フルートの先生に「音楽高校を目指してみない?」と提案していただきました。


小さい頃から音楽漬けだった私は、音楽以外のことは苦手でとても不器用でした。

通っていた中学校は公立ですが県内ではレベルが高く、ついていくのが大変で息苦しさを感じていましたし、


幼少期ほど無口ではなかったものの、自己表現が苦手で大人しく、学校では友達も少ない方でした。


音楽教室で出会った仲間とは不思議とコミュニケーションが取りやすく、「高校は音楽科の方が居心地が良いかも」と思いました。


何より音楽無しで生きていくことは考えられず、

私は人より少し得意で努力できる音楽で生きていくんだ、と心に決めていました。

当然高校からは音楽科に行きたいとすぐに決断しました。


悩んだのは、ピアノかフルートどちらを専攻にするか です。

どちらも好きでしたが、フルートを始めてから呼吸法を意識するようになったからか喘息が出なくなり、

まだ始めて2,3年だったので色々な可能性を感じ、

フルートで生きていこうと決めました。


高校から音楽科に行く=一般教科は最低限の授業数になり、音楽専門教科が主となるため、

一般大学に行くことや就職することは難しくなります。

慎重に決めるべきことで親も悩んだと思いますが、

頑固な私は音楽科に進むことしか考えていませんでした。

(正直親が何と言ったか覚えていません…。)


〈高校生編〉


晴れて音楽高校に進学しました。

素晴らしい先生方に専門的な知識を教えていただき、レッスンもあり、

音楽を学ぶには最高の環境でした。


音楽科は1学年に1クラスだったため、3年間ずっと同じクラスメートと濃い音楽生活を送りました。

定期演奏会や卒業演奏会には選抜で出演できるかどうかが決まるため、

普段は仲の良いクラスメートでもライバルになります。

シビアでしたが、同じ夢に向かって頑張っている仲間達でもあり、切磋琢磨しながら貴重な3年間を過ごしました。

当初コンクールや学校のオーディションで結果を残すと親が喜び、

結果を残せないと周りが悲しむ…

もちろん自分も悔しかったですが、誰のために何のために音楽をやっているのか

分からなくなった時期でもあります。


自分の意思で音楽と向き合いたいと思うようになり、

また親に迷惑をかけながらも東京の音楽大学を目指すことに決めたのです。


〈大学生編〉


日本全国から様々な楽器の専攻生が集まり、

毎日いつでもどの楽器の人とでもアンサンブルできる

こんな環境二度とないと思い室内楽に目覚めました。

大学3年生から室内楽コースに進み、木管6重奏(フルート・オーボエ・ホルン・ファゴット・クラリネット・ピアノ)に没頭したりしました。

今でも一緒に演奏しているフルートデュオの相方とも出会いました。


そして大学卒業目前、フルートで仕事をしていくにはどうすれば良いか・・・


やっぱり私の音楽のベースはヤマハの音楽教育にあり、ヤマハの先生をしながら演奏の仕事をしたい!と強く思い、

現在の仕事に繋がっていきます。


〈社会人 前編〉


かなりの倍率だと言われるヤマハに採用され、(ヤマハ育ちでヤマハへの情熱が強かったからかな?と思っています)

さあ、講師としても演奏家としても頑張るぞ!

というところで東日本大震災が起こってしまいました。


ヤマハの仕事は半年後に先送りとなり、

決まっていたコンサートやラジオ出演全てが無くなり、

大学の卒業式も無く、

本当に何もない状態で社会に放り出されました。


フルートデュオの相方の実家も被災し、その後数年は一緒に演奏することもなくなりました。


何もできない自分に無力感でいっぱいの社会人生活のスタートです。


〈社会人 後編〉


貯金を切り崩しながら厳しい社会人生活の始まりでしたが、

徐々にブライダル演奏やコンサート出演のお仕事をいただき、

ヤマハの研修を受けながら、フルートで生きていくという夢が叶いつつありました。


日本では音楽家=ただ好きなことをしているだけじゃない?

と言われることも多く、

芸術家全般が職業としてなかなか認められません。


それでも、「生演奏っていいね」「コンサートに出かけると非日常を味わえる」

「楽器を奏でるって気分転換になって楽しい」という方々に出会えました。


吹奏楽部に憧れる」「Youtubeでフルートの演奏をみてやりたくなった」

という学生さんとも出会えました。


いつ誰の心に響くかは分からないけど、

音楽には人を癒したり 高揚させたり 切なくさせたり

人間の気持ちに寄り添う力があります。


そんな人の心に寄り添う演奏者・指導者を目指して

主張生演奏・コンサート・レッスン 3つを軸に

現在も邁進中です。



長いエピソードをお読みいただきまして、

ありがとうございました♫