「感染症と人間の物語」9 14世紀黒死病パンデミックと人間(6)惨劇の背景①イタリア
黒死病は古代の地中海では、いく度か流行をみたようだが、6世紀ころを最後として姿を消した。その消滅は西アジア・イスラム世界でも同様である。黒死病流行が再発するのは、13世紀にユーラシア大陸全体をまきこんだモンゴル帝国(1206年、チンギス・ハンが創設)の大発展の結果であった。中央アジアと想定される発生源から、黒死病は西アジアに広まり、ビザンチン帝国をもおかし、ついに14世紀なかばに、西端のヨーロッパに到達した。イタリア都市の交易力が増して、地中海での往来が増えたことが、伝播をたやすくした。1348年に全イタリアを巻き込んだ黒死病は、次いでアルプスを越えてヨーロッパ全土に広がった。翌49年までのうちに、黒死病をまぬかれる地方はほとんど見られないというほどに、急激な流行となった。黒死病の大流行は、1349年を過ぎるとほぼ終息した。しかし、流行はその後も断続的に起こる。14世紀中の流行の結果、イタリアを始め全ヨーロッパでは、膨大な人口を失った。その数は、全人口の4分の1とも3分の1ともいわれる。
黒死病自体の危険性、脅威はあるにしろ、小アジアでは起こらなかった人口の激減という惨劇が,14世紀のヨーロッパに起こった理由は何だろうか?都市が人口を増しておりその密集度のため伝染が急速だったこと(黒死病による死者を埋葬したものが、すぐに感染してあとを追うというようなことが常態となった)も関係しているだろう。しかし、より大きかったのは「抵抗力の減退」である。これをイタリアについて見てみよう。
14世紀初頭には,目覚ましいほどに繁栄していた北イタリアにおいては,黒死病が流行する以前から不吉な徴候が続いていた。
「フィレンツェにおける悲惨な洪水,頻発する『疫病』, 蝗(いなご)の襲撃,そして1324年にシチリアを,1340年に『イタリアのほぼ全土』を襲った怖ろしい飢餓,1343年のある日アマルフィーの一角を全滅させた(津波)・・・」(E.R.ラバンド「ルネサンスのイタリア」みすず書房 1998年)
フィレンツェではときどき破滅的な洪水が起こり、アルノ川の水が東方から滝のように流れてきて、そのため市のかなりの部分が湖のようになり、多くの人間が溺死し多くの家屋が倒壊した。ジョヴァンニ・ヴィッラー「フィレンツェ年代記」は1333年11月の洪水についてこう記している。
「サン・サルヴィの平野全域を3メートルから5メートルの深さの水でおおってしまい・・・そのためすべての人々がおおきな恐怖に襲われ、市中の教会の鐘のすべてが、これ以上増水しないよう祈願して、たえず打ち鳴らされた。そして、家の中では、人々はやかんや真鍮のたらいをたたいて、神に『お慈悲(ミゼルコールディア)を、お慈悲を』と大声で呼びかけた。他方、危機に瀕した人々は即製の橋の上を屋根伝いに家から家へ逃げた。人々の、耳を聾するばかりの喧騒はものすごく、ほとんど落雷の音さえかき消さんばかりであった・・・」
さらに地震も発生。
「1348年にパードヴァとボローニャに,1349年に八百人の死者を出し,アクィラに続けざまに波及した地震」(E.R.ラバンド「ルネサンスのイタリア」みすず書房 1998年)
1348年の黒死病パンデミック直前には凶作にも見舞われる。
「トスカーナ地方全土が凶作になり,1347年には異常な大降雹((こうひょう))で農作物はまたまた重大な被害をうけた。」(ミラード・ミース「ペスト後のイタリア絵画」中央大学出版部 1978年)
このような天変地異ばかりでなはない。トスカーナの二大都市,フィレンツェとシエナでは深刻な経済的不況を呈していた。
「フィレンツェの二大銀行(ペルッツィ家、バルディ家)のイギリス支店が破産したこともからんで,経済的危機,政治的危機を引き起こした。…1343年にペルッツィ家が破産を宣告し,つづいて大アッカイウオーリ家,バルディー家をはじめフィレンツエの大抵の銀行と商社が破産した。シエナの名家も多くが破産した。」(ミラード・ミース「ペスト後のイタリア絵画」中央大学出版部 1978年)
ペルッツィ家は、13~14世紀に大規模な商業・金融活動を営み,ナポリ,パリ,ロンドンなどの大都市に事業所をおいて諸国王,諸侯に巨額の融資をした。しかし,百年戦争の際にフィレンツェの同業者バルディ家と組んでイングランド王エドワード3世に融通した巨額の貸付金がこげついて,1343年に倒産の憂き目にあい,一族の没落だけではなくフィレンツェ市の財政に多大の混乱をもたらした。
このように、黒死病の襲来以前に,人々の病気と伝染病に対する抵抗力は大幅に減退していたのである。人間だろうと都市だろうと、抵抗力が落ちたものにウィルスは容赦なく襲いかかるのだ。
1493年フィレンツェ
「ジョヴァンニ・ヴィッラーニ」Loggia del Mercato Nuovo フィレンツェ
ヘンリー・ホリデイ「サンタ・トリニータ橋でのダンテとベアトリーチェの再会」ウォーカー・アート・ギャラリー リヴァプール)
生涯に渡りダンテの詩作の源泉となったベアトリーチェとのフィレンツェでの1283年の出会い ルネサンス文化の先駆者と位置付けられているダンテは、黒死病大流行以前の時代に生きた(1265年 - 1321年)
ジュゼッペ・ゾッキ「アルノ川」18世紀