「感染症と人間の物語」10 14世紀黒死病パンデミックと人間(7)惨劇の背景②イギリス
1347年地中海東部からヨーロッパに侵入した黒死病は、翌年初めまでには南イタリアやフランスの港町を襲い、カスティリャ王国へ嫁ぐ(カスティーリャ王ペドロ1世と婚約)旅の途中にあった国王エドワード3世の娘ジョーンもアキテーヌ(注:ボルドーを中心とするフランスの地方)で罹患、死亡した。同年8月にはイングランド南部のウェイマスに上陸し、11月にはロンドンに達した(アイルランドには1349年に到達し、スコットランドでも1350年には戦争[「スコットランド独立戦争」=13世紀から14世紀にかけてスコットランド王国で起こった、イングランド王国に対する戦争]を中断させるほどの犠牲者を出した)。
イングランドで黒死病が最も猛威を振るったのは1349年。2月に予定されていた議会も「突然発生した死をもたらす疫病」により延期となっている。1348年から1349年に広まった黒死病により全イングランドで膨大な数の人が命を落とした。教会も世俗権力も死亡者数の記録を残していないため、死者数の正確な数を割り出すことは困難だが、土地譲渡数からの推計で人口の30%か45%が黒死病で死んだであろうとする推定がある。イングランドの人口はこの黒死病で激減した後、14世紀を通じて黒死病の再流行を繰り返して減少を続け、世紀末には黒死病発生以前の人口の半分である200万人にまで落ち込んでいた。そして、イギリスにおける黒死病による人口の激減という惨劇も、イタリア同様体力が落ちていたことが密接にかかわっている。
「農民の経済水準は,1296年の対スコットランド戦争と1337年に始まった対フランス百年戦争によってさらに悪化した。」(フレデリック・フォックス・カートライト「歴史を変えた病」法政大学出版局 1996年)
戦費の捻出が農民に課され,農民階級の生活水準も出生率も低下していた。さらにイタリアと同様に異常な天候が数年続く。
「1348年夏に頂点に達した降雨は,長引いた食糧不足とそれにつづく栄養失調,病気と伝染病に対する抵抗力減退・・・」(同上)
イギリスとフランスの百年戦争(1337-1453)は、民衆の抵抗力を減退させただけでなく、黒死病を伝播させて犠牲を拡大させる原因にもなった。
「フランスとイングランドの戦闘によって,軍人と民間人の多くが死亡しただけでなく,疫病の伝播の一因になった。 戦場に倒れている死体の腐敗や病人をともなった軍隊の移動はペストの原因になった。たとえば14世紀末にイングランド軍がこの病気をアキテーヌ地方に運んできた。さらに悪いことに,『盗賊団』や『私兵』も一役かった。かれらは幾多の休戦のあいだに解雇された傭兵で,『大軍団』を形成していた。かれらは通る道すがらペスト荒廃をもたらした。」(モニク・リュスネ「ペストのフランス史」同文館 1998年)
ところで、アキテーヌ地方の中心都市ボルドーがワインの一大生産地となったのには、イギリスが大きくかかわっている。1152年に当時のボルドーを支配していたアキテーヌ公領相続人アリエノール・ダキテーヌ(82歳で亡くなるまで政治の中枢に座りつづけ、子どもや孫たちを通してアリエノールの血はヨーロッパの王家や公爵家、伯爵家に広がり、「ヨーロッパの母」と言われるようになった)が、アンリ・プランタジュネ(のちのヘンリー2世)と結婚。これにより、ボルドーはイギリス領となる。イギリスは、ワインを造るには寒すぎる地域なので、ワインの需要は強くあっても輸入に頼るしかない。そこで、イギリスはボルドーでワインを造らせて本国に輸送をするようになった。イギリスは圧倒的な資金力を持つ国だったので、作れば売れるという状況が生まれ、ワイン造りはボルドー中で行われるようになっていった。
その後300年に渡り、イギリスとフランスの間ではボルドーを巡って戦争が繰り返され、1453年、イギリス軍が「カスティヨン(サンテミリオンの東)の戦い」に敗れ、ボルドーはフランス領となる(これによってカレーを除いてほぼフランス本土からイギリス支配地はなくなり、百年戦争は終結)。それ以後イギリスは、ボルドーから関税を払って輸入しなければならなくなり、その結果、イギリスはワイン離れが進んでビールやウィスキーを飲むようになっていく。
「1453年カスティヨンの戦い」フランス国立図書館
エドワード3世
ヘンリー2世
フレデリック・サンズ「王妃アリエノール・ダキテーヌ」ウェールズ国立博物館
映画「冬のライオン」1968年イギリス映画
ヘンリー2世一族の複雑な家族関係を通して人間の権力欲、色あせた恋、陰謀などを描いた、舞台劇の映画化。ヘンリー2世をピーター・オトゥール、アリエノール・ダキテーヌをキャサリン・ヘプバーン(アカデミー主演女優賞)が演じた