Okinawa 沖縄 #2 Day 16 (20/5/20) 与那原町 (3) Itarashiki/Tosoe Hamlets 板良敷/当添集落
[2021年11月12日に再訪、一部更新]
板良敷 (いたらしき) 古島 (チナーフルジマ)
- 雨乞毛乞毛・古島
- 板良敷殿 (イタラシキトゥン)・山内殿 (ヤマチートゥン)
- 平田殿 (ヒラタトゥン)
- タキクラ殿
板良敷 (いたらしき)
- 板良敷村屋 (ムラヤー)
- 慰霊碑
- 祝女内殿 (ヌルドゥンチ)
- イビ之前 (イビヌメー)
- 内原子 (ウチバルシー)
- 泊 (トゥマイ) 岩
- 平田井 (ヒラタカー)
- 与那嶺殿 (ユナンミトゥン)
- 拝所
- 新屋 (ミヤー)
- クルヒジ井 (カー)
- フカシク井 (カー)
- 上之井 (ウィーヌカー)
- 西之井 (イリヌカー)
- トムシ井 (カー)
- ナン井 (カー)
- 蔵 (クラン) 庭
- 神屋
- 北の石獅子
- 若桜の塔 (未訪問)
- 門中墓
当添 (とうそえ、トウシ)
- 村屋 (ムラヤー)
- 中之御嶽 (ナカヌウタキ)
- 上之井 (ウィーヌカー)
- 多和田按司墓 (タータアジバカ)
- 龕屋跡 (ガンヤー)
- 久茂久岩 (クムクジー)
5月13日にこの与那原を訪れてから、一週間が過ぎてしまった。13日の訪問記を3日かけて書き終わり、残りを巡ろうとしていたのだが、それから毎日雨が続き、今日になってしまった。今日も予報は雨だったが、10時過ぎには晴れ間が出てきていたので、思い切って出発。沖縄は梅雨に入っているので天気予報はほとんど連日雨予報。ただ、沖縄の天気予報はあてにはならないので晴れ間があれば出かける様にしている。結局、夜まで雨は降らなかった。
字板良敷は二つの地区に分かれている。板良敷区と当添区だ。丘陵の上にある板良敷の古島から、板良敷集落を見て、当添集落のルートで巡ったのだが、訪問記は、まずは当添からとする。
当添集落 (とうそえ、トウシ)
当添集落は板良敷集落の屋取 (ヤードィ) で首里士族がこの地に帰農して移り住んだのが始まりという。農業が主体ではあったが、隣村の津波古から漁を習い、漁業にも携わっていた。これが今も継承され、当添漁業となっている。当添は大正4年に字板良敷から分離独立している。当時は人口330人 (65戸) であった。
当添村屋 (トウシムラヤー)
村屋 (ムラヤー) は公民館となり、その前は当添公園となっている。
公民館の入り口には、戦後間もなく設置された酸素ボンベの鐘が残っている。近くには赤瓦の伝統的な民家もある。
中之御嶽 (ナカヌウタキ)
公園には久高島への遥拝所としての御通し (ウトゥーシ) の御嶽。火之神 (ヒヌカン) も併設されている。戦前は正月の若水、出産、結婚、旅立、出漁の時に拝んでいたが、現在は正月元旦の年頭の御願 (ハチウビー) だけになってしまったそうだ。
下之井 (シムヌカー)
昔はこの近くまで海岸がせまっていたそうで、村建てした人々が使用した古井戸。幾分塩気があるので今は使用されていない。井戸は石で囲われてその形は見えないが、隣には1970年代後半に建立された岩亀神と書かれた拝所になっている。
上之井 (ウィーヌカー)
今までいくつもの集落を巡ったが、殆どの集落で井戸の名称は共通な物が多い、井戸の位置関係で名前が付いている。前之井 (メーヌカー、メーガー)、後之井 (クシヌカー)、上之井 (ウィーヌカー)、下之井 (シチャヌカー、シムヌカー)、中之井 (ナカヌカー) が典型的な名前で、これがある所は集落があったと考えで間違い無い。
多和田按司墓 (タータアジバカ)
昔の海岸線に近い場所に多和田按司墓が今は住宅街になっている中にあった。多和田按司 (多和田子) とは、隣接する津波古 (南城市佐敷) の村建てに関わった四元 (ゆむぅと) の一人だそうだ。この四元 (ゆむぅと) とは大松當・多和田・外間・喜屋武久の四つの門中をさして、殿がある。ちょうど、第一尚氏が琉球統一して暫くして津波古の村建てが行われたと云われている。という事はこの当添集落は三山時代には存在していたという事になる。
龕屋跡 (ガンヤー)
当添集落の北の端に龕屋があった場所がある。今は解体されてしまって何も無いのだが、案内書に解体直前の写真があった。龕屋とは葬儀に使用する龕を安置する建物の事で、ここの龕は板良敷集落と当添集落で共同使用されていた。
久茂久岩 (クムクジー)
第二尚氏時代、琉球との貿易に従事する中国船が当添の沖で難破し、十数名の死者を出した。当添部落の人達が、唐船小堀に漂着した遺体を収容し、海岸近くの久茂久岩 (クムクジー) の上に葬って霊を慰めたといわれる。後に、海神たる龍宮の神 (ニライカナイの神) をも招請し、併せて祭った。その後、久茂久岩は部落の鎮めとして尊崇されるようになり、旧正の初拝み、初起こし、ハーリーなど海上安全、豊漁を祈願する所となった。また古老のいい伝えによると、壺に水が満つと豊作で、台風もなくユガフーになるといい、逆に干上がってしまうと餓死、飢饉が訪れるということであった。戦前は聖地としてあがめられ汚物を持って付近を通ることも禁じられたということである。久茂久岩の由来には更に異説があり、難破した唐船の乗組員の遺体が、長い間自然のままにさらされていたが、大里間切西原村の稲福某という人が、田畠を耕すため当添の地におりたところ、その人骨の惨状に驚き、遺骨を取り集めて久茂久岩に合葬した。今の部落はその後、数十年たってできたということである。
与那原町のサイトでこの久茂久岩に関わる民話が紹介されている。
- むかしむかし、琉球王国時代のお話しです。その頃、琉球は中国とさかんに貿易をしておおいに栄えていました。琉球からも中国からも貿易船が行き来していましたが、その航海はとても危険なものでした。当時の船は木製で帆に風を受けて進むものだったので、風が吹かなければ前には進まず、風が強すぎて海が荒れると遠くまで流されたり、船が壊こわれたりして遭難することもたびたびありました。
- ある年のこと、中国の船が暴風にあい、与那原の沖で遭難してしまいました。38人の中国人がおぼれて亡くなり、当添の海岸に流れ着きました。この時、大里間切西原村 (おおざとまぎりにしはらむら) の稲福という人は亡くなった中国人を気の毒に思い、近くの大きな岩のところに手厚く葬りました。その場所が久茂久岩 (くむくじー) です。
- 久茂久岩がある当添は、もともと大里間切西原村の一部でした。そこには山手の方で暮らしていた西原の人が、はるばる歩いて来て耕していた畑がありましたが、誰も暮している人はおらず、民家は一軒もありませんでした。
- そこへ首里から金城という一家が移り住み、西原村の人から畑を借りて農業を営むようになりました。しばらくすると、仲里という一家も首里からやってきて、それからしだいに当添に住む人が増えていきました。
- 当添という地名も、唐船が流れ着いたので当添と呼ばれるようになったともいわれています。
- 当添で暮す人が多くなってくると、西原村の人はわざわざここまで来て畑を耕すのは大変だというので、「私たちが拝んできた久茂久岩を、みなさんも拝んでくれるのなら、畑はあげますよ」といって、当添の土地をそこに住む人に譲ってくれました。
- 西原村の人たちが拝んでいた久茂久岩は、もともとは遭難して亡くなった中国人をまつったところでした。そこに集落発祥の神をいっしょにまつって拝むようになったのは、久茂久岩が不思議な力を持つ岩だったからです。
- その頃、当添にはチンブクダキ (布袋竹) がたくさん生えていました。畑を耕していた人たちは、チンブクダキを切って釣竿を作り、農作業のかたわら、魚を釣っていました。
- また、船をだして漁をすることもありました。当添の沖はサンゴ礁で囲まれていましたが、ちょうど久茂久岩の沖に船が安全に通れるくらいの出入り口が開いていて、ここを港口として船を出していたのです。
- ある時、夜になって漁に出た人がいました。はじめは海も穏やかだったのですが、しだいに風が強くなって荒れてきたので戻ることにしました。しかしあたりは暗いうえに波が高くなって港口がなかなか探せません。民家の明りも何も見えません。「困ったな、港口の方角がわからないぞ。どこへ向かったらいいんだろう」
- その時です。久茂久岩の上から一筋の光がパーッと天に向かって輝きました。その光は「ここが港口だ。ここに向かって進んで来い」といって、海の上で迷っていた船を導いているようでした。「あっ! 久茂久岩がこっちへ来いと呼んでいるぞ!」こうして船は光の方角を目指して進み、無事港に戻ることができました。
- それから当添の人々は久茂久岩に神をまつって、御霊や神々を当添の守り神として拝むようになったのです。
- 久茂久岩の神をまつってある祠には、蓋がされている壺が3つ置かれています。昔、当添は南、中、北の3つに分かれていましたが、3つの壺はそれぞれ南、中、北を示しています。壺には水が入っていて、かつてはその水の量で、こんどは南が栄えている、中が栄えている、北が栄えているというように見て、物事を決めていました。
- 水の量はそれぞれ毎日増えたり減ったりしたので、南、中、北の人は毎日のように見に行っていました。不思議なことに、この壺の中にはボウフラも育たなければ、ゴミも入らなかったということです。
当添は与那原町で漁業を行っている唯一の地域。久茂久岩から当添の港に出て海岸には当添港が造られている。当添は半農半漁の集落で、首里から旧士族が移り住んだ際に、隣の津波古集落住民から漁業を教わり、漁業もおこなっていた。現在でも漁業が続いている。
竜宮神 (2021月11月12日 訪問)
この日、佐敷の兼久集落訪問の際に、一年半ぶりにこの港を通った際に、港の一画に拝所があった。前回は気がつかなかった。ちょうど、久茂久岩の港側にあたる。ここの拝所も竜宮神が祀られている。この拝所の掃除をしていた女性にこの拝所について尋ねる。いつ頃からあったのかは分からないが、漁師達の安全を祈願すると言っていた。
当添から板良敷を見た海岸線。この海岸伊覇沖縄戦当時、二台の魚雷発射台が設置されていた。
板良敷集落 (いたらしき、イチャナジチ)
板良敷集落は丘陵の斜面から海岸線までに広がっている。推測すると、村立てをした雨乞毛からこの地に集落を移した時は丘陵の斜面に村を作り、次第に村は海岸線に延びていったと思う。斜面側には多くの井戸跡や拝所が残っている。昔 (いつ頃からいつ頃までかは定かではないが) は与那嶺 (ヨナンミ) と呼ばれていたそうだ。板良敷は元々は大里間切 (後の大里村) に属していたが、1949年に与那原町が分離独立する際に、反対者も多くいたが、最終的には与那原町の一部となる事を選んだ。琉球王国時代の板良敷は純農業の集落で全員が農民だったが、廃藩置県以降純農家は減少して、現在はゼロになってしまっている。国道331号沿いに民家が立ち並び、那覇市のベットタウンとなっている。
板良敷集落と当添集落変遷だが、戦前はこの二つの集落はそれぞれが独立した地域に広がっていたが、現在は民家が国道331号線沿いにぎっしりと広がり、集落の境界線は判らない。1945年戦後の米軍が作成した地図では当添集落全域と板良敷の郊外に規則正しく民家が並んでいる。板良敷地区は米軍用地としては接収されていないので、個人的推測では、住民が帰還した時の仮住まいとしての簡易住宅ではないかと思う。
与那原町の土地用途計画では板良敷と当添地区では国道331号を挟み海岸側が住宅地となっており、そこには既に飽和状態に近い密度で住宅が建っている。この地域の西側は農地とされているので、住宅は建てられない。これ以上発展させるとすると、都市計画で土地用途基準を見直すしかないだろう。農地とされている地域が、実際にどれほど農業として活用されているかのデータは見当たらない。(このデータはどこの行政でも公表していないように思える) 見た感じでは、農地として活用されていない土地も見受けられる。ほとんどがサトウキビ畑だが、今では利益が出ないサトウキビをいつまで続けられるのか、その跡どうするのかが課題と思えるが、与那原町が作成している第五次与那原町総合計画では、東浜のMICI計画がベースになっており、それが成功しなければ、他の計画は共倒れになるように思える。個人的にはMICI計画がうまくいっている様には思えない。MICI抜きでもう一度計画を練り直すべきと思える。MICIが軌道に乗っていけばそれに合わせて計画を修正すればよいが、今の計画が成功するとは思えない。ここで問題定義している、今後の一次産業とその用地の活用については、一切触れられていない。客観的に見て、第五次与那原町総合計画は内容のほとんどが、他の行政が作成している計画書と変わらず、抽象的な概念が大半を占める。具体性のない計画のように思える。色々な行政の計画を見てきたが、どれも同じテンプレートを使っているのかと思うほど薄っぺらい内容なのは、残念なことだ。個人的意見では、ビジネス経験がなく、責任を問われない役人には計画立案実行は難易度が高すぎる。民間にもっと計画段階から、委託した方が良いだろう。
下の表は板良敷集落での御願行事だが、以前は年間で60以上もの村の参拝行事があった。かつては西原・与那嶺ノロがこの祭祀を司っていた。それぞれの御願には準備もあり、かなり多忙なスケジュールだった。現在はノロもおらず、集落の自治会が行っている。専任の係員がいるわけでもなく、これだけの行事には費用も掛かることから、現在は約3分の一にまで絞られている。
板良敷 (いたらしき) 古島 (チナーフルジマ)
板良敷集落は雨乞毛と言われる丘陵の頂上付近に形成されて始まった。この場所は与那原町ではなく、現在では南城市になっている。かつてこの地域は大里按司が仕切っており、大里集落から丘陵を上り切った所が雨乞毛。この大里集落を通ってかつての板良敷集落に向かう。
雨乞毛乞毛・古島
板良敷村はかつて、シマの西方に位置する雨乞毛の山頂付近にあった。山の稜線一帯である。板良敷はここで村建てがなされたと伝えられている。現在は、その村跡のほとんどが南城市 (旧・大里村) の範囲になっている。この最初にできた村を、現在地 (板良敷) に移転してからは、古島 (ふるじま、チナーフルジマ) と呼んでいる。村落移転後 (15世紀以降と考えられている) は、古島に家屋が建つことはなく、原野と畑になっている。古島当時は与那嶺 (ユナンミ) 村と称していたといわれている。与那嶺村がいつ形成されたかは不明。雨乞毛・古島の殿 (トゥン) にはそれぞれ石垣の屋敷囲いが残り、殿の数とほぼ同じ数の井戸もあったという。ここに残っている殿跡は、村建て当時の主要旧家跡が祭場化したものと思われる。
雨乞毛の頂上に到達。標高130m。
与那原の街と港が臨める。
反対側には大里グスクなど、多くの グスクがあった丘陵が開ける。
板良敷殿 (イタラシキトゥン)・山内殿 (ヤマチートゥン)
板良敷門中の子孫は絶えてしまったと考えられている。山内門中は古島から最初に現在の板良敷に移転した家の1つで、板良敷の四つの旧家の一つ。この付近に屋敷があった。ここに殿 (トゥン) を建て、屋号山内の祖先を祀っている。板良敷屋敷や山内屋敷があったと思われる場所は、丘陵の斜面をグスクの曲輪のように何段にも平地に整地されている。現在は畑として使っているように思えた。拝所や井戸跡は見つけられなかった。
平田殿 (ヒラタトゥン)
板良敷殿・山内殿の近くに屋号平田の祖先を祀る平田ヌ殿があるのだが、見当たらない。山道を何度も行ったり来たりしてやっと入り口らしき所を見つけた。入口は草で覆われて、少しだけ隙間があった。もしかしてと思いハブに注意しながら中に入る。(今朝、ここに来る途中に道路で車に轢かれたハブに遭遇した。やはりハブはいるのだと少し神経質になっている。) 見つかった。我ながら、だんだんと勘が良くなってきたと自己満足。
狭いながらも空間があり、そこに拝所があった。
タキクラ殿
この場所にもう一つ殿 (トゥン) がある。タキクラ殿と呼ばれているのだが、板良敷集落にはタキクラという苗字はない。その謂われも不詳なのだが、現在でも板良敷区としての祭祀が行われている。
ツマグロヒョウモン
ここで綺麗な蝶々2種を見つけた。この種類は始めてだ。去年もいくつか、初めて遭遇する蝶々を見つけた。近寄るとすぐに飛び去ってしまうので、写真はイマイチ。今から夏に向かうので、もっと珍しい蝶々に逢えるだろう。本州の西部、四国、九州、琉球列島に生息している蝶で、特に珍しい蝶では無いそうだ。しかし、東京にはいないから、個人的には珍しいのだ。
キオビエダシャク
胴体がメタリックブルー。羽は黒にオレンジ色の帯で羽の後ろの方はオレンジの帯に黒い点々がある。インターネットで調べる。蝶では無く蛾だった。南西諸島に多く生息しており、害虫に指定されているそうだ。こんなに綺麗なのだが....
山の中で花を見つけるとなぜかほっとする。
雨乞毛から与那原港に下り板良敷集落に向かう。
板良敷村屋 (ムラヤー) 跡
村屋 (ムラヤー) も斜面に建っている。現在は公民館になっている。ここが村の中心地だったのだろう。この村屋の周りには拝所が集中している。
慰霊碑
板良敷における沖縄戦
1944年の十・十空襲では、隣の与那原は被害が出たのだが、板良敷は空襲を免れている。当時、沖縄から本土への渡航は男子30歳未満、女子25歳未満の県民は禁じられていた。沖縄での軍事施設などで県民の労働力が必要と考えていた。女子と子供は半ば強制的に疎開をさせられ、板良敷でも村に残っていたのは成人男子がほとんどだった。板良敷には百名程之日本兵が駐留しており、民家を宿舎としていた。板良敷の山手には魚雷格納庫が造られ、そこから港まではその運搬用の全長300メートル程のレールが敷かれていた。この建設には、旧佐敷村の住民が駆り出されていた。 (この与那原で使用されていた魚雷が糸数のアブチラガマのセンターに展示されている。) 与那原には運玉森 (Conical Hill) が首里軍司令部の守りの要で、米軍の中城湾から運玉森の攻撃を阻止するためには与那原は中城湾の防備として重要な拠点とされていた。板良敷には日本陸軍の特攻部隊の海上挺身隊第二十七戦隊第三中隊と海軍の射堡隊。現在の江口区に陸軍の重砲兵第七連隊。森下区に高射砲部隊。大見武区に第二十七戦車連隊、浜田区に中城湾臨時要塞部隊、与原に海上挺身隊第二十七戦隊第二中隊が配置されている。945年4月13日に、板良敷が焼夷弾により炎上した後、5月3日には残存兵3汚名あまりで、中城湾の米軍に特攻をかけるが半数が戦死し、板良敷から撤退している。米軍は5月13日、第二十四師団を中心とする運玉森を、米国第七歩兵師団は与那原を制圧し、 雨乞森 (チェスナット高地) に進軍し、5月22日、 E中隊が雨乞森を制圧している。 その後、米軍は島添大里城から高嶺方面へ進軍していった。
祝女内殿 (ヌルドゥンチ)
村屋 (ムラヤー) から少し登った所に祝女内殿 (ヌルドゥンチ) 跡がある。ここが祝女 (ノロ) の屋敷があった。跡地には拝所と井戸跡がある。板良敷では、かつては、年2回村芝居があり、1回目はこの祝女内殿 (ヌルドゥンチ) で、2回目は十五夜に村屋で行われたそうだ。今はもう村芝居がなくなってしまったのは残念だ。
イビ之前 (イビヌメー)
祝女殿地 (ヌルドゥンチ) のすぐ側にイビ之前と呼ばれる御獄 (ウタキ) ではと考えられているものがある。ここに移ってくる前に板良敷集落があった古島への遥拝所とも考えられている。ここにも古島にもこの場所が御嶽と書かれている歴史書は無いのだが、イビと呼ばれておりこのイビは御獄に関する用語であることから御嶽ではないかと考えられている。個人的には、ここがあまりにも村屋に近く、御嶽は神聖な場所でヌル以外は入る事が禁じられていた。これほど近くに御嶽があるのは通常ではないので、故郷であった古島への遥拝所のお通し (ウトゥシ) の方では無いかと思う。
内原子 (ウチバルシー)
内原子 (ウチバルシー) は中頭 今帰仁の新里家の出身で三山時代には、まだ板良敷蛾古島にあった時代には島添大里按司 (汪英紫) の家来で板良敷を領地とする武将 (兵頭 ヒョーガシラ) 。1385年、汪英紫率いる島添大里軍と大城按司との戦いで、尚思紹の弟の苗代之子 (尚巴志の叔父) に討たれ戦死している。(別の言い伝えでは、内原子は汪英紫の死後、島里大里按司となった屋富祖に仕え、1402年に尚巴志がこのグスクを攻め落とした際に戦死したとある。内原子の息子も内原子と呼ばれていたので、こちらは息子の方かもしれない。) ここは島添大里の領地だった事になる。当時は汪英紫が島添大里グスクの城主で南山国の東半分を支配していた。内原子の拝所は以前は内原子の屋敷があった大里間切与那嶺村 (雨乞毛・古島) に存在していたが、現在は公民館建物に隣接して拝所が建てられている。
この板良敷には内原子の伝承がいくつもある。
- 昔、戦船がこっちに寄せて来て、内原子を捕まえて殺すつもりで戦船から降りてきた兵士が、内原とはわからず、内原子に ”内原という人は、どこにおるか。” と尋ねた。内原子本人が大きい石のヒートゥヤー (煙草盆) を軽々と運んできて、”おまえたち、煙草でも吹きなさい” と言って置いた。このヒートゥヤー (煙草盆) は、約180Kgもあったそうだ。兵士はそれ動かすことできず、”はっしぇ、もうここの内原子いう人はたいへんな人だ。どれほどの武士かわからない。” と言って、捕まえに来た兵士は、もう遠くまで逃げて行った。(この煙草盆の逸話は主人公が変わるのだが、さまざまな地に残っている。)
- ここでは、沖縄で広く知られているムーチー伝説にも登場している。大里ウナーの妹が兄を訪ねて、本当に人を食うと知って逃げた。 追われて与那原の浜のサバニに逃げ隠れた。こんなことがあったので、与那原の人達が鬼退治を相談した。それで、内原子が鬼と勝負をし、鬼を退治した。
- 内原子が大里城に勤めている時、そこから投げた石が泊 (トゥマイ) 岩と伝わる。三千キロはあるという。(この後訪問)
泊 (トゥマイ) 岩
板良敷に内原子に関わる所縁の史跡がある。内原子が古島から投げたと云われている岩とか、彼のサシ石 (力石) であったとかの伝承がある。現在の泊岩はほとんど削られてなくなり、面積も大幅に縮小されてはいるが、戦前は家の屋根ほどの高さがあって、上の方で毛遊び (モーアシビー、戦前頃まで沖縄で広く行われていた慣習で、野原や海辺で三線や歌、踊りなどを若い男女が夜通し楽しんだ。男女の出会いの場で、両親や共同体公認のものだったそうだ) も行われたと伝わっている。岩の上には、龍宮神を祀る香炉 (写真右下) が置かれた。
平田門中屋敷跡、平田井 (ヒラタカー)
板良敷の旧家は平田・与那嶺・新屋 (みやー)・山内の四つの門中で、字の祭祀の対象となっている。雨乞毛にも平田殿跡があった。この門中も雨乞毛から移ってきたのだ。平田門中は公民館斜め下に屋敷を構えていた。戦後しばらくの期間は住居もあったそうだが、現在は広場になっており、スラブ建ての神屋が建っている。
敷地内には井戸跡とその拝所がある。井戸は草に覆われ形が見えなかったが、写真は再訪した時のもので、綺麗に草は刈られていた。
神屋の後ろ側には屋敷墓 (フニシン) があり、前方には新しい井戸の跡もあった。
与那嶺殿 (ユナンミトゥン)
板良敷の四つの旧家の一つの与那嶺門中は主要な家で、板良敷の根人 (にーっちゅ) や根神 (にーがん) を出していた。明治時代には、与那嶺門中は既に途絶えていたという。この与那嶺の屋敷の一角にスラブ建ての御神屋がある。
拝所
与那嶺殿 (ユナンミトゥン) の後方の広場にも神屋が置かれている。
新屋 (ミヤー)
板良敷の四つの旧家のもう一つの門中の屋敷があった場所。新屋は板良敷の国元といわれており、現在は旧敷地の一角に小さな御神屋が建てられている。
板良敷集落にはいくつもの井戸跡が残っている。南側から井戸跡を見ていく。
クルヒジ井 (カー)
部落で一番古い井で、沖縄戦前に軍陣地構築のため土砂で埋めたてられていたのだが、戦後、部落民が掘りおこし、上水道が完備するまで生活用水として利用された。この井戸の奥には日本軍の壕があり、魚雷が保管されていたそうだ。
フカシク井 (カー)
毎年、正月の井拝 (みかあうがみ) を行い若水を汲む井。新井 (ミィーカー) とも呼ばれる。
この井戸の脇の道の奥の斜面には日本軍の射堡指揮所跡があるそうだ。実際にはそこにはいっていないのだが、インターネットでその写真が掲載されていた。
上之井 (ウィーヌカー)
山内門中の拝み井戸。井戸の向かい側に拝所がある。この井戸の拝所なのだろうか?
西之井 (イリヌカー)
村井戸の跡で現在は蓋がされ、現在では使用されていない。
トムシ井 (カー)
旧板良敷村の古井の1つ。
ナン井 (カー)
331号線沿いにかつてナン井 (カー) と呼ばれた井戸があった場所がある。拝所にもなっておらず、井戸自体も無くなってしまったのだが、微かにその痕跡は残っていた。
その他の史跡もある。
蔵 (クラン) 庭
琉球王朝時代、この地域から、首里への上納穀類が集められ、一時保管のための茅葺き小屋があった場所と伝わっている。本来は拝所ではないが、明治政府によって琉球王府が解体されて以降、次第に拝所化していった。
神屋
クラン庭の近くに神屋が置かれていた。
北の石獅子
道路補修の際に、戦前まであった北の石獅子 (琉球石灰岩) が土中から出土した。従来は与那原村に向いていたのを、現在は雨乞毛に向けて再安置されている。これは面白い。板良敷にとって与那原は厄払いの対象であったのだろうか? この北の石獅子の他に南の石獅子もかつてはあり、当添に向けて置かれていたそうだが、沖縄戦後軍用道路拡張工事で行方不明になっている。
若桜の塔 (未訪問)
板良敷の丘陵側の屋取集落があった崎原にもう一つ慰霊碑があるそうだ。若桜の塔で、この丘陵斜面に防空壕があり、そこで日本兵と沖縄の少年兵が米軍の攻撃で生き埋めとなってしまった。板良敷の住民が戦後、この慰霊碑を造り霊を慰めたという。案内にある場所に行き、草をかき分け探すが、この若桜の塔は見つからなかった。ここから丘陵上の雨乞森が見える。
門中墓
板良敷集落から離れた雨乞毛の丘陵の中腹には多くの門中墓がある。
これで与那原町の史跡巡りは終了。明日からまた連日雨予報が出ている。2日かけて巡った与那原をもう少し調べて、次回は次の町を巡ることにする。隣町の西原町を巡るか、南城市にするか迷うところだ。南城市には三山時代のグスク跡が多く残っている。ここにはグスクの下調べをしてからにしたい。下調べは図書館で専門書を参考にしたいのだが、まだコロナウィルスのため休館が続いており、5月27日までは利用できない。とすれば、まずは西原町を巡ることになるか....
今日の夕食も自炊。棒棒鶏に挑戦して見た。出来はイマイチ。たれが上手く作れなかった。
参考文献
- 板良敷誌 (2014 板良敷公民館)