いかるが風景奥の院・安堵6
近代陶芸の巨匠富本憲吉生家―
飽波(あくなみ)郷名所旧蹟・記念館とうぶすなの郷宿泊レストランと
昭和30年我が国最初の〝人間国宝〟(重要無形文化財技術保持者:色絵磁器)に認定され、36年文化勲章・従三位勲二等旭日重光章受章「富本憲吉(とみもとけんきち)」は、我が国近代陶芸の巨匠として知られている。
中世から続く環濠居館の東安堵富本家で当主八右衛門豊吉(とよきち・漢学を修めた人で雅号「古愚堂房山」の趣味人、今村勤三の鐡道事業に参画。憲吉命名は文人画家田野村竹田の名「孝憲」からとも発布後の憲法への期待からとも云う。10歳で死別)の二男四女の長男として明治19年6月に生まれた。
富本家(地元ではとんもっさんと愛称)は、幕末まで八右衛門・久左衛門と隔代襲名の庄屋であった(憲吉の久左衛門の署名はその為。富本家古文書類一切は非公開ながら東京國學院高校所蔵)。
安堵尋常小學校から斑鳩高等小學校・旧制郡山中學校卒業後、東京美術學校図案科建築部(東京藝術大学の前身)へ通学(今村荒男とは中学の同級生・郡中の水木要太郎、初代校長で美術學校校長の正木直彦との縁も語られる。10歳で富本家当主になるが後見人に南隣の「遠山正蔵」(狂歌雅号「翠黛」)が引き受け、年の離れた弟として訓育した。遠山は明治36年県会議員に当選し、龍田名勝保存・文化興隆に意を注いだ人物で憲吉との縁が語られるが、30歳で早世している)。
在学中の明治41年私費で海外留学により数々の美術作品にふれた(43年帰国)。帰国後パーナード・リーチと親交を得て陶芸に興味を持つ。朝鮮・日本中の窯を尋ね歩きながら陶芸の道を求めた〝世界的芸術陶芸家〟であり、斑鳩安堵の自然と景観のなかで生まれたこころと技は、独自の清純で華麗な世界をつくりあげたのであった。繊細で美しく気品にあふれる色絵磁器の数々に今も高い評価を得ている。
大正2年から昭和初期まで、郷里の窯で作陶に熱中し、白樺派の人々と交流し民藝運動に参加、挿絵や執筆活動をおこなった(大和時代:斑鳩安堵の風景図案作品が多く残されている)。
昭和2~20年は、國画會や帝国美術院を舞台に作陶に励み、東京美術學校教授・帝國美術學校教授(武蔵野美術大学前身・祖師ケ谷東京時代)。
戦後は、一切の公職を離れて郷里に帰国した〝せまき中庭に、わがなき父の植えおきし四方竹雨にぬれて、葉さき光る露〟と額皿に書き付けている。後京都移住し、新匠美術工藝會結成、昭和24年京都市立美術専門學校(25年市立美術大學の前身・我が国初の陶磁器専攻科)客員教授、定年退職し昭和38年5月学長(京都時代)。同年6月8日逝去、享年77歳。
菩提寺の安堵大寶寺円通院(えんずういん・元富本家所有)に埋葬(15日告別式は無住の旧宅で遺志通り簡素に行われたが、県は村道に玉砂利まで敷いたと伝わる。葬儀委員長今村荒男)〝墓不要、残されし作品を我墓と思われたし〟と語ったと云う。また、〝咲く花に雨ふれば、はなは散る可き運命なり。梅雨早く咲く夏萩、雨にぬれ枝たれて咲きぞわづろふ秋萩に風あり、夏萩に雨あり、咲く花は散るさざめなり、人の世も〟を書き遺している。
西安堵出身で芦屋の実業家、辻本勇(大正11年生まれ・平成20年2月27日逝去、享年86歳・辻本忠夫実弟・サンドライビングスクール社長・谷崎潤一郎記念館副理事長・大阪府文化財調査研究センター評議員・芦屋市文化賞)が憲吉に惚れ込み生家敷地を譲り受け、環濠・長屋門と離れ・蔵を残して老朽化母屋を建替え、大阪の蔵建物などを移築し収集作品コレクション展示私設美術館(「富本憲吉記念館」昭和49年11月開館)としていた。平成24年5月まで38年間運営され、25年3月から26年2月まで週2日開館する1年限定の文化資料館として維持したが、勇氏没後はコレクション・施設とも譲渡された。
現在は、ホテルアジール・和み館などを経営する「ソーシャル・サイエンスラボ」所有のワールド・ヘリテージ(川井徳子代表)が経営する宿泊レストラン「うぶすなの郷」になっている。
また、安堵風景の寫された富本作品の極一部を町が購入し、役場ロビー「庁舎ギャラリー」に作品が展示されている(書簡等資料類は京都市立芸術大学に寄贈)。文献:文化庁「富本憲吉自伝」『無形文化財記録工芸技術編1』1969、辻本勇『富本憲吉と大和』1972・同『近代の陶工・富本憲吉』ふたばらいふ新書020 1999
【freelance鵤書林240 いっこうK6記】