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#YusukeKusuyama 1975 X #楠山祐輔 ➣ #INTERNATIONAL

#GHCヘビー級選手権 #小川良成 VS #秋山準

2020.05.22 02:15

アップデートヴァージョンです。

【GHCヘビー級選手権試合】秋山準vs小川良成

小川マジック炸裂。伝説の試合

4分20秒 変形首固めで小川先生、完全ピンフォール勝ち


#小川良成 - クールさに隠れた男の執念と美学

僕の意見

やっぱり「諦めたらそれで終わり」ってことですね。

小川良成選手、「努力から作られた天才」の男の人生論。

ネバーギブアップ。努力はGODが見ている。努力せず後悔するより、ずっといいですよね。小川先生の生き方に学びたいと思いました。現代の日本人のメンタルは半端なく衰退してますよね。僕も含めて、もう少し頑張りたいですね。😊😊😊😊😊。


ジャスト日本さんより

「お前はどうせ上にはいけないから」

小川良成は入門時に先輩レスラーにこう言われたという。

彼は期待もなにもされていない男だった。

しかし、彼は地道な努力の末、日本プロレス界屈指のテクニシャンとなった。

今回は劣等生だった一人のプロレスラーが困難を乗り越えてヘビー級の頂点にまでたどり着いた奇跡の物語である。

小川良成は1984年に18歳で全日本プロレスに入門する。

身長も体重もない若者はデビューするまで時間がかかった。

同期の仲間は次々と辞めていき、彼一人しか練習生がいないという孤独を味わった。

またジャパンプロレスが全日本に参戦し、選手が増え過ぎデビューする機会をなかなか与えられなかった。

そんな小川を救った二人の男がいる。

一人がメインイベンターの天龍源一郎。

もう一人が天龍の盟友であり、職人ザ・グレートカブキだった。

天龍は小川を付き人として可愛がり、カブキは基本技術を徹底的に叩き込んだ。

入門してから1年半後の1985年9月3日にようやくデビューを果たす。

このデビュー戦も天龍が馬場に「小川はデビューさせても大丈夫です」と後押ししたからだった。

ジャパンの若手である笹崎伸司や佐々木健介、ベテランの百田光雄らと連日シングルマッチで対戦する日々。

そんな小川にアクシデントが起こる。

1987年1月に左肘を脱臼してしまう。

これにより左肘のケガに悩まされることになる。

復帰しては肘をケガをして欠場するという負のループが続く。

また、大相撲出身の高木功、ジョン・テンタや元シューティング(修斗)インストラクター北原辰巳(光騎)、元レスリング全日本学生王者菊地毅、雑草ながら体格に恵まれた小橋健太(建太)、大相撲出身の田上明といった有望な後輩が現れ、小川はますます焦ってしまう。

特に高木とテンタはメインイベンター候補として大切に育てられた。

そんな小川に不憫に感じたのが天龍だった。

天龍は1987年に天龍同盟を結成し、全日本を活性化すべく立ち上がり、小川をメンバーに入れた。

天龍は天龍同盟の象徴であるレボリューション・ジャケットを小川に「お前もこれを着ろ」といって渡した。

天龍同盟の一員になっても小川の前座という立場は変わらなかった。

ちなみにエリートだった後輩の高木はジャイアント馬場のパートナーとなりアメリカ遠征に出ている。

トップに行くレスラーと、そうではないレスラーが自然と区別されるという厳しい現実の前に、小川はますます孤独になり、屈折していく。

後輩達の練習の輪には入らず、ひとりで練習に励む忍耐の日々。

小川は語る。

「やっと後輩ができても孤独でした。キャリアも3年くらいの差もあるし、向こうも近寄りがたいだろうし、僕も交わる気はなかった。だから先輩の冬木さんとつるんでいました。」

小川の災難は続く。左肘の次は、右肩を脱臼してしまう。

復帰を果たすも、今度は左腕の三頭筋を断裂してしまう。

左肘の靭帯もきれており、もう再起不能かと思われた。

小川は決意する。

一か八か、移植手術をすることになった。

1990年3月、右腕靭帯を取り、左肘に移植する大手術。

手術は成功し、リハビリに励むが、またしても小川に試練が訪れる。

1990年4月に所属していた天龍同盟が解散し、面倒を見てくれた恩人であり師匠・天龍が全日本離脱したのである。

しかし、小川は天龍の後追いをせず、全日本に残留した。

何故小川は動かなかったのか。

それは本人曰く、行きたいとは思えない何かがあったからだという。

1990年10月、小川はようやく復活を果たす。

「もう一度、試合ができるとは思わなかった」

小川はこのとき24歳、キャリア5年。

ようやくレスラーとしてのスタートラインに立ったのである。

全日本プロレスはその頃、二代目タイガーマスクがマスクを脱ぎ、三沢光晴として天下取りに動いた。また三沢の標的となったエースジャンボ鶴田は三沢の高い壁として立ちはだかった。

三沢をリーダーとした超世代軍VS鶴田をリーダーとして鶴田軍という勢力分布図に塗り替えられ、新生・全日本として再出発を図っていた。

小川は鶴田軍の一員となり、後輩の小橋と菊地と相対するようになった。

しかし、小川にチャンスはなかなか巡ってこなかった。

ようやくベルトに挑戦する機会を与えられた小川。

しかしそれは後輩の小橋と菊地が保持するアジアタッグ王座に先輩・渕を組んでの挑戦だった。

後輩に追い抜かれ、差も埋まらない。

鶴田や関係者から確かな技術で評価もされるも、なかなかそれが人気や全体の評価にまで結びつかない現実。

しかし、小川は諦めなかった。

「こいつらに負けてないぞ、いつか抜くぞ」という反骨心を内に秘めながら彼は黙々と試合をこなした。

そんな小川がようやく報われる時が来た。

1995年9月、ダニー・クロファットが持つ世界ジュニアヘビー級王座に三度目の挑戦を果たした小川。

小川は持ち前のテクニックを駆使し、クロファットを追い込み、逆転のエビ固めで勝利し、世界ジュニア王者となった。

デビューしてから10年。

遂に、遂に、彼は報われた。

大歓声に包まれる会場で、小川は誇らしげにベルトを掲げた。

クールな小川からは珍しく歓喜の表情に満ちていた。

実は小川の試合ぶりを馬場はこう評価していた。

「レスリングそのものがピカイチにうまい。ベルトをとっても不思議ではない。今までは体力の差だけだったよ」

小川はその後、全日本ジュニアの中心選手として活躍。

1997年1月と1998年7月にも世界ジュニア王座に戴冠し、ジュニアは小川の天下となった。

そんな時に、小川にある男から飲みの誘いがきた。

それが小川の運命を変えた。

小川を誘った男の名はなんと敵対していた三沢光晴。

なんと自身の新パートナーに小川を抜擢したいというのである。

小川は驚愕する。

実は小川は若手時代から三沢に憧れの気持ちがあったという。

そんな憧れの人からの思いがけないラブコール。

自分に務まるはずがない。

小川は言葉を失い、躊躇してしまう。

三沢は小川にこう声をかけた。

「お前もこのままで終わる男じゃないだろう」

三沢は小川の技量を買っていた。

このまま中堅レスラーで終わり、影の存在で終わっていくのを黙ってみていられなかったのかもしれない。

そして何より、小川と組んだら負けない気がした。

小川はこう言った。

「俺で本当にいいんですか?」

三沢は答えた。

「お前で、じゃなくて、お前がいいんだよ」

小川はその言葉を受けて覚悟を決めた。

三沢と組む決心を固めた。

「三沢さん、よろしくお願いします。」

そして、三沢はそんな小川にこう声をかけた。

「お願いしているのはこっちほうだよ。頑張ろうな。心配しなくていいから。」

こうしてその後、10年にも長きに渡り名タッグチームとして活動する三沢&小川組が誕生する。

小川は三沢と組むことでトップ戦線に食い込むことになる。

1998年9月に全日本五強の一人の秋山準とシングルマッチという大一番で小川のテクニックは爆発した。試合には敗れたものの、小川コールに包まれた。

小川はトップ戦線で戦うことに刺激を受け、快感になっていた。

そんな小川に三沢はこう聞くのだった。

「上の試合の方が気持ちいいだろう?」

三沢&小川は1999年に世界タッグ&アジアタッグを戴冠してみせた。

一時期ではあったが、全日本にあるすべてのタイトルを二人で独占するという前代未聞の快挙も成し遂げた。

1999年2月。

小川は東京・池上本願寺の節分追儺式に参加した。

そこで師匠である天龍と再会を果たす。

小川は心の底から喜んだ。

それから共通の知人の結婚式で再び再会した二人。

そこで天龍は小川にこう声をかけた。

「今、うちで店をやっているから、遊びにこいよ。」

小川は後日、ご祝儀を持って店を訪れたという。

天龍は「ひねくれ者だから心配していたけど、いい青年になったよなあ」と喜んでいた。

小川にとって天龍は、先輩・三沢を除いて一番尊敬している人だという。

2000年6月、全日本プロレスは分裂する。馬場逝去に伴い、社長に就任した三沢光晴が社長の座を辞して、全日本を離脱し、大多数の選手やスタッフを引き連れて、新団体プロレスリングノアを旗揚げした。

小川はもちろん三沢について行った。

もし、三沢と二人だけになっても、最後までついていく腹積もりだったという。

ノアでは小川は若手のコーチ役や現場責任者として活躍する。

コーチとして小川は若手の面倒を見ることになる。

試合前の練習では若手をリングに集め自ら指導し、若手にガウンやTシャツを着せたりもした。

自らが培った技術も伝授しつつも、今の時代に合わせた形にアジャストする。

それが小川の若手育成術だった。

2002年4月。

小川は秋山準が保持するGHCヘビー級王座に挑戦し、なんと5分以内でリストクラッチ・エクスプロイダーと切り替えしての変形首固めで3カウントを奪い、ジュニアの体格ながら、ヘビー級の頂点にたった。

劣等生でひねくれ者だった男が到達した最高峰の頂。

小川は執念でその頂を勝ち取ったのである。

2005年7月の東京ドーム大会。

小川は師匠・天龍と一騎打ちをした。

師匠に対して、小川は今まで培ってきた技術と思いをぶつけた。

イギリスのランカシャースタイルとアメリカンスタイルを独自にアレンジしたそのレスリングテクニックと小気味のいい小技と丸め込み、勝負に出るときに出すバックドロップ。

小川は天龍に闘いながらこう伝えていたのかもしれない。

「これがあなたが救ってくれた俺のプロレスです。」

天龍はそれに天龍プロレスで正面から応じた。

試合はラリアットで天龍が勝利する。

そして試合後、疲労困憊だった小川に天龍は肩を貸して、一緒に控室に向かった。

東京ドームから惜しみのない拍手に包まれる。

感動的光景に涙を流す者もいた。

天龍は試合後にこう語った。

「俺に対してあいつが足りないのはキャリアだけ。身体が小さいのにヘビーのベルトを巻いた人間だし、そういうリスペクトも含めて今日は試合をしたつもり」

怪我に何度も悩まされた。

挫けそうな試練の連続だった。

さじを投げられそうになった。

それでも諦めなかった。

己を信じるしかなかった。

執念で孤独な日々をただ耐えるしかなかった。

日陰の努力を積み重ねる姿にプロレスの神様は見捨てなかった。

2009年6月、パートナーであり、恩人・三沢が急死した。

ノアは混迷を極めた。

会社内部のゴタゴタ。

試合内容や興業のクオリティーの低下。

ベテラン選手へのリストラ。

内部分裂による選手離脱。

スター選手小橋建太の引退。

カリスマKENTAの離脱。

小川自身も取締役を退いた。

ノアをやめる、或いは引退をすることはできたかもしれない。

それでも彼はノアをやめなかった。

何故か?

小川は例え、三沢と二人だけになっても行動を共にする覚悟を持っていた。

彼が仕えた三沢はもういない。

今のノアは、三沢の後継者である丸藤正道や強さの象徴・杉浦貴、怪物・森嶋猛が中心となって、団体として生き抜くために頑張っている。

小川は三沢の代わりとなって、ノアを見届けようとしているのではないだろうか。

三沢が見ることも築くことができなかったノアの未来を最後まで立ち合う決意なのではないだろうか。

決してコメントで意思を発信することがないクールな男だが、実はそんな想いを秘めながら小川はリングに立っているのではないだろうか。

しかし、敢えてそれを口にしない。

なぜなら、それがひねくれ者と呼ばれた男の美学だからだ。

自分にとって団体にとって余計なことを彼は発信するつもりはないからだ。

小川良成は今年(2015年)でデビュー30年を迎えた。

波乱万丈のプロレス人生を送った彼は以前、このようなことを語ったことがある。

「上に立つ人間になるには、前座を体験していないとダメだと思います。」

この言葉はあまりにも重くて尊い「格言」である…


2002年4月 小川は秋山準が保持するGHCヘビー級王座に挑戦し、なんと5分以内でリストクラッチ・エクスプロイダーと切り替えしての変形首固めで3カウントを奪い、ジュニアの体格ながら、ヘビー級の頂点にたった。

劣等生でひねくれ者だった男が到達した最高峰の頂。

小川は執念でその頂を勝ち取ったのである。