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株式会社 陽雄

温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第44回】 プラトン『プロタゴラス』(岩波文庫,1988年)

2020.05.22 08:00

・世間話から社会科講座へ

Zoomを使って打ち合わせをすることが増えた。仕事だけでなく画面越しに互いにバラバラのカップでお茶を飲みながら世相について話し合うこともある。コロナはいろいろな国の法制度や社会システム上の問題を浮き彫りにさせて、それについて放談をしているうちに友人からひとつ頼まれた。友人曰く、メディアがいろいろと日々のニュースを報ずる一方で、本来どうあるべきかについてはもっと社会について根本的な基礎知識を学び直すことが大切な気がする。ついては高校の教科書ベースでZoomを使って「大人のための社会科講座」を時折やってほしいとのことだった。


社会科といえば「政治・経済」「倫理」「日本史」「世界史」「地理」・・私は教員免許を有していないが内輪の話だし、ある程度までなら楽しむ要素を設けつつ教えられるだろうとは思う。とりあえず安請け合いをしてしまった。一応準備しなければいけないし、何よりも教科書が必要なのでネットで購入した。「政治・経済」や「倫理」の教科書をパラパラめくりながら読んでいると学生時代とはまったく違った印象を持つ。エッセンスをくり抜きうまく書けているなと思う記述が大半だが、ときどきそれは如何なものかなと思う記述もあって面白い。「倫理」はギリシャ思想がわりとはじめに出てくる。流れは歴史にそって自然哲学を簡潔に紹介してからソフィストたちの登場に触れる。少しだけ要約すると次のような感じだ。


・ソフィストたちの登場

紀元前6世紀から前5世紀はギリシャの都市国家ポリスが大いに繁栄した時期だった。アテナイはペルシャ戦争に勝利をおさめて以後は、市民が広く政治に参加してはじめて古代民主制が成り立ち、その余波が他のギリシャ諸都市にも拡大されていった。家柄や財産による政治的特権が廃されて市民は平等な権利を有する流れとなった。国政に関わる多くは議論によって決められることになり、そこへコミットして実績を望む市民は弁論の能力を求めた。そうした市民にたいして弁論術を教えることを職業とするソフィストたちが登場してきた。ソフィストとは「知恵のある人」との意味あいがあり、当初は巧みな弁論から一定のリスペクトを得ていたが、次第に都合よく弁論することで自分のために利益誘導する詭弁家として批難も受けた。ただ、それまでが自然哲学中心で自然という普遍な性質を有するものを思索の対象としていたが、ソフィストたちは、人間が生み出す問題、たとえば法律・制度を取り上げて社会生活のなかで自由な批判精神を取り入れることにつながった部分もあった。


そのソフィストたちの代表的存在としてプロタゴラスを紹介している。紀元前5世紀中ごろのプロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と語ったことで知られている。それまでの哲学は万物に普遍的に貫いている原理を探求していたが、プロタゴラスはそのような誰もが受け入れなければならない絶対的な基準はないとした。人はそれぞれ判断が違い、ポリスの制度や法律のあり方もそれぞれ異なる。あらゆるものが相対化されることになり、プロタゴラスはそれを肯定する立場、相対主義を支持した。この相対主義の考え方によって、人間中心の立場で固定した迷信的な考え方を打ち破り、社会の背諸制度を時代に応じて変革させていく意味では積極的なものであったとテキストでは触れている。


・プラトンの「プロタゴラス」

さて、少し前置きが長くなったが、この「プロタゴラス」の名前を題としたプラトンの作品がある。この作品は劇的描写力に優れた一篇というのが一般的な評価だ。簡単なあらすじは次のようなものだ。ソフィストとして実力ナンバーワンの名声を得ていたプロタゴラスがアテナイを訪れた。ヒッポクラテスなる一青年が興奮してソクラテスのもとに夜明け前に勇んでやって来て、是非一緒にプロタゴラスのもとへ行ってほしいと頼みこむ。そのわけはヒッポクラテスがプロタゴラスから教えを受けることができるようにとりなしてほしいからだった。プロタゴラスの元を訪れたソクラテスは、既にプロタゴラスを慕って集まっていた大勢のソフィストや若い知識人たちを前にして彼と議論することになった。その主題は、徳(徳性)は果たして人に教育をすることで育成できるものか、であった。


この作品はプラトンの他の作品と比べて哲学的思想で異質なところがありそこが面白くもあるが、そこに入らずとも劇的描写や演出・構成でも面白いなと思わせる部分、読む側(観る側)に少し滑稽だなと思わせる部分がたしかにあるのだ。話の冒頭で興奮してすぐにでもプロタゴラスのもとに行きたいヒッポクラテスは慌てているが、ソクラテスは彼を落ち着かせる。


ぼくは言った、

「いや、君、まだあそこへは行かないでおこう。時刻が早すぎるよ。それよりここで、起きて中庭に行こう。そしてそこらをぶらつきながら、明るくなるまで時を過すことにしよう。それから出かければいいさ。プロタゴラスは、ほとんど家で過す人でもあることだしね。だから心配しなくてもいいよ。だいじょうぶ、家にいるところをつかまえられるだろう」

それからぼくたちは、立ちあがって中庭に行き、そこをぶらぶらと歩きまわった。ぼくはヒッポクラテスの気持ちの強さをためしてやろうと思って、質問をして彼をよくしらべてみることにした(311A・B)


ここからヒッポクラテスがプロタゴラスに何を求めているのか、何を委ねようとしているのか、メリットやリスクなどを話し合うことになる。身も心も興奮状態のヒッポクラテスをクールダウンさせるためには座らせてもだめだろうから、あえて中庭をぶらつきながら通過儀礼のように話し合う絵構図を舞台として想像すると面白い。問答が続いて少しばかりヒッポクラテスが冷静になると、ソクラテスは畳みかける。


そこでつぎに、ぼくはこう言ってやった。

「いったいどうなのだね。君には、自分がいま、魂をどのような危険にさらそうとしているかがわかっているのかね? かりにもしこれが、君が身体を誰かにゆだねて、身体がよくなるか悪くなるかの危険をおかさなければならないというような場合だったとしたら、君はきっと、その人にゆだねるべきか否かを、いろいろと思案を重ねたことだろうし、また、何日も何日も考えながら、友人や身内の者の助言を求めたことだろう。・・・・そのプロタゴラスという人を、君は知りもしなければ、まだ一度も話をかわしたこともないと言う。ただソフィストと名づけるだけで、ソフィストとはそもそも何ものであるかについては、明らかに君は知らずにいながら、何もわかっていないその人に、君自身をゆだねようとするのか」(313B・C)


プロタゴラスの滞在先。門番に訪いを入れる「ちぇっ、ソフィストどもだな。-御主人はいまお忙しいのだよ!」(314D)と捨て台詞を吐かれる始末。それでもどうにかして、そしてソクラテスとプロタゴラスの対談が実現する。ソクラテスはいうなれば言葉と態度こそ丁寧だがプロタゴラスに対して「あなたにつけば何がもたらされるの?」と問い、プロタゴラスは「徳性」を有した人間になれると答えた。そこでソクラテスは「徳性」などはたして教えられるものなのかと疑義をとなえると、ここからプロタゴラスは、理論だけで説明するより物語(ミュートス)も用いて説明しようと宣言して、長広舌を駆使して大演説がはじまるのだ。


それは、「むかしむかし、神々だけがいて、死すべき者どもの種族はいなかった時代があった・・」(320D)に始まり「・・以上私は、ソクラテス、物語のかたちでも議論のかたちでも、徳が教えられうるものであり・・」(328D)で終わるが、この演説の量は本のなかで20ページ以上も延々と続くのだ。これをもし舞台上で一人の俳優がセリフとして言うならばどれだけの時間が必要だろう。おそらく軽く1時間くらいは一人でまくしたてることになるのではないだろうか。その間、目の前にいる対談相手に全く間(ま)を与えず、一人でひたすらペラペラと話し続ける。プロタゴラスのファンや信奉者ならばともかく普通はとても耐えられるものではないだろう。(読む側にそう思わせる仕掛けでもあるだろう)ましてや、慇懃に振舞いながらもプロタゴラスにガツンと食らわせる意図を持つソクラテスにそれを一方的に聞き続けさせる構図はどこか滑稽なのだ。なお、自らの知識に酔い、目前のゲストなどお構いなく、一方的に間を与えずにまくし立てるモノローグ(独白)の人の存在は決して古代に限るものではないだろう。


ソクラテスはそんなモノローグだけで説明した気にならないで、ダイアローグ(対話)でもっと要領を得て簡潔に議論しましょうと提案して、プロタゴラスにしぶしぶ了承させて今度はソクラテスの反撃がはじまる。(そういったはずのソクラテスが途中で詩の解釈を巡って今度は、プロタゴラス顔負けの大演説をぶつシーンも出てくるが、これなどは本筋から外れての意趣返しなのだろうか、またこの構図が劇としてみると面白い)さて、この作品は結局のところお互い歩み寄ることができないままで終幕となる。一応またの機会に議論しようとプロタゴラスは提案して終わる。(ただ、どんなに話し合ってもお互い友人にはなれないだろうなと思う)


さて、私が友人のために一肌脱ぐ「大人のための社会科講座」はモノローグにならないように気を付けることにしたい。個人的にはダイアローグが好きだし、そちらのほうが勉強会はだいたい盛り上がるのだ。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。