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旅行作家・小竹裕一の〈世界・旅のアラベスク その10 ニューヨーク編〉

2020.05.23 13:00


みなさんこんばんは!

オンライン授業が始まって、少し慣れてきましたか?私(しほ)は1コマ受けるだけで、目も頭も疲れます。お友達と授業を受けたり、学校という環境が有効的なんだなと実感しています。

今回は小竹先生の記事です!アメリカに対する考え方が変わるかも!

自分なりのアメリカの風景を思い浮かべながら、、、読んでみてください!



「世界の中心」・ニューヨークを歩く 〜“移民活力国家”アメリカ〜


「ニューヨークの一大観光スポット、ブルックリンブリッジにて。ここを歩いて渡ると、いろいろおもしろいことがある。」


ある日曜の昼下がり、突然ひとつの考えがひらめいた。

〈アメリカへ行こう!〉

なぜそうなのか自分でもよくわからないが、とにかく無性にアメリカへ行きたくなったのである。

ちょうど休日でひまだったので、書棚から無雑作に司馬遼太郎さんの『アメリカ素描』という本を取りだし、パラパラとページを操ると、次のような文章が眼に止まった。

「このことは、私なりに決意が要った。新聞社にたのまれたあと、ずいぶん迷った。曲折もしたあげく、結局はゆくことにした。ビジネスマンからみれば笑われるかもしれないが、このことというのは、たかがアメリカへゆくことなのである。

それまでかたくなに、自分にとってわけわからぬ国にやみくもに出かけるべきではない、と自分に言いきかせてきた。」

これを読んだとき、わたしは思わず笑ってしまった。司馬さんの考えが、わたしのとまったく逆だったからだ。

わたしは、「自分にとってわけのわからぬ国にやみくもに出かける」ところに、海外旅行のおもしろさと醍醐味がある、と考えてきた。

それで、今回もアメリカという、「わけのわからぬ国」へ、わたしの“根拠地”シンガポールから「やみくもに」飛び立ったのであった。

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六月のニューヨーク。有名なセントラル・パーク(中央公園)のゆたかな木々の緑に明るい陽光が反射してきらめく、とても気持ちのよい季節だった。

一口に「ニューヨーク」というが、ニューヨーク市は広いニューヨーク州の州都であって、マンハッタン島、スタテン島、ブルックリン、クイーンズ、そしてブロンクスの五つの行政区から成っている。もちろん、世界的な金融・ビジネスの中心地・ウォール街とか、ロックフェラー・センター、カーネギー・ホール、国連ビルとかいった、世界中の誰もが一度は耳にしたことのある有名地は、ほとんどすべてマンハッタン島に集中しており、ニューヨーク観光は自然、この島が中心となる。

例によって、わたしはこのマンハッタン島をできるだけ自分の足をつかって、2週間ちょっと歩きまわった。歩いてみて、まず驚いたのは、島が意外にも小さいことだった。

ホテルでもらった地図をよく見てみると、マンハッタン島は角ばった包丁のような形をしており、先端から“包丁”の握りのところまで20キロぐらい、そして“刀”の幅はわずか4キロほどしかなかった。歩いて島を横断するのも、そんなにたいへんなことではないのである。

〈ニューヨークはわりにこぢんまりとしたところなんだナー〉と一人ごちながら、わたしはその全貌をぜひ自分の眼で見てみたい、とつよく思った。

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エンパイア・ステート・ビル。もし、あなたがニューヨークを訪れる機会があったら、そしてもしニューヨークについた日が運よく好天に恵まれたとしたら、ともかく欺されたと思って、このあまりにも有名なビルへ直行し最上階へのぼるべきである。

エンパイア・ステート・ビルは、1929年の世界恐慌のさなかに工事が始まり、およそ6万トンの鉄骨をつかって、2年後の1931年に完成した。高さ381メートル。長らく世界一の高さを誇り、映画のなかでキングコングがよじ登ったことでもよく知られるこのビルは、90年後の今日でもニューヨーク“ピカいち”のランドマークとして堂々とそそり立っている。

わたしがこのエンパイア・ステート・ビルをつよくすすめるのは、もっと高いビルが島の南端のビジネス街に建っているのに対して、“エンパイア”は真中寄りにあるからだ。

エンパイア・ステート・ビルの展望台から眺めるニューヨークの大景観!そのすごさをいったい何と表現したらよいのだろう。これはほんとうに、ふつうの人間の常識世界をはるかに超えている。人間が造った人工物の巨大な化け物、とでもいおうか………

とにかく、見渡す限り高いビルがどこまでもビッシリつづいて建っているのだ。人がうじゃうじゃいるのを中国語では「人山人海(レンシャンレンハイ)」というが、これはまさしく「ビル山ビル海」だ。

それら無数のビルの群れのあいだにわずかに開いたすき間が、よく見ると道路になっており、おもちゃのようなちっぽけなクルマやバスがゆるゆると直線を引いて走っている。

アリンコのような人間が眼下の彼方で動めいている“谷間”の道には、街路樹が一本もたっておらず、ニューヨークが島の真ん中にある森(中央公園)を必死で守っている理由がよくわかる。

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こうして「摩天楼」という言葉がよく似合うニューヨーク大ビル群を眺めているうちに、ハタとひとつの素朴で大きな疑問が脳裏をよぎった。

それは他でもない、川を隔ててすぐ脇に広大なアメリカ大陸の陸地がどこまでもつづいているのに、なぜこれだけの数のビルをこんなに小さい島の中に建てなければならなかったのか、という疑問である。

いろいろ考えて、わたしなりの“仮説”を出してみた。それは、ニューヨークのほとんどのビルが建てられた20世紀という時代はもろ資本主義の時代であって、その一大原理たる〈効率〉を求めつづけた結果ではないか、ということだ。

つまり、金融や製造業などさまざまな業界の中枢部とそこで働く人の住居が、ひとつの場所に集まっているほうが何かと便利で都合がよく、ニューヨークのマンハッタン島がアメリカ資本主義の“心臓部”としての役割をになわされたわけである。

が、しかし、こう考えてみても、わたし自身とても100%納得したというわけではない。この島に巨大な量の石を運びこんでビル群をつくりつづけた人間のエネルギーの背後には、我々には見えない“何か”があったのではないか、とも思うのだ。

いずれにせよ、ニューヨークの摩天楼は、おそらく1000年後にはうち棄てられて、一大廃墟と化していることであろう。そのとき、マンハッタン島はエジブトのピラミッドと共に、「世界の七不思議」のひとつに数えられ、世界中からたくさんの観光客を集めているかもしれない。

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さて、ニューヨークを上から鳥瞰したあとは、今度は自ら虫となって動きまわり“虫瞰”してみようーーーこう思って、わたしはまずマンハッタン島南端にある有名なウォール街に足を運んだ。

世界中の資金が集まり流れこむニューヨーク証券取引所へ向かって歩いていると、今にも泣き出しそうな空からバラバラと大粒の雨が落ちてきた。「これはたまらん」と思い、雨宿りができそうな場所をさがすと、すぐ近くに大きな銅像のたった博物館のような建物があった。

あせって石の階段をかけ上がり、そのドーリア式の建物の中に逃げこむと、驚いたことに、そこはアメリカ合衆国の“出発点”とも言える「フェデラル・ホール」だった。

1789年4月30日、アメリカの“国父”ジョージ・ワシントンが初代大統領としてここで就任の宣誓を行ない、第1回連邦会議もここで開催されているのである。ニューヨークはアメリカ合衆国の最初の首都だったのだ。

館内には、植民地時代から、独立期、そして13州から成る初期の連邦時代までの遺品が展示されていた。なかで、ワシントンが大統領就任の宣誓をしたとき手をおいた、大百科事典のようなブ厚い聖書が眼を引いた。この古ぼけた聖書は、今年(2020年)秋の大統領選挙で勝利した人が来年1月に就任の宣誓をするとき、わざわざ首都ワシントンまで持っていって使われるという。

展示場の一角には、ビデオを観るホールがあり、白人の男性教師に連れられた中学生たちが長イスにすわって観ていた。20人ぐらいの男女生徒のほぼ全員が黒人で、ジョージ・ワシントンの生涯をアニメで描いた作品をまじめにみているのは半分以下だった。

ビデオ上映のあと、その社会科教師がアメリカの歴史についていろいろ説明したが、彼は生徒たちに関わる重要な一点については最後までいわなかった。それは、このフェデラル・ホールが面しているウォール街はかつて奴隷を売買する市場があったところであり、他でもない黒人生徒の祖先たちはここから絶望にうちひしがれながらアメリカ南部へと売られていったことだ。

ちなみに、「ウォール街」という名称は、17世紀初めごろマンハッタン島に最初に入植したオランダ人が、土着アメリカ人(インディアン)やイギリス人の襲撃を防ぐために丸太の“ウォール(壁)”を築いたことからでており、ニューヨークは18世紀前半ごろアフリカの国民を取引する奴隷市場として栄えた歴史をもっている。

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雨があがったようなので、ワシントンの銅像を横目で見ながら石の階段をおり、道路を渡ってすぐ鼻の先の建物の前に立った。高いビルが林立するウォール街の街並みのなかで、四階建ての重厚な石造りの結構があたりの空気をはらっている。

道路に立てられた観光用の掲示板を見ると、ウォール街案内のポスターが貼ってあり、そのポスターの右上隅に掲げられたいかにもアクのつよそうな年配のオッサンの写真が眼を引いた。

〈誰だろう?〉と思って説明書きを読んでみると、眼前の四階建ての建物は有名なモルガン商会であり、“オッサン”は創始者のジョン・ピアポント・モルガンその人だという。わたしは改めて“オッサン”の写真をしげしげと見つめながら、〈そうか、ここがあのモルガン財閥の本拠地なのか………〉と感慨をあらたにした。

アメリカでも屈指の立志伝中の人物、ジョン・ピアポント・モルガンは1837年4月17日、ニューヨークに隣接するコネチカット州で生まれた。祖父が不動産と保険で金をため、父が金貸し業で財をなした。その基礎の上に、ジョン・P・

モルガンはまずニューヨークで銀行を営み、南北戦争のどさくさのなか、金の投機・取引で巨額のカネをつかんだ。

このカネをつかって、モルガンは鉄道の株を買い占め始めた。時あたかも、アメリカでは西部から伸びた鉄道と東部からの鉄道が結ばれ、“大陸横断鉄道開通(1869年)”に国中が湧き立っていた。主要な鉄道会社を手中におさめたモルガンは、次に鉄道と切っても切り離せない電信業に触手を伸ばし、さらに当時の“発明王”エジソンをうまく使って電灯を事業化した。

電灯のつぎは、同じころベルが発明した電話だった。モルガンは資金力にものをいわせてベルをとりこみ、アメリカ電話電信会社(ATT)の設立にこぎつけて、ついには全アメリカの電信電話と電灯をほぼ完全に支配するまでになった。のちにラジオやテレビなどの電化分野の“帝王”となるゼネラル・エレクトリック社(GE)を、モルガンがつくったのもこの頃だった。

そして、モルガンが手がけた最後にして最大の事業は、「産業のコメ」たる鉄鋼であった。彼は当時の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーと熾烈なサヤ当てをし、結局カーネギー製鋼の買収に成功した。時に1901年、20世紀が幕を開けたこの年に、モルガンは世界最大の資本金を持つ「USスチール」社を発足させたのだった。

ジョン・ピアポント・モルガンは、1913年3月31日に76歳で没するまで、あくことなく事業の拡大に精を出し、今日のモルガン財閥の基礎を築きあげた。彼より2歳とし下で石油業からのし上がったもう一人の“ビック・ジョン”ことジョン・ディヴィッドソン・ロックフェラーが創始したロックフェラー財閥と共に、モルガン財閥は現在でもアメリカの主要産業を握り、大統領を含む政界をもコントロールしているといわれる。

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ところで、よく長期の無銭旅行をしているバックパッカーの若者たちのなかに、「観光客が群がる名所・旧跡なんて、行くのは俗物だけだヨ」といって、有名な観光地を無視し、切ってすてる人がいる。

しかし、わたしの長年の海外旅行経験からして、こうした考えは明らかにまちがっていると思う。というのは、そういう名所・旧跡に人がたくさん集まるのは、そこになにか人をして「まあ、ステキ!」とか、「ナルホド、すごい!」といわしめる魅力があるからなのだ。

それで、わたしはいわゆる「観光地」を見物するにあたって、自分なりのふたつの“規則”を決めている。ひとつは、「週末ではなく、平日に訪れること」である。これは、やはり観光地はたくさんの人が来て混みあうので、比較的人が少ない平日をねらおうというわけだ。

もうひとつは、「ふつうの観光客がそこを見るのに使う2倍ないし3倍の時間をかけて見物すること」である。一般にツアーの旅行客は、スケジュールがたてこんでいることから、ひとつの観光地をじっくり観ることができない。だが、その名所・旧跡が有名であればあるほど、そこにある“なにか”、魅力といったものは大きくて深いはずなのだ。ここは時間をたっぷりかけるにしくはない。

今回のニューヨークの旅のなかで、こうしたわたしの考え方が文字通り“正解”だと思ったのは、有名な、あまりに有名な「自由の女神像」を見物しにいったときのことだった。

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アメリカのお金のコインには、“LIBERTY(自由)”という文字が刻み込まれている。「自由の国・アメリカ」を主張しているわけなのだろうが、その目に見える象徴として“Statue of Liberty”(自由の女神像)がニューヨーク湾のリバティー島に立っている。

この自由の女神像は、アメリカ独立戦争の際にアメリカ側について協力したフランスが、独立100年を祝ってプレゼントしたもので、右手にたいまつを掲げ、左手には1776年7月4日の日付が入ったアメリカ独立宣言書を持っている。花崗岩を積み上げた高い台座の上に立っているので、船で近寄って仰ぎみると、意外に大きくて迫力がある。

リバティー島へは、もちろん観光船に乗っていくわけだが、この自由の女神観光のミソは船がもうひとつの島、エリー島へ立ち寄ることだ。エリー島はかつて、ヨーロッパから“新大陸”アメリカへ船でやってきた移民たちを一時収容し、入国登録や身体検査などを行なう移民局があったところである。

現在、このエリー島にはアメリカ政府が1億6000万ドル(約171億円)もの巨費を投じてつくった移民博物館があり、これがじつに見ごたえのある観光名所になっている。

移民博物館の正門玄関を入ったところに広いホールがあり、そこに19世紀の移民たちがそれぞれ国から持ってきた物が山積みされている。それを見ると、当時は旅行カバンなどというシャレたものはなく、皆衣類などの日用品をズタ袋につめ込んで旅をしたのがよくわかる。

パネルの資料によれば、アメリカへの入植は1600年ごろから始まり、これまでに6000万人もの外国人が移民として“新大陸”の土を踏んだという。20世紀の初めには1日平均5000人もの人びとがエリス島で移民登録し、ピークの1907年には「合計128万5000人」に達した。

感動的なのは、その当時の移民たちの様子を撮ったフィルムだ。館内の映写室で1時間ごとに上映されている「希望の島、涙の島」と題された白黒の記録映画。ヨーロッパ各地から大西洋の波頭を超えてはるばるやって来た人びとが、ニューヨーク湾に入って“自由の女神”が見えたとき、全員が甲板に出て歓声を上げ、帽子をちぎれるほどふり、小躍りしている。

そうして移民たちの新天地へかける期待と不安が画面からにじみ出てくるような映画だった。

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このエリス島の移民博物館見学は、今回のニューヨーク旅行のハイライトといってもいいだろう。まる半日をかけ、文字通り足が棒になるまで館内を歩きまわったのは、移民にかかわる展示物や写真や資料をとおして、アメリカという国の“正体”を垣間見ることができたからである。

たとえば、こんなことがある。アメリカに移住した各民族の時代ごとの人口推移を示した図表をボーッと眺めていたとき、フトそのなかに「インディアン」の項目があるのに気がついた。アメリカ大陸原住の人びとだ。

1500年のところを見ると、「500万人」と出ており、「およそ20部族から成っていた」との説明書きがついている。〈西暦1500年といえば、日本でいうと室町時代だナー。そのころの日本に、500万人の人口があったのだろうか………。当時としては、500万というのはかなりの人口規模だったはずだ〉と考えながら、時代が下った人口の数を眼で追った。

すると、どうだろう。他の民族はすべて時代が進むにつれて人口が増えていくのに、ひとり「インディアン」のみはどんどん減っていき、1900年の段階で100万人にまで激減してしまっているのだ。

私はこの「100万人」という数字を何度も確認しつつ、子供のことよくテレビで見た西部劇映画のことを思い出した。アメリカの西部開拓時代、善良な白人の開拓民を襲う悪らつな「インディアン土民」。それを“退治”する正義の味方・騎兵隊。

そうした西部劇のおきまりの構図が、いかに欺瞞に満ちたインチキなものであったのかを、「100万人」という数字が寡黙のうちに語っていたのだった。

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それから、移民博物館で往時の移民の写真などをずっと見ていると、なにか“新大陸”アメリカへの「移民時代」がすでに過去のものであるかのような気がしてくるが、じつは決してそうではないということも、展示資料がハッキリと教えてくれた。

アメリカ合衆国は、1975年以来ベトナムから13万人の移民を受け入れており、これらベトナム人に韓国人、台湾・中国人なども加わったアジア系移民と、いわゆるヒスパニック(中・南米人)系移民の急増によって、80年代の10年間に500万人の移民が入っている。

そして、90年代にはさらに700万人もの移民があり、メキシコ人などの不法移民を加えると、1980年から20年間の移民総数はなんと1900年から1920年までのピーク時を上回るというのである。

17世紀初めごろから始まったアメリカ大陸への移民。初期のオランダ人、イギリス人の入植時代から、ドイツ人、アイルランド人、イタリア人、ユダヤ人、そしてポーランド人をはじめとする東欧人というように、アメリカは波状的にヨーロッパ各地からの移民団を呑みこみ、そのたびに自らを活性化してきた。

それはそうだろう。祖国を捨てて、新しい土地で新しい生活を築こうとするとき、人は誰でも必死になる。ニューヨークのタクシーで、たまたま韓国人の運転手にぶつかったことがあったが、彼のかもし出す迫力のすごいことといったら!

こうした“新参者”の大きなバイタリティーをとり込むことで、アメリカ社会は常に活力を保持してきたのだ。

20世紀終わりから21世紀にかけて、アメリカはアジア人とヒスパニック系の人びとを大量に受け入れ、斜陽のきざしのある国力に“カンフル剤”を打ちつつあるわけだ。

多民族が混住し、たえず新しい“血”を入れて自己革新をつづける、「移民活力国家」・アメリカ。その底力をヒシヒシと感じたニューヨークの旅であった。

〜完〜

いかがでしたか?

私(しほ)は一度もアメリカに行ったことがなくて、ずっと行きたいって思っているけど、豊富な知識と共に旅に出ると、景色やモノの見方が変わるのかとこの記事を読んで思いました!

小竹先生の記事は毎回学ぶ機会になっています。

次回のお楽しみに~!