【奈良県】今井町(橿原市)
今井町は、天文年間に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって建設された寺内町である。
門徒が都市計画に基づき今井御坊(称念寺)を開き、自衛上の目的で環濠を張り巡らせた。
天正3年に織田信長に降伏した後は赦免の朱印状を下されたのと同時に自治特権が許され、大阪や堺などとの交流が盛んになり商業都市としても繁栄、江戸時代には南大和最大の在郷町として「今井札」を発行するまでになった。
旧環濠に囲まれた東西600メートル、南北310メートルの範囲が重伝建地区に指定されており、江戸時代以来の伝統様式を保った民家が集結している。
【奈良県】今井町「今西家」(橿原市)202005
今井町には9軒もの国重要文化財が存在しているが、中でも立派なのが西端の「今西家」。
「八つ棟造り」と呼ばれる重ね妻の棟を多く持った町家だが、復元された環濠と併せて見るとむしろ城郭に近い。
代々惣年寄をつとめた家で、内部に「いぶし牢」と呼ばれる裁判機能(というよりは拷問部屋)を持った部屋があるという。
春日神社から臨む 正面に「今西家」裏手
「今西家」正面
【奈良県】今井町「豊田家など(国重要文化財)」(橿原市)202005
「今井町」には、前述の「今西家」を始めとして9軒の国重要文化財指定の建造物が現存し、その数は全国他の重伝建地区を見渡しても超える所はないのではと思わせる程である。
そのほとんどには地元民が居住し、生活の場として大事に使われている。
今井町の町家は入母屋平入で統一されているが、出格子や虫籠窓、鏝絵、煙出しなど各戸に個性を出している。
左上「豊田家」 材木商「西の木屋」牧村家の所有で、大名貸しも扱った豪商。寛文2年築。
右上「高木家」 「大東の四条屋」の屋号で酒造業を営んだ。
左下「上田家」 今西家とともに惣年寄をつとめた。延享元年築。
右下「米谷家」 「米忠」の屋号で金物商を営んだ。
【奈良県】今井町「今井御堂」(橿原市)202005
今井町は「今井御堂」こと称念寺を中心に区画整備された寺内町で、東西に6本の通りがあり、それぞれ通りの名前が付けられている。
「御堂筋」は今井御堂がある通りで、その向かいにある「中橋家」は「米彦」という屋号で米屋を営んでいた。
「今井御堂」こと称念寺
【奈良県】今井町「河合家」(橿原市)202005
今井町を歩いて一番目につくのが「河合家」で、江戸時代中期建造の国指定重要文化財である。
かつては「上品寺屋」という屋号の酒造業だったが、現在も「河合酒造」という酒造業として現役、代表銘柄「出世男」を始めとする銘酒を醸造している。
清酒だけでなく、醸造の副産物である酒粕で漬けた奈良漬けも扱っていて、自分土産として購入、宅配便で自宅に送ってもらった。
ちょうど裏通りで工事が入っていたが、聞くと裏手の醸造蔵の工事だという。
河合家
【奈良県】今井町(橿原市)202005
東西の通りと南北の通りで区画されている今井町の町割りだが、必ずしも碁盤目状に区画されているわけではない。
写真のように微妙に交差がずれている箇所が少なくないが、これはわざと見通しを効かせなくさせるためで、戦国時代には敵の侵入に備えてその遠見、見通し、弓矢や鉄砲の射通しを不可能にさせるのが目的になっている。
いかにも戦時の防衛目的のために環濠を張めぐらせて造成された寺内町の特徴ともいえる。
江戸時代の平時になると、自家の生命や財産を外部から守るという目的に変わったが、防衛という意味ではそのまま引き継いでいるとも言える。