5月24日(日)復活節第7主日
ヨハネによる福音書 7章32~39節(p.179)
今日の聖書の箇所から、37節~39節のみことば「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」に目を留めて学びたいと思います。そこから、信仰の糧を与えられましょう。
わたしたちの身体には、血管があり血液が流れています。リンパもあり、神経もあります。身体のなかを、リンパ液や微弱な電気や伝達物質が流れています。人間の体の中には約37兆2000億とも60兆ともいわれる細胞があるといわれ、約3000億個の細胞が日々死んでほぼ同数の細胞が誕生して、生体の恒常性を保っているといわれています。細胞の入れ替わりについては一概に言えないと思いますが、数か月も経つと体を構成する大部分の細胞が更新されることになると言われています。これらは引用ですが、身体を健康に保つには、身体のなかのさまざまな流れが澱むことなくバランスよくスムースになっていなければならないということなのだと思います。
実は、このようなことは、信仰のありようにも参考になるように思います。
信仰には“霊”への理解と受容が必要であり大切だと、今日のヨハネ福音書は強調してわたしたちに教えます。
32節以下に記されているように、イエス様を捕らえるために遣わされた下役の者たちは、イエス様が言われたことを理解できませんでした。霊性というものに開かれていなければ、ヨハネ福音書がイエス様を通して教えようとしている「天上のことも」理解できないままになりかねません。そればかりか、信仰そのものをも硬直化させてしまうでしょう。
「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」というイエス様のお言葉に「流れ出る」という文言がありますが、ギリシャ語では「レオー」という語が使われています。今日医学用語としてリューマチという言葉がありますが、この「流れ出る」に用いられているギリシャ語の「レオー」から派生した言葉だと言われています。
神様の息としての霊が心と体と魂の隅々にまで流れしみわたっていくことが、信仰の世界を生き生きと歩む上で大事なことなのだと思います。
ヨハネ福音書の3章に、ニコデモが夜イエス様を訪ねたときのことが記されています。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」とニコデモは言っています。イエス様は、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」とお答えになっておられます。そして、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われておられます。
「霊」は、ギリシャ語では「プニューマ」、ヘブライ語では「ルーアッハ」といいます。「プニューマ」も「ルーアッハ」も、風や動く空気という意味とともに霊や霊魂また精神を意味する言葉です。つまり、自然や命が生き生きとしているためには欠かせない、プニューマでありルーアッハなのです。
イエス様は、ニコデモに対して「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と言われながら、「永遠の命」についてお教えになられました。
わたしたちも、信仰に生きようとすれば霊の理解は欠かせません。
霊性についての理解なしに、神の国、天の国の福音を理解することは難しく、永遠の命についても受け止め方が希薄になってしまいます。わたしたちが、神の国を見るように信仰生活をするためには、霊性は欠かせないでしょう。
新約聖書では、「見る」という動詞が「聞く」という動詞よりも圧倒的に多く用いられています。「見る」という意味の動詞が約680回用いられているのに対して「聞く」という動詞はほぼ425回ほど用いられています。ヨハネ20章29節でトマスに向かってイエス様が「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである。」と言われているにもかかわらず、「見る」の方が多く用いられているのには理由があります。みなさんは、なぜだと思いますか。
実は、「見る」ということは信仰と対立することがらではないからです。「見る」には、「目をもって見る」という知覚の意味と、「信仰をもって見る」という二重の意味があります。信仰者にとっては、信仰の目で見る、信仰をもって見るということはとても大事なことなのです。
ボーレンという人が、「信仰というものは、イエス・キリストにおいて明らかになったもの、それを見るということであります。」(抜粋)と書いていますが、「霊」や「霊性」のことがらも、信仰の世界では、見えることがらなのです。
冒頭で掲げた聖句「聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」とありますように、信仰者は、神様からの霊をいただき、霊性にあってみずみずしくありたいものですね。
アーメン。