なのにイエス様は
ふだんは、この信仰と祈りをダイレクトに伝えることは「日本国の医師」としては許されていないので、それにすこしでも近い形、そこまで効果はないけどすこしでも代替になるものとして、「あまたのセラピー」のうち私の知っているものをお伝えしています。
私の持ち合わせている経験と知見の中で、念祷に勝る治療法、解決法はありません。
祈りにたどり着いた後に、なお、あまたのセラピーについて教えてほしいと言われると、十字架を前にしたイエス様がピリポに言った言葉になってしまいます‥
こういうと、よく返されてくる答えが、「たくさん祈りました」「もう十分祈りました」というものです。 聖書がウソなのか、私が特殊なのか(この結論も、つまりは聖書がウソということになります)、あるいは、その人の祈り方がずれていたのかのどれかということになります。
時間だけでいうと、私よりもたくさん祈ったと言える人はそんなにいないと思いますが、いまも私は、自分が十分祈ったとは全然思えません。いつも、祈りが足りません。こんなことで、かなえられるわけがない、もっと祈らなければといつも思わされます。
実際には、祈りがかなえられるのは時間では測れませんが、真剣度において、本当にどこまで祈ったのか、み言葉に沿ったみ名による祈りをしたのか、ここでも、わたしはいつも祈りが希薄で、別の動機がいつも交じりこんでいることを感じます。こんな祈りじゃ聞かれないと。
なのにイエス様はイエス様の仕方で応えてくださいます。
詩編103編【ダビデの詩。】
わたしの魂よ、主をたたえよ。
わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ。
わたしの魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
主はあなたの罪をことごとく赦し病をすべて癒し命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。
主はすべて虐げられている人のために恵みの御業と裁きを行われる。
主は御自分の道をモーセに御業をイスラエルの子らに示された。
主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。
永久に責めることはなくとこしえに怒り続けられることはない。
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。
天が地を超えて高いように慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
東が西から遠い程わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
父がその子を憐れむように主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。
人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消えうせ生えていた所を知る者もなくなる。
主の慈しみは世々とこしえに主を畏れる人の上にあり
恵みの御業は子らの子らに主の契約を守る人命令を心に留めて行う人に及ぶ。
主は天に御座を固く据え主権をもってすべてを統治される。
御使いたちよ、主をたたえよ
主の語られる声を聞き御言葉を成し遂げるものよ力ある勇士たちよ。
主の万軍よ、主をたたえよ
御もとに仕え、御旨を果たすものよ。
主に造られたものはすべて、主をたたえよ
主の統治されるところの、どこにあっても。
わたしの魂よ、主をたたえよ。
そして、祈りは私たちのうちにしだいにダニエルらと同じ思いを形作っていきます。
ネブカデネザルは彼らに言った。「‥あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「‥もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
ダニエル書3:14~17
人は全世界を手に入れても己が魂を損じたらなんによってそれを取り戻すことが出来るでしょう。