Okinawa 沖縄 #2 Day 18 (24/5/20) 西原町 (1) Tanabaru & Uchima Hamlets 棚原/森川/千原/内間/掛保久/嘉手苅/小那覇集落
棚原 (たなばる、タナバル)
- 村屋 (ムラヤー)
- 棚原の石畳道
- 大殿内 (ウフドゥンチ)
- 神井 (カミガー) / 樋川井 (ヒージャガー)
- 宮里家屋敷跡 (歴史公園)
- 棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ)
- マニシカニービ御嶽 (上ヌ嶽 イェーヌタキ)
- 棚原比嘉家の土帝君 (トゥティークー)
- 遊び場 (アシビナー)
- 棚原貝塚
- 棚原グスク
森川 (もりかわ)
一貫井 (イッカンガー)
千原 (せんばる)
- イシグスク
内間 (うちま、ウチマ)
- 内間公民館 (村屋 ムラヤー) [6月2日 訪問]
- 内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ)
- ノロ火之神 (ヒヌカン)
- ノロガー
- 茅葺御殿 (カヤブチウドゥン)
- 内間御殿小 (ウチマウドゥングワ)
- 名幸毛 (ナコーモー)
掛保久 (かけぼく、カキブク)
- 掛保久公民館 (6月2日 訪問)
- クシマモーの拝所 (6月2日 訪問)
- 掛保久の親川 (ウェーガー)
- 掛保久公民館 (後日訪問)
- クシマモーの拝所 (後日訪問)
嘉手苅 (かでかる、カディカル)
- 大嶺御嶽 (ウフンミウタキ) 前之御嶽 (メーヌウタキ)
- 儀間之御井 (ジーマヌウカー)
- 内間御殿 (ウチマウドゥン)
小那覇 (おなは、ウナファ)
- 御衣脱瀬 (ンスジー)
- セーグチジョー
5月21日に与那原町の訪問を終えてから、3日間雨続きで外出は出来なかった。天気予報ではまだ数日間は雨の日が続くと出ていたが、今日は天気予報が変わり曇り一時雨となっていた。降雨量も少ないようなので、思い切って次の訪問地の西原 (にしはら) 町を巡ることにした。明日からまた雨予報なので今日は西原町で一番遠い集落から巡る事にした。
西原町の22の字の人口。
西原は琉球王国の都の首里の北に位置するのでニシバルと呼ばれた。琉球語では北をニシという。「西」は当字にあたる。琉球王朝時代は西原間切で、南風原間切と同様に、琉球王朝の直轄地で西之平等 (ニシヌフィラ) と呼ばれていた。[三平等 (ミフィラ) = 南風之平等 (フェーヌフィラ)、真和志之平等 (マージヌフィラ]、西之平等] 当時は那覇市泊、天久、末吉、石嶺まで含んでいたので、かなり広範囲をカバーしていた。
1920年以降に現在の西原町の姿になった。西原町内には22もの字があり、人口は3万5千人。毎年緩やかな人口減少傾向にある。
沖縄では人口が増えていく地域が多い中、この西原は人口減少が予測され少子高齢化が課題だ。何故、この西原は他の地域と異なり人口減少となっているのだろう?
今日は西原町の22の字の内、6つの字を訪れた。琉球王統以降の行政の変遷は下記の通り。(緑は屋取集落)
まずは棚原集落に向かい、その後に森川、千原に移動。
棚原集落 (タナバル マキョ)
元々は浦添間切に属していたが、1737年に西原間切に編入された字で、人口は2700人で西原町の22の字の中では7番目に多い。数回にわたる村落移動を経て、17世紀頃に棚原グスクがあった丘陵の中腹に集落が形成された。グスク時代から集落があったと考えられており、文化財も数基あり、琉球国由来 記には、上ノ嶽、シギマタノ嶽、モリヒラノ嶽、棚原巫火神、シラ川ノ巫川、棚原城之殿、棚原里主所火神の記載がある。字では観光案内板を設置していた。この案内に従って巡る。下の案内板には「たなはら」と書かれているのだが、Wikipediaでは「たなばる」となっている。沖縄では沖縄固有の読み方と日本語読みが混在している。住民はあまり気にしていない様に思える。(やはり大らかな性格)
村屋 (ムラヤー)
棚原の公民館が集落の上部にあった。ここがかつての村屋だったのだろうか? 自転車をここに停めて、棚原の史跡を徒歩で巡る。
棚原の石畳道
公民館の裏に琉球石灰岩の石畳の道が30mほど残っている。沖縄ではこのような昔からの石畳道はどんどん消滅しており、西原町ではここしか残っていない。この石畳道は集落内の東側にあり、前ヌカーの脇を通って馬場や殿などのある集落背後の丘の急な斜面地を集落を南北に通っている。雨上がりの後なので、滑りやすい。
大殿内 (ウフドゥンチ)
現存している石畳道を下ったところに殿内 (ドゥンチ) がある。大殿内門中の殿内だ。棚原集落の12の門中の一つで、大殿内門中と比嘉門中が指導的門中で、この二つの門中から祝女 (ノロ = 根神 ニーガン) を排出していたので、この棚原集落の根人 (ニーチュ) であったのだろう。大殿内門中は護佐丸の末裔と云われており、棚原集落の国元 (クニムトゥ) であったと考えられている。護佐丸は第一尚氏時代の英雄で15世紀前半に活躍していた。そうすると棚原集落は第二尚氏の初期に発生したのだろうか。
神井 (カミガー) / 樋川井 (ヒージャガー)
棚原では最も古い拝泉井。別名三日月ガーとも呼ばれている。神井 (カミガー) はコンクリートの小屋で囲まれて大切に維持されている。井戸の前には香炉が置かれている。信仰の対象になっている。同じ場所にもう一つ井戸がある。ヒージャガーと書かれている。樋川井と書くのだろう。こちらは今でも使っているのか、近年まで使っていたのだろう。
宮里家屋敷跡 (歴史公園)
棚原旧宮里家 (屋号: メーナーザトゥ 前宮里) の屋敷跡地全体を歴史公園として整備されている。屋敷跡は屋敷への石畳や石段から沖縄の伝統的な屋敷の特徴的な豚便所 (ウヮーフール) や屏風 (ヒンプン)まで残っている。
豚便所 (ウヮーフール) や屏風 (ヒンプン)は中国から伝来し、沖縄で信仰や俗信と結びついて翁は固有のものになっている。中国では豚に排泄物を餌として与える習慣は残っていない。沖縄では、衛生上の理由から昭和初期に「養豚場取締規則」の改正によって、豚小屋と便所を併設することが禁じられた。 棚原では、フルには便所の神 (フドゥーヌカミ) が宿るとされ、屋敷御願 (ヤシチヌウガン) として拝まれていた。これは面白い。沖縄では便所まで信仰の対象になっている地域があるのだ。 屏風 (ヒンプン) は、屋敷の目隠塀として設置され、魔除けとしての役目も兼ねていたといわれる。 棚原では、遠い場所にある森の先 (ムイヌサチ) に対する山がえし (サンゲーシ) として設けたとも伝わる。 同屋敷跡には母屋の石柱が残っている。豚便所 (ウヮーフール) 脇には、フルから流れてくる汚水や生活排水等を溜める石造りの貯水場 (シーリ) が造られている。
棚原ノロ殿内 (タナバルヌルドゥンチ)
沖縄では珍しく立派な拝殿に改修されている。拝殿の中には祭壇が設けられ、ミルク (弥勒) 神が祀られている。拝殿の前には打ち水などに利用されている井戸 (ノロ殿内井 ノロドゥンチがー) と、有り難そうに石の柵で囲まれた自然石がある。何のための自然石なのだろうか? 伝承では、ここに祀られている神々はユーヌ神 (世の神) でもあるので、旅立ちのときにはここを参拝する慣わしがあったそうだ。このミルク神は沖縄ではよく登場する。元々は仏教の弥勒菩薩なのだが、琉球神道に同化されてしまった。海の彼方の楽土から豊年を運んでくる五穀の神と考えられ、豊年のことを弥勒世 (ミルクユー) とか弥勒世果報 (ミルクユガフー) と称するようになった。弥勒神は沖縄全域にわたって伝承されている来訪神で、中国に普遍的である弥勒仏の変身した姿の布袋の仮面を被った太ったおじさんの様な形で表されている。これも沖縄の信仰の寛大さを表している。拝殿の横は広い広場になっている。ここにノロの屋敷があったのだろう。
棚原の祭で登場するミルク神。
マニシカニービ御嶽 (上ヌ嶽 イェーヌタキ)
殿内の裏に登り口がある。きっと御嶽への道だろう。少し登ると、鳥居が建っていた。やはり御嶽だ。マニシカニービ御嶽 (上ヌ嶽 イェーヌタキ) と呼ばれている。明治政府が沖縄を日本化する政策のひとつとして御嶽を神社に変えて行った名残だ。沖縄の人の宗教観は本土よりも更に寛大で、どのような宗教に対してもオープンで、意識せずに元々の沖縄の信仰に取り込んでしまう。明治以降、日本政府は神道を押し付けたのだが、それに対して目立った拒絶はなかったようだ。というよりは特にそれが自分達の信仰を変えるとか捨てるとかの概念自体が無い。非常に無頓着だ。(これは沖縄の人の性格にも現れているように思える) 沖縄戦以降、神社は残らず元の御嶽信仰に戻っている。しかし鳥居を積極的に取り壊す事もしない。沖縄の御嶽や拝所は非常に簡素で、飾り立てたり、威厳を持たせようとはしていない。御嶽や拝所は神が立ち寄る場所で、単なる目印としてイビなどが置いてあるだけ。これほど昔からの信仰の形が残っているのは興味深い。
このマニシカニービ御嶽 (上ヌ嶽 イェーヌタキ) に関わる民話が球陽外巻の遺老説伝に収められている。よくわからない話なのだがここに掲載しておく。
昔、西原邑棚原に、稲福婆 (いなふくばぁ) というノロがいた。 ある日、他の祝女 (ノロ) 達と一緒に金鼓 (ちんく:命令伝達や宮殿・寺院などで通知伝達に用いた鉦と太鼓) を鳴らしながら、神歌 (おもろ) を唱え、上ヌ嶽の前で神遊びをしていると、突如、稲福婆がいなくなった。 一緒にいた他のノロや村人達が総出で、村内を探し回ったが、見つけることができず、稲福婆は、行方不明になってしまった。 その事件から3年経ったある日、我謝村に住んでいる鍛冶屋大主 (かじやうふしゅ) という人物が、海で釣りをしていると、漂流している人の形をしたものを見つけた。 よく見ると、漂流していたのは人間で、頭には髪の毛が全く無く、全身には貝がくっ付いていた。 その人間は、大主に『私は稲福婆です。神遊びをしている時に竜宮へ連れて行かれました。しかし、そこでの食べ物は貝しかありませんでした。』と話し、黄色い物を吐き出した。 大主は、すぐさま稲福婆を介抱し助けた。 その話を聞きつけた人々は、稲福婆を竜宮から来たので『儀来婆 (ぎらいばあ)』と呼んだ。竜宮は『儀来河内 (ぎらいかない)』と言われていたので、そう呼ばれるようになったそうだ。 村人たちや身内の者は、竜宮での話を聞きたいと、稲福婆のもとへやってきましたが、稲福婆は一切話すことはなかった。 やがて、稲福婆の噂は、首里まで広がり、ついに王様の耳にも伝わった。 王様は、竜宮での話をぜひ聞きたいと、稲福婆をお城に呼び寄せた。すると、今度は、お城にたくさんの人々が殺到してしまった。 野次馬達が騒いでいるのを見た稲福婆は、両脇に手を挟んだ瞬間、忽然とどこかへ消えてしまった。 身内の者や村人たちが、またもや消えてしまった稲福婆を探し回ると、今度は上ヌ嶽で見つけるた。
棚原比嘉家の土帝君 (トゥティークー)
ノロ殿中のすぐ下にも、伝統的な沖縄の住居跡がある。この集落のであった比嘉門中の屋敷跡だ。特に文化財として保存されているわけでは無いのだろうが、先ほど見た歴史公園の住居跡と同じような造りだったと思われる。
この場所に土帝君 (トゥティークー) が祀られた小さな祠がある。土帝君 (トゥティークー) は中国の3世紀前半から見られる土地神の一つで、沖縄へは、1698 (康煕37) 年に大嶺親方鄭弘良が中国から神像を持ち帰り、領地の小禄村大嶺に祀らせたのが始まりだとされる。[程順則『指南広義』によると、土帝君信仰はそれ以前から知られていたと思われる。] その土地土地を守る土地神で、もともとは農耕の神として親しまれ、その昔には甘藷 (サツマイモ) の豊作を祈願してきた。棚原の土帝君は比嘉家の当主が200年ほど前に、首里の西ムイ (儀保付近) からフトゥキ (仏=土帝君) を持ち帰ったのが始まりとされる。祠の内部には神体として夫婦をあしらった赤褐色を呈した陶製の男女一対の土帝君の神像が安置されている。かつては旧暦2月2日のクッスキーと5月4日のグングァチャーに祭祀が行われていたが、いまでは旧暦2月2日の祭祀行事しか行われていないそうだ。沖縄では50ほど土帝君が確認されているそうだが、去年に沖縄南部を巡った際に、那覇と佐敷で出会している。
遊び場 (アシビナー)
棚原ノロ殿内から棚原グスクの方向の上の方に集落でのイベントなどを行っていた遊び場 (アシビナー) 跡がある。今は使われていない様だ。と思っていたら、インターネットでは12年に1度、酉年に行われる棚原のムラ芝居の会場になるそうだ。酉年にしか使わないというのは気になる。何かの理由があるのだろうか? 調べて見てわかった。ノロ殿内に保管されている弥勒 (ミルク) 神が生まれたのが酉年だったからだそうだ。12年に一度行われる祭は「まーるあしび」と呼ばれ、この弥勒 (ミルク) 神に五穀豊穣を祈願するお祭り。先程のノロ殿内で祈願を済ませ、弥勒 (ミルク) 神の行列がこの遊び場 (アシビナー) まで行われ、ここで舞台を作り、琉球踊りや組踊、ミルク太鼓など数々の伝統芸能が催される。
棚原貝塚
棚原グスクに向かう。丘陵の尾根に城への道がある。しばらく歩くと、表示板が見えてきた。城への入り口の様だ。ここに貝塚があったそうだ。ここは標高140mぐらいの場所。これ程高い所に貝塚があったことに驚いた。文時代後期から晩期相当期の遺跡で海の貝よりも陸の貝類が多く発見されている。
棚原グスク
棚原グスクは、およそ14世紀~15世紀に属するグスク跡で、棚原集落の北西にあり、標高150mの石灰岩丘陵上の尾根に沿って広がっている。『琉球国由来記』には「棚原城之殿」が記載されており、この殿がある平場が、このグスクの主郭と推測されている。平場の北から西および南側にかけては断崖で、北側下方には牧港川が流れ天蓋の要塞となっている。南側の緩斜面部には、棚原集落が展開している。グスクの大手は集落の後方に展開しており、中世の典型的なグスクを中心とした集落が形成されている。
貝塚を過ぎると、グスク跡の立て札が見えてきた。そこに拝所所らしき小屋がある。さらに奥に進む。
突き当たりは広場になっている。ここがおそらく本丸だろう。殿 (ドゥン) が見える。琉球国由来記にある棚原城之殿と考えられている。周りには平御香 (ヒラウコウ) を燃やした跡のある自然石を積んだ場所が2カ所あった。
15世紀 (三山時代) から16世紀にかけて安慶名城を拠点に沖縄本島中部一帯を三代にわたり支配した安慶名大川按司 (一世、二世、三世?) の弟が、当地に配され棚原按司と称したといわれている。当初、琉球大学北口近くの千原にグスクを築こうとしたが、地形が築城に向かず、この棚原山に築城したと云われている。(別の説では千原のイシグスク [この後、訪問] を居城としたが、手狭なため棚原にグスクを築いたという。) 伝承では、初代棚原按司が幸地按司 (幸地グスクはこの近くにある) に滅ぼされた後、真栄里按司の子が跡目を継ぎ5~6代続いた後、 中央集権で首里に移住し、その後廃城になったとされている。
グスクのある丘陵の斜面には多くの墓がある。亀甲墓などいろいろな形式の墓がある。
グスクは標高150mにあり。そこからは先週訪れた与那原町の港 (写真左上)や北側にある琉球大学 (右上) が臨める。
森川 (もりかわ)
字棚原のすぐ北にある字。もともとは棚原の一部であったが、明治初期の廃藩置県で職を失った旧士族が、首里から移ってきてここに集落を築いた。この様な集落を屋取 (ヤードイ) 集落という 。森川は人口475人ほどの小さな字。西原町の中では6番目に小さな字になる。
一貫井 (イッカンガー)
一貫ガーは字森川にあり、別名「森川ヒージャーガー」とも呼ばれる湧泉。一貫ガーは「昔、7カ月にわたる大旱魃のとき、隣の西原部落の人々が一貫 (二銭) づつ出し、この井泉を浚渫、改修した」ことに由来。戦前の形態は、二つの石製の樋があり、その下にはクチャに堀り込んだ溜め池がつくられていたが、いまではコンクリートで囲われ整備されている。現在でも農業用水として使われている。
千原 (せんばる)
1933年に棚原から分立した字。ここも屋取 (ヤードイ) 集落だ。もともとは棚原の一部であった。人口は1300人で十番目に多い。
イシグスク
この史跡は字千原の琉球大学農学部本館の西約300メートルにあり、標高133メートルの場所に位置する。台地 (イシグスクモー) 頂上部は、人工的に平場になっており、平場の四囲は約3~4メートルの崖を形成して、防御用の削平地となっており、一種の曲輪と考えられている。工事でグスクは破壊され三分の一しか残っていない。近くに棚原グスクが立地していることから、イシグスクは棚原グスクの北の支城 (出城) として築かれた可能性が高い。先に訪れた棚原グスクで触れたが、このグスクの成り立ちには諸説ある。ただ、イシグスクの周辺には、棚原集落の古い墓があり、津覇高墓 (つはたかばか) や、大殿内門中按司墓があることから、棚原と何らかの関係があったことは確かだ。この場所は沖縄戦で激戦地となったところで、△141.6高地と呼ばれていた。(標高141.6mだったが、工事で削られてしまい現在は120m) 沖縄戦では西原町の住民の約半数が死亡したそうだ。
向こうに棚原グスクがある丘陵がはっきりと見える。棚原グスクのある丘陵の左の方の高いところが△154.9高地と呼ばれた沖縄戦の激戦地だ。
千原は西原町の北の端にあたり、これから南の内間集落に向かう。
内間 (うちま)
千原 (せんばる) から国道29号で上原 (うえはら、ここも棚原から分かれた屋取集落) を通り、国道34号で内間 (うちま) に向かう。内間は国道34号から分岐する急な下り坂の中腹から下に広がっている。人口は約1300人で西原町では11番目に多い字。集落北側の丘陵地中腹にあるノロ殿内などの拝所がある付近が集落発祥の地とされている。その後現在の範囲まで拡大。 聖地として琉球国由来記に、大嶽、コシマノ嶽、イフノ嶽、ウチマ巫火神、長嶺之嶽の記載がある。年中行事として、綱引きや獅子舞が行われている。
内間公民館 (村屋 ムラヤー) [6月2日 訪問]
かつての村屋 (ムラヤー) であろう。公民館の入り口に大城仁王之碑という石碑が立っている。公民館のおばさんに聞いたところ、この内間部落の国元 (クニムトゥ) で村を始めた人ということだった。そして、内間にはそれ程、誇れる文化財がないのだが、隣の小橋川集落には立派な史跡があると、訪問を勧められた。 (この後、小橋川を訪問。訪問記は6月2日参照)
近くに井戸跡と思われる拝所がある。名は不明。傍には綺麗な花が咲いている。花には疎く、名は分からないのだが...
内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ)
内間は、金丸 (第二尚氏王統初代国王 尚円王) が、一時期を過ごした地だと云われている。現在の嘉手苅 (かでかる) にある屋敷に住んでいた金丸は内間ノロと結婚したと伝えられている。そのノロの住居があった場所。ここには拝所がありノロ火之神 (ヒヌカン) が祀られており、拝所の片隅にはノロガーと呼ばれる井戸跡が残っている。
このすぐ北にも拝所がある。説明はないので、どの様な云われなのかは不明。
茅葺御殿 (カヤブチウドゥン)
内間野呂殿内 (ウチマノロドゥンチ) の背後の標高30メートル前後の丘陵裾部に茅葺御殿 (カヤブチウドゥン) がある。この一帯は集落発祥の地。この御殿の本来の名称はウェーサギ (上アシャギ) と呼ばれた。名の通り、かつて拝殿は芽葺きであったことから、カヤブチ御殿と呼ぶようになった。伝承では金丸 (尚円王 1415~1476) が首里へ上る途中一時ここに逗留し、内間ノロと一緒に過ごしたという話が伝わっている。
内間御殿小 (ウチマウドゥングア)
金丸の屋敷であった内間御殿は嘉手苅 (かでかる) にあるのだが、ここにも内間御殿と呼ばれている屋敷跡がある。「小 (グア)」となっているので、規模が小さい屋敷だったのだろう。こ子から数十メートルのところに金丸とノロ が一時期過ごした茅葺御殿 (カヤブチウドゥン) があるので、ここも何らかの為の屋敷があったのかもしれない。言い伝えでは金丸と内間ノロの間に生まれた子供はその後、内間ノロの妹の夫で知念村の古根の養子となり、知名地頭となり内間大親と称されたという。金丸の隠し子の話は多く沖縄に残っているそうだ。真偽は不明だが、金丸は結構モテたのだろう。
名幸毛 (ナコーモー)
ナコーモーの祠は、集落の東側の国道329号線沿いには名幸毛 (ナコーモー) と呼ばれる丘に、名幸毛 (ナコーモー) の祠がある。名幸毛 (ナコーモー) は国道工事で削り取られ、昔の面影は残っていない。 当時、その山頂付近には後ヌ嶽の詞と部落のウブガー (産井泉) があったという。ここにある祠は元々山頂にあった後ヌ嶽を再建したものでは無いだろうか? 名幸毛 (ナコーモー) は、金丸と内間ノロとの出会いの場所であったという言い伝えがある。
掛保久 (かけぼく、カキブク)
内間の隣にある。人口は440人で西原町では五番目に少ない字。西原平野の北東部の丘陵地にある。聖地として琉球国由来記に、掛保久火神、ソデバナノ殿の記載がある。現在の公民館一帯が集落の発祥地とされ、殿、火神、アシビナーなどの聖地と、旧家の屋敷跡も残っている。 掛保久は今でも水の豊富な集落として知られており、農耕地は水田に適していたと思われる。年中行事にも稲作に関連する物が多い。 かつては様々な年中行事が行われていたが、現在ではほとんど残っていない。
この地域の集落も斜面に形成されている。
掛保久公民館 (6月2日 訪問)
公民館は遊び庭 (アシビナー) 跡地に建てられ、ここには殿、火之神、当山家拝所が当時の地図に記載されている。公民館の入り口を入ったところに二つ祠がある。
クシマモーの拝所 (6月2日 訪問)
この地はかつては小那覇村の所有のあったクシマモーと呼ばれる丘で、後に掛保久の一部になった。ということで、掛保久・小那覇の村民両方で拝まれている。この日はとにかく暑く、近くで清涼飲料水を買って、この丘の上にある東屋で休憩。
クシマモーの上からは、南城市の丘陵が臨める。
掛保久の親川 (ウェーガー)
親川 (ウェーガー) は掛保久部落のほぼ中央にあり、掘り込みの共同井戸として利用され、部落の拝井泉。この井泉は水量が豊富で、明治37年の大旱魃の時にも水が枯れることはなく、近隣部落から水をもらいにつめかけたという。戦災で埋もれていたこの井泉を戦後、修復し、今でも部落の拝井泉として崇めらている。
嘉手苅 (かでかる)
内間と掛保久に隣接した字でここに金丸の内間御殿 (ウチマウドゥン) がある。嘉手苅という字ではあるが琉球王統時代は内間の一部だったのだろうか? 小さな字で人口は550人で西原町では八番目に人口の少ない字。ウフンミ御嶽や上ヌ松尾一帯が集落発祥の地とされている。 聖地として琉球国由来記に、嘉手苅火神の記載がある。 集落の中央部には第二尚氏王統の始祖金丸 (尚円王) が内間地頭に任ぜられたときの旧宅である内間御殿があり、その内間御殿に関係する拝所などが多く存在している。 戦前まで肥沃なサトウキビ畑だった農耕地に、戦後は製糖工場や町役場、農協、銀行、商店などが立ち並んだ。町のシンボルでもあった製糖工場は1999 年に取り壊され跡地 には、大型商業施設が開店した。 年中行事として綱引きを行っている。
大嶺御嶽 (ウフンミウタキ) 前之御嶽 (メーヌウタキ)
内間集落の南側、国道329号線沿いの小高い丘上にある。嘉手苅 (カディカル) 集落はこの付近に始まったといわれている。
琉球国由来記 (1713年編集) に記載されている大嶽 (神名、真南風ノアナ真コチアナ真シラゴノ御イベ) と考えられている。内間集落の前にあることから、前之御嶽 (メーヌウタキ) と呼ばれている。かつて、ここはは神女 (ノロ) の就任式が行われた御嶽で、そこで神女に神の名が授けられるということで、ウナージキヌウタキとも呼ばれた。
儀間之御井 (ジーマヌウカー)
内間御殿に関連する祭祀場の一つ。旧中部製糖工場 (西原製糖株式会社[1959年創業]、中部製糖株式会社 [1964年社名変更]) の敷地内の一角にあった。この中部製糖株式会社は1993年 (平成 5年) 翔南製糖 (浦添市) に砂糖の製造・販売を譲渡し、工場跡地にはサンエー西原シティを建設し、不動産賃貸業を行っている。あり、この拝所一帯は小字儀間原であることから、ジーマヌウカーと呼ばれている。かつて金丸 (尚円王) がここに漁網を干したことから、アミウーシガーとも呼ばれてもいた。また、この周辺は「王たまし」といわれ、この井戸は「王たまし川」とも呼ばれていた。稲の祭祀である稲二察 (ウマチー) には、東江御殿の御殿守がここで御水をとっていた。
内間御殿 (ウチマウドゥン)
いよいよ、金丸 (第二尚氏初代王 尚円王 1415-1476年 在位 1469-1476年) の屋敷跡に向かう。屋敷跡のすぐ近くに、公民館 (村屋 ムラヤーだったのだろう) やコスモス畑、琉球赤瓦の家があった。コスモスは見頃が1月下旬なので、花はちらほらという感じだ。
尚円像(向元瑚画、1796年)
内間御殿は、第二尚氏王統の始祖である金丸 (のちの尚円王) が1454年に内間地頭に任ぜられたときの旧住宅跡に、尚円王没後190年も経てから建てられた神殿。 金丸は、1415年、伊平屋間切諸見村に平民の子として生まれた。1438年 (24歳) の時に、妻や弟らと共に島をでて、国頭間切宜名真村を経て首里に上った。首里に上った金丸は、1441年 (27歳)に越来王子 (のちの尚秦久) の家臣となった。1447年 (33歳)、尚秦久の推薦で家来赤頭となり、38歳には黄冠の位 (当時の最高位) まで昇進。1454年 (40歳)、内間領主となる。1459年 (45歳)、金丸は御物城御鎖側官の位に就いた。その後、金丸は尚秦久王のあとを継いだ若い尚徳王と対立し、1468年 (54歳)、内間村に隠遁した。翌年 (1469年 55歳)、尚徳王が亡くなり、群臣から推され金丸が王位に就いた。
金丸が内間地頭のとき、嘉手苅の真むた親部の妹である内間ノロを御手掛 (おてか 側室) にむかえた。その後、この屋敷の大殿内では青磁の枕を尚円王の御神体として祀り、御手掛への焼香が続けられ、羽地朝秀 (向象賢 1617 - 1676年) が摂政のとき、大殿内の屋敷に切妻造の茅葺の神殿が建てられ、御神体として青磁の枕が安置され、大殿内には別の屋敷が与えられた。その後、破損したので、1689年、大美御殿によって東江御殿は樫木を使った瓦葺の神殿に改築。1706年、東江御殿の北側に茅葺の神殿 (西江の御殿) が西原間切の人民らによって普請。1735年 (尚敬23年)、本殿の東江御殿に賊が入り、宝枕が盗まれ、第13代尚敬王は自ら家臣を引き連れ捜索にあたり、その宝枕を見つけ出したが、それを契機に1736年 (尚敬24年)、東江御殿の屋敷囲いも竹垣から石垣積に改修され、本門 (瓦葺の屋根を載せた門) と小門 (正門のわきにある通用門) を設け、瓦屋根を葺き替えた。 1737年 (尚敬25年) には西江御殿も瓦葺に改められ、屋敷の周囲は竹垣が張り巡らされた。1738年 (尚敬26年)、尚敬王直筆の「致和」の扁額が東江御殿の本門の軒に掲げられ、また、尚敬王の撰文になる「先王旧宅碑記」の石碑が内庭に建てられた。 1824年 (尚穆21年)、再び東江御殿に安置されていた御神体の青磁の枕が盗まれたので、1835年 (尚育元年)、西江御殿に安置されていた青磁の小皿を改めて東江御殿の御神体として祀ることになった。 沖縄戦で両御殿は焼失したが、石垣遺構や先王旧住宅碑の台座などは残っている。戦後の1951年、大屋門中やハワイ在住の一門らによって東江御殿跡にトタン葺の神屋が再建。1974年、大屋の当主によって、ブロック造りの現在の神屋に改修。 戦後、西江御殿も伊礼門中によって木造トタン葺の神屋が再建。
内間御殿への道には鳥居がある。皇民教育の一環として昭和6年に建てられたもの。屋敷跡は生垣でお囲まれている。
門への色口に日章旗の掲揚台と伝わる。石の台座がある。これも日本の文化様式を押し付けた明治以降のものだろう。
門の前方には町指定天然記念物の樹齢470年のサワフジ (サガリバナ) の木がある。サガリバナとは、金丸を引退しここに隠居したことからつけられたという。
サワフジ (サガリバナ) は東南アジアに生息する植物で6月から8月にきれいな花をつけるそうだ。その時期にもう一度来てみよう。
[東江御殿 (アガリウドゥン)]
門はなくなっているのだが、中には東江御殿 (アガリウドゥン) が見える。お参りをしている人がいた。ここには尚円王が祀られている。御願 (ウガン) 終わるまで待って、中を見学した。神棚には尚円王、御手掛、根神 (にーがん)、居神 (いーがん)が祀られている。先の説明にあった尚敬王直筆の「致和」の扁額も置かれていた。
小写真の左が門、右が東江御殿。琉球瓦で立派なものだが、今はトタン葺きの小屋。沖縄には、この様な重要な史跡でも一見して貧相な建物が多い。どうも沖縄では、あまり外観は気にしていない様で、中身の方が重要なのだ。御嶽にしても、昔は石積みだったものが、ブロックに変わっている。この外観は変わっても本質は変わらないという考えには感心するのだが、観光地としてはもう少し歴史を感じさせるものにしても良いのではとも思う。沖縄の各市町村が観光に力を入れようとしている割には、少しギャップを感じる。観光客の多くは本土からや外国からの人が多いのだから...
とはいうものの、個人的には今の史跡でも満足はしている。史跡に対しての向き合い方が本土での観光史跡とは少し変わってくる。本土では、立派な建物やモニュメントを見て、外観から刺激を受けるのだが、沖縄ではその習慣文化を感じる機会としてみることになる。この感覚は失いたくない。ただ、やはりもう少しているをした方が良いかな,,,,
先王旧宅碑で碑の部分は破壊されましたが台座は残っている。昔は古写真の様に建物の中に入っていた。
泥棒騒ぎで屋敷は石垣で囲まれる様になったが、石垣が崩れているので、ロープで近づけなくなっており、石垣は土嚢で崩落帽子をしている。これもちゃんと整備すればいいのに...
東江御殿 (アガリウドゥン) の奥に西江御殿 (イリーウドゥン) があるのだが、そこへの道の脇に二つの井戸跡がある。左がカニマルウカーで金丸が使っていたといわれる掘り抜き井戸 と右がイーソーウスマシウカーでノロが衣装を洗ったといわれる掘抜き井戸。
西江御殿 (イリーウドゥン) の敷地も石垣で囲まれているが、比較的新しいものの様に思える。
[西江御殿 (イリーウドゥン)]
西江御殿 (イリーウドゥン) は壊れかけたトタン屋根の小屋。少し寂しい!隣にある事務所の方がチッぱな建物だ。この西江御殿 (イリーウドゥン) 敷地内には東江家の井戸で、嘉手刈集落で最も古いと言われている西江之産井 (イリーヌウブガー 左下) と子授け、健康祈願の為の西江之御賓頭盧 (イリーヌウジビル [ビジュル] 右下) という霊石がある。
[東江家 (アガリーヤ) ]
東江御殿 (アガリウドゥン) の隣に東江家 (アガリーヤ) の御殿 (ウドゥン) がある。石垣で囲まれている。石垣に中にはサンゴも混じっている。東江家 (アガリーヤ) はやはりトタン屋根で入り口の戸は壊れて、ロープで固定している廃屋にしか見えない家だった。これも少し寂しい。
東江家 (アガリーヤ) の裏手にコンクリートの拝所がある。もともとは東江家 (アガリーヤ) の中にあったのだろうが...
更に二つの拝所もある。東江之御賓頭盧 (アガリーヌウジビル 右上) と東江之御火神 (アガリーヌウヒヌカン 左下)。敷地内には東江之御井 (アガリーヌウカー) の井戸跡もあった。
沖縄の放送局のRCBがこの尚円王の歴史ドラマを作成している。2017年に尚巴志のドラマを放映して2020年に第二弾の尚円王を放映している。インターネットで両方とも視聴してみた。尚円王についてもその即位に至る経緯については多くの説がある。ドラマでは沖縄で子供たちが学ぶ説とは少し異なったストーリーになっている。学校では、尚徳王が亡くなり、その幼い子供ではなく、群臣から推され金丸が何回か断った末に王位に就いたとされるが、ドラマでは尚徳王が久高島に愛人のノロ に会いに行っている間に、悪政を正すためにやむなくクーデターを起こしたというストーリーをとっている。子供たちは金丸は徳の高い人として教えられるが、正反対の説で、金丸は狡猾な野心家でクーデターは全て彼が巧妙に仕組んだと考えられているものもある。このドラマではこの二つの両極端な説の中間に位置づけられている。個人的にはこのドラマの説が近いのではないかと思う。
狡猾な野心家であれば、尚泰久の時代にクーデターを起こしているのではと思う。尚泰久の時代には阿摩和利や護佐丸で大きく変動した時代であったので、チャンスはあったと思われる。尚徳王の時代には既に年齢も55才で、クーデターを起こすには少し歳がいきすぎている。彼は武官ではなく文官であったから、この時代他の有力武官を力で従えることは難しかったと思う。尚徳王の家臣の多くが彼についてきたところを見るとやはり何らかの魅力はあったのではと思う。
定番の徳の高い人としたら、尚徳王の家臣が起こしたクーデターの後、王位を継ぐ最右翼は、尚泰久の正室の子である長男の金橋だったはず。尚徳王の悪政を正すのが大義名分であったはず。しかしクーデターで尚泰久や尚徳王一族を根絶やしに殺している。やはり野心はあったと思われる。
小那覇 (おなは、ウナファ)
中城湾に面し、太陽石油傘下の南西石油株式会社がある。その為に、工業団地が設置され、人口は人口は約2千人で9番目に多い字となっている。中城湾沿いは工場地帯で、掛保久と嘉手苅に近い地域に工業団地と住宅街となっている。戦前は仲伊保・伊保之浜・崎原という集落があったが、第二次世界大戦では日本陸軍が小型飛行機の東飛行場 (西原飛行場、小那覇飛行場、与那原飛行場とも呼ばれた) を建設し始めたが、米軍の侵攻で中止。その後、米軍が飛行場を完成させて使用。この時に仲伊保・伊保之浜・崎原集落は我謝に移動させられた。戦後、飛行場は放棄されて農地となっていた。小那覇はクシマモー付近で小さな集落を形成していたが、次第に南側の平坦地に集落が展開したといわれている。 聖地として琉球国由来記に、小那覇火神、寄揚森之殿の記載がある。 近世より小那覇湊があり、戦前まで与那原へ行き来する山原船が出入りしていた。 戦前まで尚家の別荘であった浜之御殿があり、東方海上には尚円王が釣りを楽しんだという内間高干瀬がある。 コージャ―米の名産地であったため、稲作に関連する豊作祈願の年中行事も盛んに行われてきた。かつて、ウマチージナとウファチジナの両綱引きや村遊びなどが行われた。
御衣脱瀬 (ンスジー)
御衣脱瀬 (ンスジー) はかつて内間高干瀬とよばれた珊瑚礁にあったが、現在埋め立てられ、南西石油精製工場の第3バースになっており、この近辺にあった。ここは南西石油精製工場の敷地内で立ち入ることができないので、千原から南に移動した際の国道34号線から写真をとった。この御衣脱瀬 (ンスジー) の名の由来が伝わっている。むかし、第一尚志の最後の王の尚徳王一族が、家臣のクーデターで殺害された際、家臣たちは内間按司であった金丸を王位に就かせようと鳳輦 (ほうれん) と竜衣 (王の衣装) をもって内間に赴いた。 金丸はこれを固辞し、東の伊保之浜 (小那覇の海岸) へ逃げたが、家臣たちも後を追い何度となく嘆願をし、金丸はようやくそれを受諾。その時に金丸が野服を脱ぎ、竜衣を着け、首里に上り、尚円王として第二尚氏王統の基を開いた。1469年のこと。後に、そこを脱衣岩、ンスジー (御衣脱瀬) と呼ぶようになったそうだ。この即位の経緯は第二尚氏王統の正史の「中山世譜 (1701年)」と「球陽 (1745年)」によるものなので、尚円の死後200年以上経ての編纂なので全てを信じることはできないだろう。
これが米軍が完成させた飛行場。1947年に米軍が作成した地図にも滑走路が描かれている。
才口ジョー (セーグチジョー)
小那覇の内陸部で殆ど内間御殿に近い場所に才口ジョー (セーグチジョー) がある。拝所には火ヌ神と部落の獅子が安置されている。『琉球国由来記』に寄揚森殿 (ユイアギムイヌトウン) の記載があり、これがセーグチジョーと考えられている。五月ウマチーや六月ウマチーには内間ノロによって祭祀が執り行われていた。小那覇集落で才口 (セーグチ) 門中は古い門中で、部落のタチクチ (創始家)、クニムトゥ (国元) であった。昔は、この地域は海岸線だったといわれ、才口 (セーグチ) の名の由来は潮口 (河口の意) に由来している。
今日は朝10時に出発し、帰ってきたのが夕方の7時で少々疲れ気味。これで西原町の半分の史跡は終了。後1日で残りをまわれるだろう。
質問事項
- 西原町の毎年緩やかな人口減少傾向はなぜ?
- 棚原の読み方:たなはら?たなばる?
- 棚原公民館は村屋 (ムラヤー)? アシビナーが少し離れすぎている様に思える。
- 棚原の石畳道はどこからどこまであったのか?集落の住民の為だけか?首里とか浦添への街道だったのか?