「エリザベス1世の統治術」6 結婚問題①スペイン
即位したときのエリザベスは結婚適齢期の25歳。まわりの誰もが、女王には、防衛上の保護者、政治を肩代わりする男性の補佐が必要だと考えた。しかし、エリザベスは密かに決意していた。姉メアリーの轍は踏むまい、めったなことで結婚すまい、結婚するにしても外国人の夫は持つまい、と。メアリーは、枢密院を脅し、議会をだまし、即位後半年もたたぬうちに反乱の火種をまき、反徒がホワイトホール宮殿(1530年から1698年まで王室の居住地)に突入しかねない騒ぎを起こした。しかしメアリーはそれらをすべてのりこえ、スペインのフェリペとの結婚にこぎつけるが、その代償は途方もなく大きかった。フェリペにとっては、妻もイングランド王国もハプスブルク家の大いなるゲームの駒にすぎないことが、じきに明らかになったからだ。エリザベスは姉の結婚の失敗から学んだ。
最初に花婿として名乗り出てきたのは、なんと姉メアリーの夫だったフェリペ2世。もちろんフェリペの思惑は全く政治的なもの。フェリペがエリザベスを掌中にできれば、これまで通りイギリスをハプスブルク家・カトリック圏内に置き、フランスに対抗できる。メアリー女王と違い、若いエリザベスは子を産む可能性も大きい。エリザベスとの間に子をもうけ、ハプスブルク家の血を引く子をイギリス海峡と北海を制する国の玉座に据えるのは、貿易上でも防衛上でも最大の利得がある。
この結婚話は、イギリスにとっても大いに旨みのある話だった。スペインが支配するネーデルラントは、イギリス最大の貿易相手で実にイギリスの外国貿易の3分の2がアントワープ港を通して行われていた。また、イギリスはヘンリー7世の時代から、フランスに対抗するためにスペインと手を結んできた。ヘンリー8世がスペインの王女キャサリン・オブ・アラゴンを妻に迎えた(最初の王妃)のも、両国の伝統的な外交政策に沿うものだった。スコットランド問題やフランス戦の戦後処理を抱えるエリザベスは、スペインとの友好を維持しなければならない立場にいた。
1559年2月初旬、スペイン大使フェリア伯爵はフェリペ2世の代理としてエリザベスに結婚を申し込む。しかし、エリザベスは喜ぶ素振りを少しも見せず「考えさせてほしい」と言い、態度は煮え切らなかった。
枢密院、議会、人民すべてが、エリザベスは結婚すべきという考えで一致していたにもかかわらず、エリザベスはその後フェリペ2世との結婚を含め、あまたの結婚計画を見送る。そんなことが可能だったのは、忠言が分裂していたから。ある者にとって薬になる人物は、別のものにとっては毒となったからだ。
そして、エリザベスが明確な意思表明をしない間に状況は大きく変わる。3月30日に、新しいスペイン大使に赴任したアキラ司教アルバロ・デ・ラ・クァドラは、ウィリアム・セシル毒殺の陰謀に首を突っ込み、イギリスとスペインの関係を一気に悪化させた。また4月2日から3日にかけてスペインとフランスの間で「カトー・カンブレジ条約」(長期におよんだフランスのヴァロワ家とハプスブルク家が争った「イタリア戦争」【1494〜1559】の最終的な講和条約)が締結。この条約に関連し、フランス王アンリ2世の妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルトの結婚とともに、アンリ2世の娘エリザベートとフェリペ2世の結婚が定められた。こうしてエリザベスとフェリペ2世の結婚は実現することなく終わった。
ところで、君主の結婚は重要な外交問題であるとともに後継者問題。この後継者について、エリザベスは当時にあっては驚くべき進歩的・革命的な思想を持っていた。即位後初めての議会でのスピーチでこんなことを述べている。後継者にこだわって、ジョゼフィーヌと離婚しマリー・ルイーズと結婚したナポレオンとの何たる違い。
「全能の神が、わたくしが結婚しないで生きるのをお望みになっても、恐れる必要はありません。神はそれをよき準備期間とされ、わたくしの心とみなさまの分別に働きかけ、よい時期をお選びになり、後継者をお与えくださいましょう。わたくしの胎から生まれる子よりも君主の資質に富み、おそらくもっともこの国のためになる人を遣わされるでしょう。わたくしの子はみなさまの好意に報いず、不親切で恩知らずな人間であるかもしれません。
最後に、女王はかくかくの間統治し、処女のまま生き処女のまま亡くなったと、大理石の墓石に刻まれても、わたくしは満足です。・・・」
そして結婚もせず、後継者も残さなかったエリザベスをもってテューダー朝は幕を閉じ、次期国王にはエリザベスが処刑したあのメアリー・ステュアートの一人息子ジェームズが即位しステュアート朝を開くのである。
カトー・カンブレジ条約を結ぶアンリ2世とフェリペ2世
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