2020年5月23日、何かを生み出す力を持つ僕たちが、忘れてはいけないこと。
大変悲しいニュースが、29歳の誕生日に飛び込んできた。
実は妻と一緒に、この番組はずっと見ていたし、木村花さんが入居したときも、東京ドームが決まって喜んでいたときも、恋の結果の一部始終も、見ていた。
この悲しい出来事は、なぜ起きてしまったのだろうか。
SNSを見れば、誹謗中傷していた人に矛先が向けられている。
「誹謗中傷する投稿をした人」が問題なのはいうまでもない。
だけど、ただそれだけを原因とするだけでいいのか、そんな単純な問題ではないとも感じている。
この問題に結びつくきっかけとなった、テラスハウスという番組。
男女6人の日常の中のシーン、一面が編集できりだされ、感情を揺さぶるBGMも加わり視聴者の解釈を促して、それを見る芸能人たちが好き勝手いって視聴者に届けられる。
僕からしたら、ほぼ同年代を生きる人たちの活躍を知れたり、飾らず頑張っている姿を見せてもらって、頑張ろうーという気持ちにしてもらったこともある。
ただ、今回の問題のように、一般人のマイナスな一面が切り出されて、そこに制作側の編集だけではなく、芸能人によって、一般人の日常が「笑い」に変換されて届けられていることが多い
そして、それが放映され、SNSで番組出演者たちがその日常のマイナスな面や、場合によっては容姿や職業だけで誹謗中傷されている。
ある放送では、そのメンバーが自分に寄せられた誹謗中傷を見て悲しむシーンまでも、撮影・放映されて、メンバー同士で支え合うシーンやそれに対して芸能人の持論が展開されていた。
なので、番組側は紛れもなく、出演する一般人が誹謗中傷を受けていること、それによって苦しい想いをしていたことを認知しているはずだ。
どうして、気づいたときに対応・対策がなされなかったのか?
(例えば、全く効力はないと思うが、番組公式サイトで「出演者への誹謗中傷について」みたいな公式な発信は、サイトを見ても一切見られない)
いや、もっといえば、なぜこういったリスクが起こり得ると、番組企画時に考えなかったのか?
(たぶん、考えていたのだろうけれど、それもエンタメにするというのが、制作側の決定だったのかもしれない)
出演者に対しての心のケアは行われなかったのか?
番組制作元となるフジテレビジョンとイースト・エンタテイメトにも、責任は間違いなくあると思う。
そして、僕を含め、それを見ていた視聴者も、今回の問題の当事者だ。
なぜ、違和感を感じながらも、番組を見続けてしまったのか?
出演者に誹謗中傷があることを知っていながらも、なぜ何もできなかったのか?
結局、僕たちは、違和感を抱えながらも見続けるという行為によって、番組を応援してしまった。
視聴者も責任を感じないといけないと、一視聴者として思う。
そして、SNSを開いて、出演者に向けた冷たい刃物のような言葉を投げてしまった視聴者。
なぜ、冷たい刃物のような言葉を紡いでしまったのか?
この言葉が届けられたら、あの人はどんな気持ちになってしまうのかと、考えなかったのか?
リテラシーを高める教育の拡充も、罰則論も考えなきゃいけないと思うけれど、それ以上に、ものづくりや企画や言葉も含めて、何かを生み出す力を持ってしまっている僕たちは、いいことも悪いことも考えを巡らせる「想像力」を持たないといけないのではないかと、今回の問題に限らず、感じている。
想像力はステキな力だ。
「あの人は喜んでくれるかな」と思って、言葉を考える時間も、そして言葉を届ける贈り先の相手がいることもステキだ。(誕生日に、それを改めて体感した)
「この企画が実現すれば、僕らのまちはよくなる」「この技術が完成すれば、足腰が悪い人に、歩く喜びを届けれる」と企画をつくることやものを生み出すときにも、想像力は、希望をつくり、誰かを幸せにする力がある。
同時に、想像力は、抑止力にも、相手を思う心づかいにもなる。
「この技術が進みすぎると、取り返しのつかない問題に発展する」という想像力があれば、立ち止まって、もう一度考え直すことができる。
「そういえば、彼最近忙しかったよな・・・」という想像力があれば、かける言葉を変えることができる。
だけど、想像することをやめてしまったり、怠ってしまうと、何かを生み出す力は、とんでもない凶器になってしまう。
自分だけが得をするような想像しかできないとき、そこから生み出したものは、巡り巡って誰かに深い傷を負わせてしまう。
今、自分が目の前で見ているものの”向こう側”を想像することができないと、大切なものを見過ごしてしまう。
想像することに限界はある。だから、知ること、学ぶことを僕たちは同時にし続けないといけない。
でもこの世の全てを知ることなんてできない。
だから、持っている情報や経験や教えから、想像することをしていかなきゃいけない。
そして、次の世代に、同じ問題が起きないように、リテラシーも善悪も含めて考える力、想像する力を育てていかなければならないのだと思う。
いろいろなことが加速度的に変わっていって、便利になりすぎた社会で、僕たちは想像力を失ってしまったのかもしれない。
誹謗中傷をした人だけではなく、このリスクの可能性をわかっていながらも番組をつくり続けた制作元、それを見続けた視聴者の僕たちも、この問題を引き起こしてしまった。
あのとき視聴しながら傍観してしまった一人として、1人の命を救えなかったことを悔やみながら、このことを記しておきたい。
そして、何も解決策は持っていないのだけれども、想像する力は持ち続けていたい。
木村花さんのご冥福を心からお祈りいたします。
ただただ、悲しいです。