奉天会戦 知られざる一兵士の歴史
元・姫路歩兵第三十九聯隊歩兵一等卒 西田常次氏・顕彰モニュメント
建立から八十七年を経た今、声なき顕彰碑が語る「沙河会戦、奉天会戦」‥
武勲を称える碑文の行間に刻まれた殉難者の悲痛な思いに心を寄せ、
以て戦争の悲惨さと愚かさを後世に語り継いでいただければ幸に存じます‥。
陸軍歩兵一等卒は、その時どのように戦ったのか? そして、没後百十五年という時空を超え、何を現代に伝えようとしているのか?
このモニュメント(顕彰碑)との出会いは、一本の電話により始まった。
4月中旬の昼下がり、私の歴史ガイドにいつも参加下さる、さるお方からの
携帯電話からである。
『渡邊さん、加古川の中心部で、元・姫路歩兵第三十九聯隊所属の兵士の顕彰碑が見つかりましたよ!見つかったのは、「河原」の信号の直近で、最近まで気が付かなかったのですが、いつも見慣れた大きな林が伐採され、よく見てみると立派な顕彰碑、というよりも、モニュメントが忽然と現われていたんです。加古川の中心部に、このようなものがあろうとは、想像もできなかったですよ。驚きましたね!』と‥。
翌日、早速に現地を訪れてみたが、その礎石の大きさは、なんと縦横各2メートル、高さ3メートルという堂々とした、まさにモニュメント(建造物)であった。周囲を観察してみるに、確かに最近において、かなり大きな木が伐採された切り株が五つ六つ残っており、永きに亘り、これらイチョウの木で囲われていたことは、容易に理解することが出来た。本年1月に、私が同聯隊の歴史パネル展を駅前で開催した、いわば直後のことと思われ、何か因縁めいた気分に駆られながら、観察を始めることとした。
第三十九聯隊(れんたい)の概要と本“歴史ガイド書”起稿の動機
「姫路歩兵第三十九聯隊」は、明治三十一年三月二十四日に姫路城下で創設(軍旗授与)されたが、他の部隊と異なり、「突撃、切り込み部隊」に特化した部隊であったこともあり、屈指の精鋭部隊としてその名を轟かせた「聯隊」であった。それゆえに、聯隊として、終戦まで、三度にわたり感状を授与されたが、兵士の損耗率も大きく、大東亜戦争末期には、フィリピン・ルソン島において壊滅状態となった、正に悲劇の聯隊でもあった‥。
この顕彰碑の主人公である西田常次氏は、百十六年前(明治三十七年)に勃発した日露戦争における壮絶で後世に語り継がれている「沙河会戦」その翌年三月二日、日露戦争の勝敗を決するといわれた「奉天会戦」に参戦し、加古川氷丘村出身男子として、勇猛果敢に戦ったが、悲運にも敵銃弾により、壮烈な最期を遂げた。
日露戦争、とりわけ、西田氏が殉難の士となった「奉天会戦」とは、どのような戦いであったのか‥?氏のみならず、この激戦において斃れた数多の兵士の御霊に鎮魂の誠を捧げつつ、戦争が引き起こす筆舌に尽くしがたい戦いの悲惨さの一端を、氏が殉死した「万宝山攻略作戦」に焦点を当ててここに紹介し、平和を希求する郷土の後人が、さらにその意志を強く永続されんことを願う他ありません。
碑文の主人公はどのような戦歴を辿ったのか?
碑文と感状を読み解き、「姫路歩兵第三十九聯隊史」より氏の戦歴すべてを辿っみる。
歩兵第三十九聯隊の初陣と遼陽会戦
聯隊は、明治三十七年五月七日に姫路を出発、徒歩行軍により、八日神戸着。湊川神社に参拝の後、十日には、十数隻の輸送船に分乗して上陸地点に向かった。率いる聯隊長は、安村範雄大佐であった。
上陸後、直ちに大狐山に向い、岬巌まで前進、そこでの敵抵抗は微弱であったため、二隊のみが銃撃戦を交え、翌日には、敵は軽戦の後に退却した。
同日、三十九聯隊は難なく岬巌(遼寧省)を占領し、初陣を飾った。その後、八月から九月にかけて聯隊は遼陽に向かい、九月二日から敵本陣に対する攻撃を開始した。
九月三日には、三十九聯隊が主力となり、早暁より、敵60~70門の砲兵が一斉に我が聯隊に機銃を浴びせかけてきたが、弾雨を凌いで敵の堡塁に突撃し、これを占領した。この遼陽本陣への攻撃で、三十九聯隊の第1大隊長、秋山芳隆少佐は、壮烈な戦死を遂げた。三十九聯隊は、八月二十五日から遼陽攻略の間、連日戦闘と行軍を続けた。昼は炎暑、夜は秋冷そして、また激しい降雨の中で、宿るに家なく、水も燃料もなく、炊飯ができず、生米をかじって行動する日が続いた。このような連日の惨列な戦闘のうちに空腹と病魔に悩まされながらも、偉大な戦果を収めた。
39聯隊は、この会戦のほか、付近で激戦を展開し、大苦闘したと、伝えられている。本会戦の結果、堅固を誇った遼陽の堡塁は、日本軍により全て陥落した。
本会戦によるロシア軍の損害は、約25,000人で、日本軍も、ほぼ同じ損害を被った。なお、三十九聯隊の損害は、戦死:将校3名下士卒81名で、計84名。戦傷:将校6名下士卒:3。
沙河会戦での「三塊石山」大夜襲の決行
~ 「血染めの軍旗」由縁戦い~
碑文に刻印された「感状」によれば、西田氏は、「三塊石山」の戦いで、十月十二日、多大な功績を挙げた、とされている‥。(氏が殉死するたった五ケ月前の戦いであった‥。)
明治三十七年年九月下旬頃から、ロシア軍の行動は、逐次活気を呈してきた。特に、我が第1軍の右翼方面に対する動きが活発化し、九月十七日には、すでにレンネンカンプ騎兵団と、サムソノフ支隊は、本渓湖に来襲し、我が梅沢旅団との交戦が始まった。満州軍総司令部は、いよいよロシア軍が迫ってくると判断し、十月十日各軍参謀長を集め、敵の機先を制して十日を期して全軍攻勢を開始するよう命じた。三十九聯隊は、十月十日早朝、師団の前進部隊として玉門子北方高地付近に進出し、次いで、「三塊石山」南方の高地を占領して、師団主力の進出を援護した。
戦局はいよいよ両軍激突の様相を呈してきた。第4軍は、「三塊石山」の攻略を企図し、十一日、各兵団に攻撃命令を出した。三十九聯隊(安村聯隊長)は、右翼支隊として「三塊石山」の右側を攻略すべく、
双子山に向かった。その夜、川村師団長より夜を徹して攻撃するよう命令が下った。
攻撃目標を、双子山としたが、「三塊石山」方向より激しい銃声が起こり、その飛弾は三十九聯隊にも及んだため、ついに午前3時、攻撃目標を「三塊石山」に変更する命令を下した。聯隊が敵前200mくらいの位置に達した時、突如一斉射撃を受け、たちまち数十名の死傷者が出た。しかし聯隊は応射することなく、一歩ずつ敵陣に近づいて行った。敵は、村落の外郭陣地に後退し、再度激しい射撃を続け、我が方の損害は増すばかりとなった。安村聯隊長は、このままでは全滅の恐れがあると判断し、敵陣地に突入することを決した。聯隊長は、ラッパ手に『君が代』を吹奏させ、続いて大声で「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし!」と兵士を鼓舞し、自ら軍旗を保持して陣頭に立ち、全線をあげて、敵陣地に突入して行った。聯隊長は、突進中、腹部を貫通する敵銃弾を受け壮烈な戦死を遂げた。
この壮烈な光景の中で、将兵の士気はますます上がり、獅子奮迅の突撃を敢行した。軍旗は、山脇少尉が変わって奉持し、突進を続けたが、敵の機銃は、ますます熾烈を極め、一弾は旗竿を貫き、旗手に命中、山脇少尉も戦死した。二人の旗手の鮮血がほとばしって、軍旗は紅に染まった。これが、後世まで語り継がれることになった『血染めの軍旗』の由来である‥。
このようにして、軍旗は一時、聯隊副官である、宮川大尉によって奉持され、次いで第三の旗手、加藤大尉の手に移された。軍旗が、「三塊石山」の頂上に翻ったときには、第4の旗手、長山少尉によって奉持された。このように短時間に旗手の保持者が5名にもなった例は他にはなく、いかに、この会戦が激しかったかを物語るものである。その後、「三塊石山」の東麓、続いて中腹陣地を占領した。わが軍は、使者を送って、投降勧告したが、敵側からは、返答はなく、残敵約200名は、この地を死守する決意であることが分かった。わが決死隊は、ついに火攻めのため、弾雨を冒し多数の戦死者を出しながら村落に突入、家屋に火を放って掃討戦を開始した。守兵は、誰一人投降することなく、200名ことごとく戦死し、39聯隊はようやく部落を占領した。時に翌日の午前八時であった。
わが軍も勇戦したが、ロシア軍もまたよく戦った。三塊石山は、十里河河畔を一望に見渡せる、戦略上の要所で、クロパトキン将軍は、この点を重視し、「三塊石山さえ死守すれば日本軍に勝利するであろうと」考え、最強の精鋭部隊を投入していた。我が聯隊は、まさにこの強敵と対峙、死闘を展開したのである。聯隊が投降勧告を出そうとした際、すでに日本軍の捕虜となっていた名誉聯隊長代理は、「死すとも投降するなかれ」と訓示した自分が、どうして投降勧告に行けようか、と言って拒否したという。クロパトキン将軍は、ノウチェルカスキー聯隊長を呼び、「絶対に降伏してはならぬ」と厳命したと言う。敵ながら“あっぱれ”という他はなかった。
奉天会戦での「万宝山攻略作戦」
会戦前の状況
大本営が明治三十七年十二月下旬に得た情報によると、ロシアは本国において動員を継続中であり、新たに一軍を編成してこれを吉林または浦塩に集中し、日本軍の右側面を攻撃する企図があることがほぼ確実となった。一方、この頃、満州軍の左翼方面にて「黒溝台」の会戦が始まろうとしていた。
これを受け、翌三十八年一月二十二日、総司令部は結氷末期における作戦計画を決定した。
第四軍傘下の「第三十九聯隊」に課せられた任務、作戦計画は、『現陣地において、敵に対していつでも攻撃できる体制を準備しておくこと。』であった。
大山司令官の訓示
1. この度の会戦は、日本軍はその全力を挙げ、敵もまた満州において使用し得る最大の兵力を傾けて勝敗を争う最も重要な会戦であり、正に日露戦争の「関ケ原」である。
2. この大会戦においては、土地を略し、塁を陥れることは主眼ではない。ロシア軍主力を壊滅して再び立つことが出来ないように作戦を指導しなければならない。
3. 伝えるところによれば、クロパトキン大将は、部下将兵に対して「断じて退却を許さない。退却する者は刀剣によって罰せられる。」と訓示しており、その決意の固さのほどが察せられ、我が軍は頑強な敵と対することを覚悟すべきである。~以下略
攻勢実施
二十五日頃になると敵の有力な兵団が当方に移動し、鴨緑江軍の牽制効果が出てきた。
奉天会戦において、三十九聯隊を含む第四軍は、他軍が機動・戦闘を繰り返す作戦に対して、堅固に構築された敵陣地に対して終始正面攻撃という最も困難な作戦に当たった。それは突撃部隊としての宿命であった。そして、この第四軍の強力な正面攻撃によって敵は拘束され、我が両翼軍の包囲運動は容易に行われたのである。
第四軍の右翼に位置していた第十師団の正面には最も堅固に構築された塔山・万宝山の堡塁があった。
西田一等卒は、この一週間後に雨、霰の様に撃ち出される敵銃弾を受け、当時“名誉”と言われた戦死‥「殉難の士」となるのである。
攻勢開始
明治三十八年三月一日、総司令官である大山巌元帥より我が四軍(伯爵野津道貫司令官)に対して、本日より「万宝山」の敵に対して攻撃を開始せよ、との命令が下った。対するロシア軍の総司令官は、クロパトキン大将であった。ここに奉天会戦における「万宝山攻略作戦」の火ぶたが切られたのである。
その翌日の三月二日、我が「歩兵第三十九聯隊(丸山直寛中佐)」は小東勾に向かって前進。まもなく第1大隊を左翼隊の歩兵第二十聯隊の右に展開してその攻撃を援助した。
左翼隊であった我が旅団の進路は平たん地で、しかも、西北の万宝山から瞰射されて、前進は容易ではなかった。幸い、午後になって吹雪となり、風向きが敵方に向かったので、部隊は比較的容易に接敵して行った。ところが、敵前至近距離に至って、万宝山・胡老屯付近の敵の歩砲兵機関砲が一斉に掃射を開始してきた。我が第十一中隊は、「小東勾」を出てわずか二時間で百二、三十名の死傷者を出した‥。
この頃、今橋旅団長は胸部貫通の重傷を負い、旅団司令部の幹部も殆ど死傷するに至り、旅団長に代わって歩兵第二十連隊長前田大佐が、旅団の指揮をとっていた。我が第一線は、敵前約百米の至近距離で、辛うじて雪片・土砂を集めて軽易な掩体を作ったが、万宝山の加農砲・機関砲は間断なく我に射撃を加え、死傷者は甚大な数となった‥。
明治三十八年三月二日、顕彰碑の主人公である西田常次氏は、姫路歩兵第三十九聯隊・第二中隊歩兵一等卒として、まさにこの日、奉天会戦における激戦となった万宝山攻略作戦に参戦し、以上に記した地獄の如き戦線で、雨あられのように銃弾が飛び交う中、壮絶な最期を遂げたのであった‥。
絶命間際、胸中によぎった氏の無念さは、いかほどのものであったか、計り知ることは、到底不可能であろう‥。
このモニュメントの存在は以前より知っている、という方にお聞きした話によると‥、
『今年の1月頃でしたか、これまではうっそうとした林でしたが、その木が伐採されておりました。それまでは人目に付くこともなかったと思うんですが‥、比較的近くに住んでいるので、よくこの辺りを通りますが、殆どお参りされる方はおられないように見受けますねぇ。』
当初、私はこのモニュメントについて稿を起こすという強い意志は持ち合わせて居なかった。しかし、この方のお話を伺い、その考えは一転した。なぜなら、この碑は、永きに亘って既に「忘れられたモニュメント」では‥?と、危惧したからである。碑の背面には、「昭和八年二月氷丘村」と印刻されている。没後二十八年にして建立されたその理由は知る由もないが、当時、村を挙げて建立に携わったことは容易に想像でき、氏とご家族は村の誉れでもあったのだろう。遺されたご家族にとっても、碑が建立されたことで、多少なりとも癒されたことだったろうと想像される。それから八十七年もの時が流れた現在、往時の人々の思い‥その時間が昭和八年二月で止まったまま現在に至っているとしたら‥いずれ、この碑は消滅する運命にあるかもしれない‥そう考えた時、なぜか一抹のむなしさを感じるのは私だけだろうか。縁もゆかりもない方ではあるが、仮にそういう運命(碑の消滅)に至らざるを得なかった場合、せめてその殉難者への供養の意味でも、つたない郷土史ガイド書の一つとして、後世に繋げてあげたい、そう考えて稿を起こした次第であります。
会戦の結果
奉天会戦は、主戦線で東西約百キロメートル、両軍の兵力合計約八十万、砲約二千五百門の大軍が広大な山野に展開し、十二日間に亘って激戦し、古今東西(この時代まで)その例を見ない大会戦であった。そしてその結果は、日本軍はロシア軍に対して2~4倍の損害を与え、ロシア軍は「鉄嶺」に留まることが出来ずに「公主嶺」までの退却を余儀なくされた。
彼我の損害であるが、これについては、ロシア側、日本側、およびソ連の研究資料等により、その数字はまちまちであるが、大体において日本軍死傷者数は五万人以上、ロシア側のそれは、死傷者と捕虜を含めて十万人以上と推定されている。
なお、歩兵第三十九聯隊の損害は以下の通りであった。
戦死‥将校:10下士卒:193計203
負傷‥将校:24下士卒:794計818
総計‥1,021名
※日露戦争の戦没者名簿の完全な記録はない。ただ大正九年に編纂された聯隊史所載の名簿によると、少尉以上将校30名のみが記載されている。これが正しいとしたら、奉天会戦のみで、1/3の将校を失ったことになり、この戦いの激しさが容易に推察されるのである。
モニュメントに印刻された感状、碑文の内容(独自解析)
引用文献(含・写真等)1.引用文献:「姫路歩兵第三十九聯隊史」昭和58年3月24日刊行編集者‥歩兵第三十九聯隊史編集委員会発行者‥歩兵第三十九聯隊史軍旗奉賛会発行部数300(退営者にのみ・総ページ数847)