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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

日本宣教21-李舜臣の勝利、明参戦

2020.05.26 11:04

小西行長は必死に朝鮮を攻めた。実は彼は早期講和派だった。ともかく緒戦で日本軍の実力を見せつけ、朝鮮王と講和してしまう作戦。第二陣の加藤が来ればこの作戦はフイになる。そのための猛攻だった。平壌まで王を追い詰め、会見に持っていくつもりが、王は明に逃げ込んでしまったのだ。

釜山から平壌まで、兵站線は伸び切っている。そして明に攻め入れば大ごとになる。小西は平壌に留まらざるを得ない。日本軍は「八道国制」を決めて各地の制圧にあたった。だが制圧だけで民は治められない。フロイスが言うように「敵方の地理や言語も全く知らない」のである。

毛利輝元は「御人数にてはこの国治めは、なかなか人が有るまじく候」と太閤に手紙を書いている。そして1592年5月より李舜臣率いる水軍が日本水軍を打ち破り、制海権を取られると、補給が釜山からの陸上ルートとなり、各地でゲリラが活発化し、日本軍は消耗させられることとなった。

行長は明参戦の可能性を否定していたが、遂に明は参戦。1593年1月第三次平壌の戦いで、火砲戦に明が勝利した。明・朝鮮軍は開城に入城したが、碧蹄館の戦いでは日本軍が勝利。戦況は膠着し、双方とも講和を模索するようになった。日本側代表は小西そして明側が沈 惟敬である。

下は李舜臣の復元された亀甲船