「エリザベス1世の統治術」7 スコットランド女王メアリー①略歴
エリザベス1世はヘンリー8世の娘であり、スコットランド女王メアリー・スチュアートはヘンリー8世の姉の孫であり、二人はともにヘンリー8世の王位継承権者。しかも両者はプロテスタントとカトリック。このことがイングランドとスコットランドだけではなく、大国スペインやフランスを巻き込んで16世紀後半のヨーロッパを動かしていった。そのため、エリザベスの統治術を理解する上で、メアリー・スチュアートの理解は避けて通れない。まずその概略を見てみよう。
1542年 誕生 父の急死で生後6日でスコットランド女王に即位
1558年 フランス王太子フランソワと結婚
1559年 アンリ2世の急死によりフランソワ2世即位、メアリーはフランス王妃に(7月)
フランスはスコットランドだけでなくイングランドの王位継承権も獲得
→ スペインは危機感
1560年 フランソワ2世病死
1561年 スコットランドに帰国
1565年 メアリーは従弟ダーンリー卿ヘンリーと再婚
ダーンリー卿は父ジェームズ5世の妹の息子=ヘンリー8世の姉の孫
→ メアリーの王位継承権が強化
夫婦関係悪化 メアリーは秘書ダヴィデ・リッツィオを寵愛
1566年 リッチオ殺害事件(3月)
長男ジェームズ誕生(6月)
1567年 ダーンリー卿殺害(2月)
ボスウェル伯と再婚(5月)
反ボスウェル派の貴族たちが反乱→反乱軍に投降、ロッホ・リーヴン城に幽閉(6月)
廃位(7月)
1568年 ロッホ・リーヴン城を脱走、挙兵、敗北、イングランドへ逃亡→幽閉(19年間)
たびたびイングランド王位継承権者であることを主張し、エリザベス廃位の陰謀に関係
①「北部貴族の反乱」②「リドルフィの陰謀」③「スロックモートンの陰謀」
④「バビントンの陰謀」
1569年 「北部貴族の反乱」
メアリーの解放とノーフォーク公トマス・ハワードとの婚姻を策動
1570年 「リドルフィの陰謀」
ネーデルラントからアルバ公指揮のスペイン軍がイギリスに侵入し,これに呼応して
イギリスの旧教徒も蜂起し,エリザベス1世を廃位して代りにメアリー・スチュアート
を即位させ,しかも彼女を旧教徒の4代ノーフォーク (公)と結婚させようという陰謀
1583年 「スロックモートンの陰謀」
スペインの後援を得てフランスのギーズ公が軍隊を率いてイギリスに上陸,これに
呼応して国内カトリック教徒が決起し,エリザベス1世を殺害するとともに,幽閉中の
メアリー・スチュアートを救出して王位につけるという陰謀
1586年 「バビントンの陰謀」
イングランド国内カトリックやスペイン軍の助力を得てエリザベス女王を殺害し,
代りにメアリー・スチュアートを王位につける,という陰謀で,暗殺計画はかつて
メアリー・スチュアートの小姓だったアンソニー・バビントンが担当
→ メアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑判決
1587年 処刑
「Highland Queen 1561」
1561年はメアリーがフランスからスコットランドに戻った年。この時上陸した場所がリース。そしてこのスコッチウィスキーを製造するマクドナルド&ミューア社は1893年にリースの地に創業した。
「ハイランド・クィーン 1561」
ロバート・ヘルトマン「フランスを去るメアリー」
ウィリアム・フリス「1561年フランスを去るスコットランド女王メアリー」
1561年メアリーのスコットランド上陸