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御嶽山御嶽神明社

一関の昔の年中行事

2020.05.27 08:45

はじめに

 年中行事は、「目に見えないものと現実に生きる人(あるいは共同生活体)との呼応または交渉が一定の期日に行われ、それが永く固定して伝承された」ものであり(森口多里「岩手県の歳時習俗」)、「生業と深く結びついており、神霊に豊かな幸を祈願する予祝儀礼と、それへの感謝と祝福を込めた収穫儀礼を軸とする生業儀礼が年中行事の中核となっている」といいます(白石昭臣「正月と盆」)。その調査によって、「一つの土地、一つの家だけに限られた特色でなく、汎く日本という国に住む者の共に知り、共に守ろうとしていたものが、いかなる慣習であったかを明らかにし」(柳田國男『年中行事覚書』)、また「総て永く継承したる習慣には、何等かの理由の存するが故に、学者は須らく其所以を捜索すべきもの」(新渡戸稲造『増訂農業本論』)とされてきました。

 明治維新後、暦日は太陽暦によることに改められましたが、農村においては農作業に適応する陰暦が用いられ、昔ながらの年中行事が行われてきました。行事の日は農作業を休み、ご馳走をつくってお祝いしたので、楽しみに待っていたものでした。しかし戦後新生活運動の一環として太陽暦への全面切り替えが実施され、また農業経営の多様化によって、一部を除いてほとんど廃れてしまい、昔ながらの素朴さが失われ、味気ない世の中になったと嘆く老人も少なくなかったといいます(『東山町史』)。

 宮城県の農村部で全面的に太陽暦が用いられるようになったのは、昭和四十年代に入ってからのことであり、いまだに社寺の祭祀は旧暦または一月遅れで行われているのが一般で、盆行事は一月遅れの八月になりました。岩手県南の農村でも同様に旧暦が用いられました。しかし昭和四十年代半ばを過ぎると、農作業の機械化が進み、作業が一か月以上早められ、太陽暦の周期とほぼ一致するようになり、昭和五十年代にはいかなる山村でも新暦に改められました。作業の機械化は、厳しい作業にリズムや弾性を持たせる必要がなくなり、さらには農村生活の様式まで変容するにつれ、歳時習俗などの伝統文化は急速に衰微し、その断片的な部分だけが行われるようになったといわれています(三崎一夫「宮城県の歳時習俗」)。

 以上の状況を踏まえて、岩手県一関市内における、農作業に旧暦が用いられていた昭和四十年代までの主な年中行事について、自治体史や公民館等の資料をもとに確認したいと思います。

 なお、参照資料は次の通りです。阿部正瑩『厳美地方の民俗資料』(昭和六十年)、一関市史編纂委員会『一関市史』第四巻(昭和五十二年)、弥栄中学校『郷土誌 弥栄の里』(昭和四十八年)、佐藤恭『永井村史抄』(昭和五十七年)、老松公民館『おらほのしきたり』(平成九年)、猿沢地区老人クラブ連合会『おれたちの若いころ』(平成七年)、東洋大学民俗学研究会『旧中川村の民俗』(昭和四十八年)、磐清水公民館『ふるさとの行事と行事食』(昭和五十七年)、小梨公民館『おらほのならわし』(平成六年)、東山町史編纂委員会『東山町史』(昭和五十三年)、室根村史編纂委員会『室根村史』下巻(平成十六年)、川崎村教育委員会『川崎村の年中行事と農民のくらし』(発行年不明)、藤沢町教育委員会『村の歳時記』(昭和五十九年)。

 このページには行事の名称のみを記しました。各行事の内容につきましては、電子書籍『家庭のまつりと年中行事』(御嶽山御嶽神明社発行、令和二年)に収録されていますので、ご興味のある方は、Amazon のサイトからご覧になってみて下さい。

一 正月行事

(一)正月の準備

(二)正月行事

(三)小正月行事

二 春・夏の行事

三 七夕・盆行事

四 秋・冬の行事

むすび

 岩手県一関市内で昭和四十年代まで行われていた主な年中行事を見てきました。このほか毎月の行事として、東山の農家では一日・十五日・二十八日に、氏神様や水神様、明神様に参詣することを、つい最近まで励行し、現在でも実行している家があるといいます。各家庭の年中行事の調度品は、基本的に手作りであり、一部を町で買い求め、あるいは神社から受けて行事の準備をしています。町の市や社寺は、主体者である家々の行事の手助けとして箕や幣束などを頒布し、また参詣の場を整備していると考えていいと思われます。また、厳美の煤はきのように、行事にあたっては家族が協力し、互いを思いやる様子がうかがわれます。一関市は餅文化のまちといわれます。それは正月、春、夏、盆、秋、冬、折々の年中行事に、餅や団子を神々や先祖に供えて拝礼し、家族一緒にいただく風習を尊び、伝承してきたことと関わりが深いと考えられます。