日本宣教22-内藤如安の独断講和
2020.05.27 11:46
小西行長は堺の商人あがりである。大明と戦争するより、交易したほうがよいのはわかりきっている。しかし事ここに及んでは、明と交易するには、明に朝貢貿易をするしかない。ところが太閤の講和条件は明皇女を来日させ、朝鮮4道を割譲とか無理なものばかりである。行長らはこれを無視する。
3月、日本と明で講和会議が行われ、明偽装勅使が日本に派遣された。秀吉にはお詫び来日だと告げられた。そして日本から明に使者が送られたが、その人たるや小西の参謀となっていたキリシタン内藤如安だった。如安は、足利義明に従って追放された後、小西の幕下となった。
如安使節は、明入りするが遼陽で長く足止めをされてしまう。その交渉案はなんと行長が沈と独断で作成した日本が明の属国を認めるという「関白降表」だった。さらに行長や石田らがが日本を代表する大都督となる。これが成功すれば、行長や石田は海外貿易を取り仕切って強い権力を握れたのである。
1593年12月、1年以上待機の後如安使節は北京入りして講和に臨んだ。ところが明側はさらに、日本との通商も拒否した。これはゼロ回答以下である。しかし如安は自分の独断で了承し講和した。彼は筋金入りのキリシタンである。皇帝に逆らって神の意志を貫くのは、聖セバスチャンなど枚挙に暇がない。
下は小西行長と沈 惟敬